風呂から上がり、身支度を整えて脱衣所を出ると、番台には猫の店主が丸くなって寝ていたが、悠斗の気配を感じて片目を開けた。
 悠斗は、晴れやかな顔で番台の前に立った。体は羽が生えたように軽く、心はもっと軽かった。
悠斗は、どうしても聞きたかったことを口にした。
「店主さん。あの子は俺の幻覚ですか?」
休憩スペースでフルーツ牛乳を飲んでいる悠斗少年を指を差しながらそう言った。
猫の店主は前足を舐めながら答えた。
「幻覚ではないさ。あれは、あんた自身だ」
「でも、どうして幼い頃の俺がここに……」
「ここは『やすらぎの湯』だぞ」
 猫の店主は髭をピクリと動かした。
「この銭湯の空間には、過去とか未来とか、そういう時間はないんだよ。ここは本当に必要な人の前にだけ現れる場所だ」
悠斗はその言葉を噛み締めて頷いた。
「それでさっき思い出したのですけど、俺は昔、ここに来たことがあるんですね」
 悠斗は懐かしそうに、天井を見上げた。
「子どもの時、おじいちゃんが死んで悲しくて、どうしようもなかった日が続いた。俺はここに来て、あなたに救われた。あの時も、あなたは何も聞かずに、ただ温かいお湯を渡してくれた」
猫の店主は、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、猫の店主の尻尾は、パタンパタンと、どこか嬉しそうに床を叩いていた。
 悠斗は、このぶっきらぼうな番人が、自分を見守ってくれていたのだと確信した。
「店主さん。本当に、ありがとうございました。 俺、大事なことを忘れて、勝手に腐っていました。でも、もう大丈夫です」
猫の店主はゆっくりと体を起こしながらこう言った。
「あんた、ここに来た時とは別人の顔になったな」
「ええ。泥と一緒に、全部流してきましたから」
悠斗の迷いのない返答に、猫の店主は満足そうに目を細めた。
「なら、もう用はないな」
「早く行け。ここは、疲れた奴が羽を休める場所だ。今のあんたみたいに、これから飛び立とうって奴が長居する場所じゃない」
それは、冷たい拒絶ではなく、背中を押す温かい送り出しの言葉だった。
「はい。行きます」
悠斗は深く一礼し、引き戸に手をかけた。
 ガララ、と音がして、冷たい空気が流れ込んでくる。
ふと、気配を感じて振り返ると、入り口にあの少年が立っていた。
 丸坊主頭に、半袖のシャツと短パンの幼い頃の自分。
 悠斗少年はまっすぐな瞳で、これから出ていく大人の自分を見つめていた。
悠斗は、昔の自分に向かって優しく微笑んだ。
「ありがとう。もう、大丈夫だ」
そうすると悠斗少年は、安心したように笑った。
「うん、バイバイお兄ちゃん」
悠斗少年が大きく手を振る。
 悠斗もまた、小さく手を振り返した。
「サヨナラ。元気でな」
 もう、過去の悲しみにすがりつく必要はない。昔の自分が持っていた強さを胸に、大人の自分が歩いていくのだ。
悠斗は前を向き、夜の路地裏へと一歩を踏み出した。背後で、引き戸がガララと閉まる音がして一度だけ振り返った。
 そこには、ただ古びた雑居ビルと、薄暗いゴミ置き場があるだけだった。
 温かい湯気の匂いはもうどこにもない。
 『やすらぎの湯』は、役割を終えたかのように、悠斗の前から姿を消したのだ。
けれど、喪失感はなかった。胸の中には、確かな温もりと、悠斗少年の笑顔、そして猫の店主の言葉が残っている。
 あの場所は、もう今の自分は用がないのだと、悠斗は理解していた。