お土産さんでふだん使いできそうなイヤリングを買って、戸田野田と出口で別れて電車に乗った。あまり使う人のいない路線はいつだってどことなく空いている。
真ん中らへんの車両、おれを端にしてその隣に文也が座った。
「恋人ができたら、来たいって思った?」
「……え、それ俺も同じこと聞こうと思ってたんだけど」
「えぐ」
おれに聞くことないだろ、とは思ったけれど言わなかった。失礼なので。
「……まあ、来たいとは思った、かな」
おまえはどうなの、と言われて、隠そうかと一瞬頭をよぎったが、すぐに口を開く。べつに今更取り繕う気はない。
「来たいとか来たくないとかじゃなくて、来ることはないなって思ったよ」
「そっかぁ」と、至極残念そうな声で文也がつぶやいた。
「分かんないけどさ、おれが恋愛できないのはトラウマのせいもあると思うし。今でも惚れた腫れたなんてろくでもないなって、思ってる。ダサいなって思いつつさ」
「照はダサくないよ」
「はは、ありがとう」
無意識に、ちり、と耳につけた紛い物のようなイヤリングを触る。永遠を誓う指輪とは程遠いその不完全なリングを、見たとき、おれは。おれの脳裏に浮かんだのは。
――父があの時に投げ捨てた、耀きを失って煤けたプラチナのリングだった。
文也には言わなかったが、あの後父は遊園地から出てすぐの海に指輪を投げ捨てた。たまたま見てしまったのだ。あの時の絶望というか、なんというか。永遠なんてなんの足しにもならないことを誓う、その愚かさを実感した日のことだった。
「おまえが一生を誓う人ができたとして。……別にそれをろくでもないとは、ふつうに思わないし」
幸せになってほしい、と思った。
親友であるから、幼なじみであるから云々をぜんぶ差し引いても、ただ、単純に。心の底から。
出会いと別れを繰り返す。人生で、ずっとずっと一緒にいられる人なんて、一人か二人しかいないだろうと知っているから。だから。
「おまえが幸せになるときに、おれも、そこにいて、見守ってたいなぁって、思った」
触れ合っている肩のところに、こてん、と首を預ける。「おれはしゃーなしだけど」とぼやいた。弱音を吐いてしまったと少し反省をしながら、深呼吸した。足元に伸びた等間隔の安っぽい蛍光灯のオレンジ色が、伸びては縮んで、伸びては縮んでをくりかえす。自省していると、膝の上に投げ出していた右手をそっと取られた。ぎゅ、と指先を握られる。
「俺が、幸せになってもいいんだ?」
その声を聞いて、無意識に眉が寄る。どういう意味だ。
俯いている顔からはどんな感情でいるのか分からず、少し悩んだ後、「なってよ」と答えた。最適解ではないのは分かったが、それ以外の最善が見つからなかった。頭に浮かんだまま、口に出す。
「おれは、もしかしたらさ、恋愛で日の目を見ることはないかもしれないし。おまえだけでも――」
「俺は」
突然、強い口調に気圧されて、押し黙る。
文也は数秒の沈黙のあと、ゆっくりと顔を上げて、おれを見た。またあの深い深い、海のような目をしていた。形のいい唇が震えている。
近くで見ればなおさら、畏れを抱くほど、綺麗な男だなと思った。
「……照生、おまえも。おまえも幸せにならなきゃ、だめだろ」
声だってまるでハーブのように滑らかで耳触りがいい。こんな男が幸せにならない未来なんてない、とおれは思う。
でも、たぶん、コイツはそうじゃないのだろう。
誰かの幸せを願える。自分の幸せも欲張ることができる。はは、とおれは笑った。
「そう言ってくれる人がいるだけで救われるわ」
「で。そろそろ聞いてもいい?」
「なにが」
「どうして『バイかもしれない』って言い出したのか。ここまで来たらいっそ教えろよ」
