幼馴染からバイかも知れないと言われた時の最適解

 いくつかのアトラクションを回ったところで暗くなってきた。さきにご飯を食べようと二人でレストランに入り、ご飯を食べた。
 スマホで母親に今日の晩御飯がいらないことを伝える。文也にもそうするように言えば、ハンバーグを咀嚼しながら慌てて文字を打っていた。なかなか抜けてる奴。放射冷却で寒くなるかと思ったけれども杞憂だったようで、レストランのテラスで食事をしていても風はまだぬるく感じた。
「夜の遊園地って、まあロマンチックだよね」
「それな」
 食べ終わったら、レストランの裏手にあるメリーゴーランドに向かうことにした。
 レストランでトイレに行った文也を待つ間に野田に連絡すれば、あの二人は観覧車に乗っていたときだったらしい。「乗ってから降りるまで十分かかるから戸田が飽きてる」と。写真付き。文也も待つのが得意なたちではないから、観覧車は今回はナシかな。閉館までまだ時間はあるけれど、観覧車の待機列を見るに間に合わないだろう。
 スマホをポケットにしまい、そろそろだろうとトイレの方を見ているとちょうど出てきた。瞬間、周りの客からの視線がわっと沸き立つ。付近に座っていた女子高生のグループが揃ってあんぐりと口を開けている。文也が動くのに従って目線たちも移動する。ぞわりと耳の裏が粟立った。
 顔色さえ変えないが、文也にも分かっているのだろう。すぐに椅子から鞄を取ると、伝票を取ってレジの方に向かっていった。残った視線が蜈蚣のように全身を這うのを感じた。気持ち悪い。
 舌打ちをどうにか抑え込み、視界に誰も入れないようにしながら荷物をまとめ、ついてくる視線に拳を握りしめた。文也は、レジにいた女性店員から声をかけられるのを華麗にかわし、愛想を振りまくことなく無表情で会計を終えた。するりと腕をとられる。
「ごめん、さ、行こ」
 申し訳なさそうに、にこりとまなじりを緩めて笑う。ん、と吐息交じりの声を返して、瞬きをゆっくりと繰りかえしながら外に出る。ここ数年で身に着けた、できるだけ視線を気にしないための処世術だった。
 腕を抱えてくれている文也の手を、もう片方の手でぎゅっと握りしめる。すぐに掌に伝わる湿った体温に縋りつきたくて、無意識のうちに目を閉じた。ありがとう、と呟く。すぐに、いや、と硬い声が返ってくる。
「俺が気にするべきだった」
「ちげえよ。その顔で生まれたんだから当たり前だろ。気にしなくていい。おれのせいだから」
「……てる」
「いいから」
 こちらを伺うような声色がむず痒い。文也がどれだけおれに気を遣おうがそれは相手の勝手だけれど、気を遣われる側にも感謝といたたまれなさがある。あたりまえだ。二度大きく深呼吸をして、ぐっと体を上に伸ばした。腕を離して、ニカリと笑ってみせる。もう大丈夫だ、と。
 文也は安堵の表情を見せたけれど、その眼は未だ海のように大きく揺らぐことなく、じっとりと濡れていた。
 メリーゴーランドは人一人もおらず、誰もいない待機列に並んだ。男二人でいることがおかしいことだとは思わないけれど、実験の趣旨を考えるとあまりよろしくはないか、と思ってしまう。文也が男も好きになれると分かったところで、おれにできることなんてないのだけれど。気まずくなるのは嫌だなぁ、と考えるおれは欲張りなのだろう。
「そういえば、俺最後に遊園地行ったの小六の時だったな」
「嘘つけ。中学の修学旅行で行っただろ」
「あ。いや、確かにそうなんだけど。家族で行ったのは、さ。兄さんが大学行くって言って、最後に思い出作りに行ったんだよ」
「ああ、そういえばお兄さん元気?」
 文也のお兄さんは六歳年上の優等生だった。奨学金で東京の有名な私立大に進んだというのは聞いていた。聞いていた、だけ、というのは、まあ、その後おれの家族にいろいろあったので、家族の話はしないというのがなぜか暗黙の了解となっていたから。おれとしては友人の幸せな話を聞くのは幸せになれるので気を遣わなくてもいいんだけど。
 驚いたような、ちょっとショックを受けたような、焦った顔の文也が全部の証拠だ。
「あ、ま、そろそろ結婚かって話にもなってるよ」
「嘘、そんな年だっけ。あ、でも、そうか。六歳上だから二十四くらいになんのか」
 それにしても早くね、と独り言を吐くと文也が耐えきれないといった様子で噴きだした。
「仕事も落ち着いたみたいだし、良い人もできたみたいだしね」
「え。マジ」
「マジマジ」
 いやに凪いだその横顔を見ながら、そうか、と思い至る。兄が結婚を考えるようになって、自分にも置き換えて考えてみたのだろう。次男だから良い、というわけではないけれど、次男の文也はまだ苗字を継ぐ義務みたいなものから外れている。
 進路を考えなくてはいけなくなってきて、自由に生きることを、考えてみたりしたのだろう。
 おれはどうだろうか。
 案外臆病なので、たとえ自分が本当に人を恋愛として見れないアセクシュアルなのだとしても、人に言うことはおろか自分で納得することだってできないだろう。今もできていないし。
 子連れの家族が一組だけ乗っていたメリーゴーランドはビーー、と大きな音とともに低速を始める。
「そういえば」と、なにか雑談を話し始めようとした時に、息が詰まった。

