「また遊園地行きたいね」と水色、「今度はちゃんと二人で行くぞ」と紫色。そのすぐ隣に書かれた紫色の輪っかに、水色でキラキラマークがたされ、耳も足される。
次に返された時には、お揃い~とゆるっとした文字が何個か足されていた。字面でもやかましい。
ふふ、とつい笑みがこぼれる。はっとして隣の窓を見ると、窓枠に身を乗り出して単語帳をじっと見ている文也のつむじが見える。きこえていなかったのか、よかった、と胸を撫でおろした。
文也は時々、おれが笑うと眩いものを見たように、繊細に顔をほころばせて笑う時がある。その笑みは、親友であるおれでさえちょっと、ぞくっとする。おれに向けられているとは思えないほど、なんというか、愛情に深くて綺麗な笑顔だから。
水色が「地理むずい~」とわめく。紫色が硬い文字で「有名な古期造山帯の山脈」と下に続け、水色が「グレートディバイディング山脈!!!!!」と続いた。ビックリマークが多くてかわいかった。文也は一年生のときからこの単語が好きだ。花丸をあげてから、あとふたつ。と続けた。今度はなんて返って来るかな。
文也が好きな、語感がいい長い名前が多いからきっと答えられると思う。ウラル山脈は例外か。
おれは少し悩んで、ノートの最後に「文也はおれのどこが好き?」と書きつけた。こっ恥ずかしい気もしたが、背に腹は代えられないと思って、照れ隠しにいそいでノートをパタンと閉じる。その音で文也が顔を上げた。もう終わったのかと聞かれて、頷いてノートを渡す。お願いだから明日見てくれと頼んだ。文也が不思議そうにしながらも「おっけー」と頷いた。
それが悪手だと気付いたのは、いつものようにじゃあ明日と窓を閉めてカーテンを閉めて眠りにつくときだった。
さっき自分の手で書いた「おれのどこが好き」の文字がまぶたの裏に浮かんで、足の裏がざわざわと粟立つ。なんだか落ち着かなくて、ベッドから降りて無意味に部屋を右往左往した。明日は絶対に文也とは登校しない、と決めて。
翌日、昨日の約束の通りにいつもよりも数分早く家を出て一人で登校した。朝の自習をしようと資料室の鍵を開けて、中でぼうっとしていると、突然ドアが開く。文也だった。
怒っているのかと思ったが、急いでやってきたらしい文也はおれの顔を見るとすぐにふらりと床にうずくまった。
「てんちゃんさあ」とおれのようなぶっきらぼうな声で呼ばれ、なんだと返事をするとなぜか眉をへちゃりと下げて頬を紅潮させ、困ったような顔をした文也に「ずるいよねほんと……」と言われた。何が何だか分からなかった。
ちなみに、その返事には、
照生がバレーやってるとき、レシーブしてからすぐに立ちあがってスパイクの予備動作して、助走距離もとらないままネット際スレスレのトスをインナーで決める。そのあとすぐにサーブがきて、ルーティーンのあと、目開いて、絶対にサービスエース取るって顔でジャンプフローター、ネットに当たって、相手コートが乱れて、その手でスパイク決めて一点。
バレーを全力で楽しんでる照生がきらきらしてて、楽しそうで、憧れてるよ。
と。
最後の一行は何度も書き直されたあとがあった。鉛筆ではなくてペンで書いているから、修正テープを持っていない文也は書き間違えると上から何度か線を引いて消してしまうのだ。
「……なんて書いてるんだ、これ」
文也がおれに伝えようとして、結局やめてしまった言葉。好奇心に駆られて、紙の凹凸を指先でなぞってライトに透かす。 ぐちゃぐちゃに乱れた線の中に、一つ、認識できる文字を見つけたとき、おれは顔を真っ赤にしてベッドにうずくまった。
その文字が、脈絡もなく書かれたきれいな、「好き」だったから。
その後に書かれた「じゃあおれのなおしたほうがいいところあったら教えて」の質問に、「全部好きだから必要ない」とろくに頭で考えもせずに書いて渡したら、今度はふだん飄々としている文也が昼休みの途中で、ノートを胸に抱えて顔を真っ赤にしていた。
なんとなくピンときて、恐る恐る「もしかして読んだ?」と聞いたら、文也は顔を上げないまま「家宝にする」と小さい声で言った。それを見ていたらおれもなんだかおかしくなってしまって、照れ隠しに「ね、嘘だから、冗談だから、何なら今からでもなおした方がいいところ話してあげるから、ほら、ストレートネックとか、ね、ね」と口走ったが、文也が嬉しそうにふにゃりと笑っていたのでもうなんでもよくなってしまった。
ちなみに、その三日後に、同じようなことをもう一度繰り返して戸田野田コンビに「またやってるよ犬も食わないやつ」と評された。
――文字に書くこと。
言葉にするには少しだけ重くて、胸に秘めておくには熱すぎる感情を吐露する機会。
あえてなのだろう、文也は自分で好きな人とのことを書かなかった。恋愛の話題とはいっても、「こういうことがあったらどうする?」みたいな究極の選択方式だったものが多かったし。心理テストなんかも多かった。動物を選べと言われて選んだら「恋愛に関して自分に自信がある」とか、道を選べと言われて選んだら「てんちゃんは一目惚れはしないタイプで友達だと思っていた人に気付かないままずっと片思いしてるタイプ」とか。
だから、最後のページに近づく度、文也からの質問がだんだんと熱を帯びてくる度に胸がざわついた。
恋愛嫌悪までは言わずとも、恋についてあまり詳しくはない上特段興味もないおれには答えずらいものだったけれど、決しておれが嫌だと思うようなことは訊かない細やかな気遣いに嬉しくなった。ああ、そうか。文也は、いつだっておれのことを理解しようとしてくれるんだと思って、反対に自分も文也に対してはそういう努力は惜しまないだろうなと思ってむず痒くて一人でベッドの上で照れて唸っていた。
真新しいパッションピンクのノートがだんだんと折り目がつき、ページの端が広がり、終わりが近づいてくる。なんだかんだ言って楽しかったから、これが文也の気まぐれだとしても、なにか彼にとっての手助けや息抜きになっていればいいなと思いながら、「なんだかんだ言ってめちゃくちゃ楽しかった」「文通ってロマンだな」「遊園地のときに文也が手紙で告白するのもいいって言ってた理由がわかる気がする」と綴って、最後の見開きのページを埋めた。あとは背表紙のほうにある片開きのページだけだ。
翌日渡して、その放課後に返ってきた交換日記の最後のページに一言、水色のペンで、
「新しいノート何冊か用意してるから選びに来て」
と書いてあったときは、ぎゅっとノートを握りしめてつい窓から顔を出して「文也! ほんとお前のこと大好きだ!」と叫んでしまった。文也は少し呆れたようにため息交じりに、俺も楽しかったから、よければやろう、と笑ってくれた。
幸せな日々だ、と、おれは思った。文也がいる。学校も楽しい。バレーボールも、できている。もっともっと強くなって、全国で一番を取ってやると思った。
今ならできると、思った。
だから、忘れていた。
ずっとずっと楽しくて、もう自分には関係がないのだと思い込んでいた。
本当に、愛も恋も、まったく碌でもない。
自分の価値に躍起になって、暴力を正当化した挙句に人を傷付ける。おれの大事な人を傷付ける。
そしておれもまた、傷付いていく。
思い描いた夢はいつだって、おれが手を伸ばす前にまた誰かの血に濡れて、どこかへと奪われていく。おれはそれをただ、黙って、唇を噛んで、爪をむしって見ているだけだ。