文也がへんに誤魔化すやつでも、生半可な気持ちで提案をしてくるやつでもないことはおれが一番知っている。
「おまえの心の中まで勝手に知った気になってんのきもいし、おれ」
ね、と念押しすると、文也は案外するりと話し出した。「大体てんちゃんの予想通りだとは思う」と。
さすがに任せきりだろうと思ったが、心当たりはあった。仮説一。
「……男で、気になる人ができた、ってところか?」
「ハハ、ほんとなんでも分かってるんだな」
「大抵そうだって予想するだろうよ」
「ま、でも、今日分かったこともあって」
一拍置いて、文也は答えた。
「俺、たぶん、好きなコ、いる」
「……その言い方だと、その、さっきの男だな」
「うん。そうだね」
勝手に息を吸いこんだ肺が膨らむ。
ひゅ、と喉がか細く鳴った。空気が喉の粘膜を通る前にがるると空回りして、咳き込むように息を繋ぐ。動揺が気取られないようにじわりと浮かんだ手汗をシャツで拭った。
ふう、と一つ吐息を落として、左手で右肘を掴んだ。そのまま右手で顎を支え、まぶたを閉じる。動揺とストレスのせいでこめかみが脈打っている。よく強豪との試合前になる症状だった。ついうっかりルーティンを始めてしまう。
目を開くと、そのタイミングを見計らっていたかのように文也が呟いた。
「……引いた?」
「引いてない」
それだけは断言するし信用しろ、と念押しする。もう聞くな、とも思った。自分の浅はかな思いによる動揺など悟らせるわけにはいかなかった。
「ま、頑張れよ」
なんでもない気持ちで、こういう時はこう言うものだろう、という予測でものを言うと、文也はビックリしたように数度瞬きをするとふわりと微笑んだ。口元がむずがっているように緩んでいる。嬉しいらしい。
おれも、切り替えないとな、と思いつつ、あまり人のいない昼下がりの電車内をぼうっと眺めた。
それが、今日一日の出来事だった。回想を終え、やはり受け止めきれない現実に何度目かのため息を落とす。
「怒涛の一日すぎる」
さすがにバレーの大会だってこんなに精神的に疲れたりしない。
――文也も、人を好きになることがあるらしい。それも、男を。
もう一度ため息をついてテーブルに伏せた。喉から勝手に呻くような声が流れていく。なんだかなにもしたくない気分だった。ご飯だよー、と知らせてくれる妹にやる気のない返事を返して、やっぱり面倒でソファに寝転んだ。
うわぁ。おれいま絶対死んだ顔してるわ。
ひょっこりと上から顔を出した妹が「おかあさーん、お兄ちゃんダメそうー」と失礼なことを言いながらいなくなる。朗らかな母の声が心配そうにおれの名前を呼ぶ。ううん、と適当に返事をした。
ぼんやりと天井を見上げる。
自分に向けられる好意が、いつの日か、どす黒い悪意になることを、彼は知っているはずだ。おれのように。だから、勝手に仲間だと思っていた。心の核心に触れるぎりぎりまでを許せていた。きっと馬鹿にしないと思っていたから。
今だって、別に、馬鹿にされるとは思っていない。そこは心配していない。だが確かに同族意識を持って、信用していたのだ。
でも、おれは、おれと同じ恋愛傾向をもつ人を見たことがないし、聞いたこともない。
そもそも自分をそういう学術的なんたらかんたらにカテゴライズするのも嫌いだ。いわゆる無性愛者、アセクシュアル、なんてものかと思った時期もあったけれどいかんせんピンとこない。
恋愛をしている自分が想像できない。好きになられて、その視線が気持ち悪くなくて、裏切られないと知っているなんて。文也もそっち側の人間になるだなんて。「おまえも幸せにならなきゃだめだ」と言った文也の顔を思いだす。おれのその未来を信じて疑わないような顔だった。――そしていずれはおれも?