 ――おれは、この音を、知っている。

 最後に家族で遊園地に来た時。あの男が、おれにささやいた言葉を知っている。
「どうした? てんちゃん?」
「……あ、ごめん、ぼーっとしてた」
 あはは、と大して面白いこともないのに口から笑いが漏れる。文也の顔が一気に真顔になった。やばい、気づかれたか?
 なんでもないよと笑いかけて、ひと足先にメリーゴーランドに乗り上げる。茶色い馬に乗って、うわ、冷て、と独り言を言っていたらふわりと香水の香りがした。
 おれが誕生日にあげた、あの、香り。
「何かあったんだね」
「……べつに、そんなこと」
「大丈夫だよ」
 ――俺しか見てない。俺しかいないから。照生。
 お前しかいないなんてことはないだろう、と反論しようとしたが、きゅっと喉が詰まった。
 ざわめく海の底を無遠慮に覗き込んだときのように、その色の深さに足がすくんだ。ココア色に澄んだ瞳が、昔からあまり得意じゃない。歓迎されているような、拒絶されているような、海の割れ目を覗き込んだようなこの目がずっと見てきたおれの姿を考えてしまうと、動けなくなる。
 ――おれは一体、どんな風に映ってる?
 文也が、簡単におれを手放さないことも、見放さないことも分かっている。
 けれども、その綺麗な目に映ったおれが救いようのないくらい滑稽で醜かったらどうしようとも思ってしまう。大事になればなるほど、怖くなる。おれは、文也と二人で歩きながら、親友だって肩を組みながら、その手を離す日がいつだろうかとずっと先を見ている。
 魂の片割れ、とは、よく言ったものだ。
 これ以上おれを受け入れてくれる人間をおれは知らない。
「……文也」
「俺だけ見ててよ」
 繋いだ手が熱い。なんだよ、なんだよそれ。おまえ冷え性のくせになんでこんなに手熱いんだよ。ささくれだった心にはあたたかすぎる安堵に、取り繕っていた表情が崩れる。縋りたいと思った。
 ぐにゃ、と歪んだおれの顔を見て、文也はその海の底みたいな深い目をゆっくり瞬いて、「しんどい?」と尋ねた。
 ふるふる、と首を振る。文也が食い下がってくる。大丈夫だともう一度伝えて、身体を離した。皮膚に残った文也の体温がくすぐったい。おかしいとは、おれも思う。普通の友達はこんなことしない。言葉はかけないで、お互いの顔を見て、察して、信頼の度合いを示すように雑に扱って、おかしいことは二人で笑うような、そんな関係であるはずだ。
 だけど、おれたちは。おれたちは、別に、そうじゃなくても、いいのだろう。
 真顔で、おれの一挙手一投足でさえ見逃さないというようにじっと見ている文也に右手を差し出す。
「……手」
「え?」
「手、……貸して」
 困惑状態になっている文也の、さっきよりはぬるくなった手をぎゅっと握る。幼い頃に戻った気がするけれど、それはこの際どうだって良い。小さい頃はよく帰り道を二人で歩いた。泣き虫だった文也を立ち上がらせて、帰りたくないとごねる彼の手を引いて、根気強く一歩一歩歩いた。また明日もあるから、と頭を撫でて、ぎゅっと手を握って、おやすみを言った。
 何が変わったのだろう? おれたちは。
 まだ隣にいる。苦しい時は苦しいと吐き出せる、両親よりも、兄弟よりも、他のどの人間よりもおれに近い存在。それが親友。何度手を離しても、謝って、もういいって許されて「もう一度」をねだれる関係。
「おまえがいてくれるんだろ」
 てんちゃん、と文也が呼びかけようとしたところで、またビーー、と音が鳴った。手は繋いだまま、そそくさと隣の馬に座る。
 上背がある二人は腕も長くて、手を繋いで座ってもまだ余裕だ。文也はなにも言わない。
「……やっば、めっちゃ恥ずいこれ……」とぼそぼそつぶやいて、真顔でおれを見ている文也に無感動な声を努めて「忘れろ」と言った。すぐに「無理」と言われた。
 食い下がろうとして、文也が耳の先を真っ赤にしながら笑ったせいで声が止まった。

