それから季節は巡り、木枯らしが吹き始めた頃。
悠斗は、街の商店街にあるごく普通の銭湯に来ていた。
広い湯船で十分に温まり、身も心も解れた悠斗は、脱衣所を出てロビーにある休憩スペースへと向かった。
悠斗は自販機でフルーツ牛乳を買い、ソファに腰を下ろし冷たい瓶を一口飲んだ、その時だった。
向かいのベンチに座っている小説の原稿を読みながら満足そうな表情をしている人物の横顔に釘付けになった。
(あ、あの人は……!)
(間違いない。あの『やすらぎの湯』で何度も顔を合わせた、小説家の石川だ)
そして、もう一人の人物に釘付けになった。その少し奥の畳スペースには、小さな子供の髪を拭いている女性のOLの中村の姿もあった。
二人は、あの不思議な銭湯の常連客だった。彼らもまた、それぞれの重荷を下ろし、現実世界に戻ってきていたのだ。
休憩所の明るい照明の下で見る石川の髪は、記憶よりもずっと白く、そして薄くなっていた。浴衣を着た背中は小さく丸まり、そばに杖が置いてあった。『やすらぎの湯』で会った時の彼はとは明らかに違った。
そして中村も、あの時の若手OLのような溌剌とした雰囲気ではなかった。
「お母さん、フルーツ牛乳飲みたい!」
彼女に抱きついている女の子は、幼稚園生くらいだろうか。あの中村が、もうこんな大きな子供の母親になっているなんて。
悠斗は、呆然としていた。
石川も、中村も、悠斗の記憶の中にいる二人より、十年以上も歳を重ねていたのだ。
その時、猫の店主の言葉が蘇った。
『この銭湯の空間には、過去とか未来とか、そういう時計の針はないんだよ』
電流が走ったような衝撃と共に、悠斗はすべてを悟った。
あそこで出会った石川は、スランプに苦しみ、筆を折ろうとしていた過去の石川だったのだ。
あそこで出会った中村は、仕事と都会の生活に疲れ果てていた過去の中村だったのだ。
あの不思議な空間は、時代も場所も超えて人生の壁にぶつかりうずくまっている人を招き入れている。
石川は、美味しそうにビールを一口飲み、息を吐いた。
中村は、娘の口についた牛乳を指で拭いながら、優しく微笑んでいる。
悠斗の胸に、寂しさよりも熱い感動が込み上げてきた。
石川は、あんなに老け込むまで、小説を書き続けてきたのだ。あの苦悩を乗り越えて。
中村は、あの疲れ果てた日々を乗り越えて、母になり、こうして新しい命を育んでいるのだ。
彼らは、生き抜いたのだ。
あの苦しかった夜を越えて、それぞれの人生を、今日まで歩んできたのだ。
それは、悠斗にとって何よりの希望だった。
自分もまた、彼らのように歩いていける。どんなに辛い夜があっても、いつか生きていてよかったと思える日が来る。
そして悠斗は、残りのフルーツ牛乳を一気に飲み干した。
空になった瓶を返却口に戻すと、冬の気配がする自動ドアの向こうへと、力強く歩き出した。
彼の新しいあしあとは、ここからまた、穏やかに続いていく。
悠斗は、街の商店街にあるごく普通の銭湯に来ていた。
広い湯船で十分に温まり、身も心も解れた悠斗は、脱衣所を出てロビーにある休憩スペースへと向かった。
悠斗は自販機でフルーツ牛乳を買い、ソファに腰を下ろし冷たい瓶を一口飲んだ、その時だった。
向かいのベンチに座っている小説の原稿を読みながら満足そうな表情をしている人物の横顔に釘付けになった。
(あ、あの人は……!)
(間違いない。あの『やすらぎの湯』で何度も顔を合わせた、小説家の石川だ)
そして、もう一人の人物に釘付けになった。その少し奥の畳スペースには、小さな子供の髪を拭いている女性のOLの中村の姿もあった。
二人は、あの不思議な銭湯の常連客だった。彼らもまた、それぞれの重荷を下ろし、現実世界に戻ってきていたのだ。
休憩所の明るい照明の下で見る石川の髪は、記憶よりもずっと白く、そして薄くなっていた。浴衣を着た背中は小さく丸まり、そばに杖が置いてあった。『やすらぎの湯』で会った時の彼はとは明らかに違った。
そして中村も、あの時の若手OLのような溌剌とした雰囲気ではなかった。
「お母さん、フルーツ牛乳飲みたい!」
彼女に抱きついている女の子は、幼稚園生くらいだろうか。あの中村が、もうこんな大きな子供の母親になっているなんて。
悠斗は、呆然としていた。
石川も、中村も、悠斗の記憶の中にいる二人より、十年以上も歳を重ねていたのだ。
その時、猫の店主の言葉が蘇った。
『この銭湯の空間には、過去とか未来とか、そういう時計の針はないんだよ』
電流が走ったような衝撃と共に、悠斗はすべてを悟った。
あそこで出会った石川は、スランプに苦しみ、筆を折ろうとしていた過去の石川だったのだ。
あそこで出会った中村は、仕事と都会の生活に疲れ果てていた過去の中村だったのだ。
あの不思議な空間は、時代も場所も超えて人生の壁にぶつかりうずくまっている人を招き入れている。
石川は、美味しそうにビールを一口飲み、息を吐いた。
中村は、娘の口についた牛乳を指で拭いながら、優しく微笑んでいる。
悠斗の胸に、寂しさよりも熱い感動が込み上げてきた。
石川は、あんなに老け込むまで、小説を書き続けてきたのだ。あの苦悩を乗り越えて。
中村は、あの疲れ果てた日々を乗り越えて、母になり、こうして新しい命を育んでいるのだ。
彼らは、生き抜いたのだ。
あの苦しかった夜を越えて、それぞれの人生を、今日まで歩んできたのだ。
それは、悠斗にとって何よりの希望だった。
自分もまた、彼らのように歩いていける。どんなに辛い夜があっても、いつか生きていてよかったと思える日が来る。
そして悠斗は、残りのフルーツ牛乳を一気に飲み干した。
空になった瓶を返却口に戻すと、冬の気配がする自動ドアの向こうへと、力強く歩き出した。
彼の新しいあしあとは、ここからまた、穏やかに続いていく。