そんなことあり得るのか、そもそも。だって、だったら、なんで父さんはいなくなったんだよ。ぐわりと腹の底が熱くなる。それが怒りだと気付いた時、上から母親が顔を出した。目が合う。
頭から冷水をかけられたみたいに、意識が覚醒する。
「照生? 大丈夫?」
「……ん」
ご飯を作ってもらったのにだらけているのは申し訳ない。ソファから起き上がって、心配そうにおれを見遣る妹の頭を撫でて、席につくように促した。
母を手伝って箸を並べ、ご飯をよそって席についたところで、すぐに質問が飛んでくる。
「何かあったの?」
一拍置いて、どうしようかと考えてから答える。
「いや。……ちょっと考え事っていうか。また文也が悩みの種だからさあ」
そう答えれば一瞬で表情が安堵に変わる。ああ、そうなのね、と穏やかになった声を聞いて、なんだか自分が裏切り者になったような居心地の悪さを感じた。
告白はすべて断ってきた。自分が誰かを好きになる気持ちが理解できなかった。「好き」という感情そのものが嫌いだから。向けられるのも、向けるのも。
――だって、それは、いつか破滅を呼ぶ。
だれもが羨むきらきらした星のような日々だって、ひとつの愛憎だけでばらばらに砕けて散ってしまうのだから。文也だって知っていただろう。
でも。今は。違うのだ。
彼はもうすでに向こう側にいる。自分のための愛を知りたいともがいている。それが彼にとって、一番星を手にするような憧れと輝きだってことも、知っている。
だからおれは、ぐっと堪えて、耐えるしかない。
なあ、文也。おれ、おまえが遠くにいっちゃったみたいで、こわい。まだここにいてよ。置いていかないで。おれの隣にいてよ。
無意味に膝の上で伸ばした手をきゅ、と握りしめる。ぼうっとしながら、知らず知らずのうちに、さっきまで文也と駄弁っていた部屋の方を見ていた。
ハッとして顔を背ける。
未練がましいな、おれ。
親友が大人に一歩近づいた。距離が一歩離れた。それだけじゃないか。なにがそんなに悲しいんだ。はぁ、とため息をついてぼんやりと天井を見上げた。
「お兄ちゃん?」
「ん。なに、大丈夫だよ」
心配そうにする妹にもう一度「大丈夫」と伝えて、微笑んでやる。言いようのない虚しさがじんわりと胸を包んだ。
――だって、たぶん、おれは。
その一歩が、おれには一生踏み出すことのできない一歩だということを、痛いくらいに、知っている。
でも、もし、アイツが踏み出せるというのなら。
おれと同じところにいたはずの文也がその一歩を望んでいるというのなら、蹲ったおれの背中を踏み台にしていけよ。と、思った。
真ん中らへんの車両、おれを端にしてその隣に文也が座った。
「恋人ができたら、来たいって思った?」
「……え、それ俺も同じこと聞こうと思ってたんだけど」
「えぐ」
おれに聞くことないだろ、とは思ったけれど言わなかった。失礼なので。
「……まあ、来たいとは思った、かな」
おまえはどうなの、と言われて、隠そうかと一瞬頭をよぎったが、すぐに口を開く。べつに今更取り繕う気はない。
「来たいとか来たくないとかじゃなくて、来ることはないなって思ったよ」
「そっかぁ」と、至極残念そうな声で文也がつぶやいた。
「分かんないけどさ、おれが恋愛できないのはトラウマのせいもあると思うし。今でも惚れた腫れたなんてろくでもないなって、思ってる。ダサいなって思いつつさ」
「照はダサくないよ」
「はは、ありがとう」
無意識に、ちり、と耳につけた紛い物のようなイヤリングを触る。永遠を誓う指輪とは程遠いその不完全なリングを、見たとき、おれは。おれの脳裏に浮かんだのは。
――父があの時に投げ捨てた、耀きを失って煤けたプラチナのリングだった。
文也には言わなかったが、あの後父は遊園地から出てすぐの海に指輪を投げ捨てた。たまたま見てしまったのだ。あの時の絶望というか、なんというか。永遠なんてなんの足しにもならないことを誓う、その愚かさを実感した日のことだった。
「おまえが一生を誓う人ができたとして。……別にそれをろくでもないとは、ふつうに思わないし」
幸せになってほしい、と思った。