「忘れるかよ、めっちゃくちゃ嬉しいよ今」

「そうかよ……」
 耳の端が猛烈に熱い。頬もかっかしている気がする。顔を見られないように顔を背けて、ぐるぐると周り出した世界の方を向いた。チープな明かりが放射を描いて消えていく。
 おれはこの景色を知っている。
「……父親と最後に来たのが遊園地だった」
「てんちゃん」
 ぎゅう、と手を握る。握り返される。全身がひしゃげてめちゃくちゃになりそうになりそうなくらい恥ずかしさと嬉しさと、胸を突きあげる激情でどうにかなりそうだ。
 なによりも、胸にあったのは安堵だった。
「最後にどこに行きたいか聞かれて、遊園地って言った。メリーゴーランドにも乗ったんだよ。そしたらアイツ、なんて言ったと思う?」
 忘れもしない、中学一年の夏。
 他の女との間に子どもを作ったクソみたいなおれの父親がいなくなって、母だけがおれの親になった地獄のような季節。
「『おまえの母さんが女じゃなくて母になるのがいやだった』って」
 愛なんてものは、ああ、ろくでもないんだと思った。そんな綺麗で素敵なものがあるなら、どうして母は理不尽に殴られなければいけないんだと思った。母はおれを育てただけだ。それに一生懸命だっただけだ。
 それが許されないだなんて、愛なんてものは、恋なんてものは、本当にしょうもない。
 他者に勝手に期待して落胆して、気に入らない人を殴るのが愛なら、そんなものはいらない。
 それからだったと、思う。
 恋愛に対する漠然とした嫌悪が、だんだんと自然におれの中に芽生え始めた。
 自分がいつか、母を追い詰めたあのクソ男のようになるのが怖かった。逆にそうやって裏切られるのが怖かった。
 笑えねえよなあ、とへらりと笑って見せると文也はぎりりと唇を噛んだ。「血ぃ出んぞ」と笑う。その癖悪いよな、ほんと。
 一気にテンションが下がる。取り繕ってはいるがばれているのも分かっている。
 どうしようか、と思っていると「てんちゃん!」とはつらつとした声で呼ばれた。
「なぁに」
「俺白馬の王子様役やる!」
「え、もともと王子様だろうが、何言ってんだよ今更」
「え!」
「……あ、おいコラときめくな!」
 ケタケタと笑う彼に、救われたと思った。真剣な話を真剣に受け止め、もうやめにしたいと思ったところで逃げ道をくれる。
 文也はおれのことを、何もかもわかっている。
 ふふ、と笑いながらぎゅうと手を握られる。握り返した。手汗すご、と笑い合う。父はもういない。けれども、もういいかと思った。
 おれにとって恋愛がろくでもなくても、誰かにとってそれが大切ならそれでいい。おれの大切な人たちが、愛によって裏切られることがなければそれでいい。