親友であるから、幼なじみであるから云々をぜんぶ差し引いても、ただ、単純に。心の底から。
出会いと別れを繰り返す。人生で、ずっとずっと一緒にいられる人なんて、一人か二人しかいないだろうと知っているから。だから。
「おまえが幸せになるときに、おれも、そこにいて、見守ってたいなぁって、思った」
触れ合っている肩のところに、こてん、と首を預ける。「おれはしゃーなしだけど」とぼやいた。弱音を吐いてしまったと少し反省をしながら、深呼吸した。足元に伸びた等間隔の安っぽい蛍光灯のオレンジ色が、伸びては縮んで、伸びては縮んでをくりかえす。自省していると、膝の上に投げ出していた右手をそっと取られた。ぎゅ、と指先を握られる。
「俺が、幸せになってもいいんだ?」
その声を聞いて、無意識に眉が寄る。どういう意味だ。
俯いている顔からはどんな感情でいるのか分からず、少し悩んだ後、「なってよ」と答えた。最適解ではないのは分かったが、それ以外の最善が見つからなかった。頭に浮かんだまま、口に出す。
「おれは、もしかしたらさ、恋愛で日の目を見ることはないかもしれないし。おまえだけでも――」
「俺は」
突然、強い口調に気圧されて、押し黙る。
文也は数秒の沈黙のあと、ゆっくりと顔を上げて、おれを見た。またあの深い深い、海のような目をしていた。形のいい唇が震えている。
近くで見ればなおさら、畏れを抱くほど、綺麗な男だなと思った。
「……照生、おまえも。おまえも幸せにならなきゃ、だめだろ」
声だってまるでハーブのように滑らかで耳触りがいい。こんな男が幸せにならない未来なんてない、とおれは思う。
でも、たぶん、コイツはそうじゃないのだろう。
誰かの幸せを願える。自分の幸せも欲張ることができる。はは、とおれは笑った。
「そう言ってくれる人がいるだけで救われるわ」
「で。そろそろ聞いてもいい?」
「なにが」
「どうして『バイかもしれない』って言い出したのか。ここまで来たらいっそ教えろよ」
文也がへんに誤魔化すやつでも、生半可な気持ちで提案をしてくるやつでもないことはおれが一番知っている。
「おまえの心の中まで勝手に知った気になってんのきもいし、おれ」
ね、と念押しすると、文也は案外するりと話し出した。「大体てんちゃんの予想通りだとは思う」と。
さすがに任せきりだろうと思ったが、心当たりはあった。仮説一。
「……男で、気になる人ができた、ってところか?」
「ハハ、ほんとなんでも分かってるんだな」
「大抵そうだって予想するだろうよ」
「ま、でも、今日分かったこともあって」
一拍置いて、文也は答えた。
「俺、たぶん、好きなコ、いる」
「……その言い方だと、その、さっきの男だな」
「うん。そうだね」
勝手に息を吸いこんだ肺が膨らむ。
ひゅ、と喉がか細く鳴った。空気が喉の粘膜を通る前にがるると空回りして、咳き込むように息を繋ぐ。動揺が気取られないようにじわりと浮かんだ手汗をシャツで拭った。
ふう、と一つ吐息を落として、左手で右肘を掴んだ。そのまま右手で顎を支え、まぶたを閉じる。動揺とストレスのせいでこめかみが脈打っている。よく強豪との試合前になる症状だった。ついうっかりルーティンを始めてしまう。
目を開くと、そのタイミングを見計らっていたかのように文也が呟いた。
「……引いた?」
「引いてない」
それだけは断言するし信用しろ、と念押しする。もう聞くな、とも思った。自分の浅はかな思いによる動揺など悟らせるわけにはいかなかった。
「ま、頑張れよ」
なんでもない気持ちで、こういう時はこう言うものだろう、という予測でものを言うと、文也はビックリしたように数度瞬きをするとふわりと微笑んだ。口元がむずがっているように緩んでいる。嬉しいらしい。
おれも、切り替えないとな、と思いつつ、あまり人のいない昼下がりの電車内をぼうっと眺めた。
それが、今日一日の出来事だった。回想を終え、やはり受け止めきれない現実に何度目かのため息を落とす。
「怒涛の一日すぎる」
さすがにバレーの大会だってこんなに精神的に疲れたりしない。
――文也も、人を好きになることがあるらしい。それも、男を。
もう一度ため息をついてテーブルに伏せた。喉から勝手に呻くような声が流れていく。なんだかなにもしたくない気分だった。ご飯だよー、と知らせてくれる妹にやる気のない返事を返して、やっぱり面倒でソファに寝転んだ。
うわぁ。おれいま絶対死んだ顔してるわ。
ひょっこりと上から顔を出した妹が「おかあさーん、お兄ちゃんダメそうー」と失礼なことを言いながらいなくなる。朗らかな母の声が心配そうにおれの名前を呼ぶ。ううん、と適当に返事をした。
ぼんやりと天井を見上げる。
自分に向けられる好意が、いつの日か、どす黒い悪意になることを、彼は知っているはずだ。おれのように。だから、勝手に仲間だと思っていた。心の核心に触れるぎりぎりまでを許せていた。きっと馬鹿にしないと思っていたから。
今だって、別に、馬鹿にされるとは思っていない。そこは心配していない。だが確かに同族意識を持って、信用していたのだ。
でも、おれは、おれと同じ恋愛傾向をもつ人を見たことがないし、聞いたこともない。
そもそも自分をそういう学術的なんたらかんたらにカテゴライズするのも嫌いだ。いわゆる無性愛者、アセクシュアル、なんてものかと思った時期もあったけれどいかんせんピンとこない。
恋愛をしている自分が想像できない。好きになられて、その視線が気持ち悪くなくて、裏切られないと知っているなんて。文也もそっち側の人間になるだなんて。「おまえも幸せにならなきゃだめだ」と言った文也の顔を思いだす。おれのその未来を信じて疑わないような顔だった。――そしていずれはおれも?
そんなことあり得るのか、そもそも。だって、だったら、なんで父さんはいなくなったんだよ。ぐわりと腹の底が熱くなる。それが怒りだと気付いた時、上から母親が顔を出した。目が合う。
頭から冷水をかけられたみたいに、意識が覚醒する。
「照生? 大丈夫?」
「……ん」
ご飯を作ってもらったのにだらけているのは申し訳ない。ソファから起き上がって、心配そうにおれを見遣る妹の頭を撫でて、席につくように促した。
母を手伝って箸を並べ、ご飯をよそって席についたところで、すぐに質問が飛んでくる。
「何かあったの?」
一拍置いて、どうしようかと考えてから答える。
「いや。……ちょっと考え事っていうか。また文也が悩みの種だからさあ」
そう答えれば一瞬で表情が安堵に変わる。ああ、そうなのね、と穏やかになった声を聞いて、なんだか自分が裏切り者になったような居心地の悪さを感じた。
告白はすべて断ってきた。自分が誰かを好きになる気持ちが理解できなかった。「好き」という感情そのものが嫌いだから。向けられるのも、向けるのも。
――だって、それは、いつか破滅を呼ぶ。
だれもが羨むきらきらした星のような日々だって、ひとつの愛憎だけでばらばらに砕けて散ってしまうのだから。文也だって知っていただろう。
でも。今は。違うのだ。
彼はもうすでに向こう側にいる。自分のための愛を知りたいともがいている。それが彼にとって、一番星を手にするような憧れと輝きだってことも、知っている。
だからおれは、ぐっと堪えて、耐えるしかない。
なあ、文也。おれ、おまえが遠くにいっちゃったみたいで、こわい。まだここにいてよ。置いていかないで。おれの隣にいてよ。
無意味に膝の上で伸ばした手をきゅ、と握りしめる。ぼうっとしながら、知らず知らずのうちに、さっきまで文也と駄弁っていた部屋の方を見ていた。
ハッとして顔を背ける。
未練がましいな、おれ。
親友が大人に一歩近づいた。距離が一歩離れた。それだけじゃないか。なにがそんなに悲しいんだ。はぁ、とため息をついてぼんやりと天井を見上げた。
「お兄ちゃん?」
「ん。なに、大丈夫だよ」
心配そうにする妹にもう一度「大丈夫」と伝えて、微笑んでやる。言いようのない虚しさがじんわりと胸を包んだ。
――だって、たぶん、おれは。
その一歩が、おれには一生踏み出すことのできない一歩だということを、痛いくらいに、知っている。
でも、もし、アイツが踏み出せるというのなら。
おれと同じところにいたはずの文也がその一歩を望んでいるというのなら、蹲ったおれの背中を踏み台にしていけよ。と、思った。
