やすらぎの湯へようこそ

大好きだった祖父が亡くなって落ち込んでいたあの日。歩いていたら路地裏で、不思議な銭湯を見つけた。
番台には、今日と同じ、あのキジトラの猫が座っていた。
 猫は、落ち込んでいる幼い自分に、何も聞かずに優しく接してくれた。
『泣きたい時は、湯の中で泣けばいい』
 そう言って、慰めてくれたのだ。
「あ……」
悠斗の口から、掠れた声が漏れた。
 初めて来た場所だと思っていたが違ったのだ。
 入り口に立つ幼い頃の悠斗は泥だらけになってうずくまる大人の悠斗を見ても、驚く様子はなかった。
 ただ、不思議そうに小首を傾げ、トコトコと歩み寄ってきた。
 そして、心配そうに覗き込んだ。
「お兄ちゃん、泥だらけだね。転んじゃったの?」
  その声は、春の日差しのように柔らかく、悠斗の凍りついた心に染み入った。
  悠斗は嗚咽を漏らしながら、言葉にならぬ声で頷くことしかできなかった。
  悠斗少年は、そんな情けない大人の姿を見て、にっこりと笑った。
「大丈夫だよ。痛いのなんて、ここのお風呂に入れば全部飛んでいっちゃうんだから」
そして片方の小さな手を、まっすぐに差し出した。
「一緒に入ろうよ。ここ、お湯がたくさんあって広くて、すごく気持ちいいんだよ」
その手は、泥など気にする様子もなく、ただ差し伸べられていた。
「背中、僕が流してあげるからさ」
その温かい誘いに、悠斗の心の奥が熱く震えた。
 恐る恐る伸ばした手が、悠斗少年の手に触れる。その手は小さく、柔らかく、そして驚くほど温かかった。
「ありがとう」
掠れた声で礼を言うと、悠斗少年は「どういたしまして」と元気に答え、力強く悠斗の手を引いた。
 悠斗は幼い自分に導かれるまま、重いスーツを脱ぎ捨て、浴室へと足を踏み入れた。
 高い天井に、湯気が白く煙っている。壁一面の富士が、湯気に霞んで幻想的に揺らめいていた。
 二人はまず、並んで洗い場の椅子に腰掛けた。
 少年は約束通り、桶にお湯を汲むと、小さな手で悠斗の広い背中を懸命に流してくれた。
「お兄ちゃん、背中おっきいね。泥んこ、いっぱい落ちるよ」
ごしごし、という不器用な感触が、たまらなく愛おしかった。
 悠斗の背中に張り付いていた泥が、少年の手によって少しずつ剥がれ落ちていく。
「ありがとう。今度は、君の番だ」
悠斗もまた、少年の小さな背中にお湯をかけてやった。
 その背中は頼りなく、小さかった。自分は昔、こんなに小さかったのか。こんな小さな体で、悲しみを抱えていたのか。
 そして悠斗は、丁寧に泡を流してやった。
体が綺麗になった二人は、中央にある巨大な湯船の縁に立った。
「いくよ、 せーのっ」
悠斗少年の高い掛け声に合わせて、二人は同時に湯に身を沈めた。
 あふれ出したお湯が、ザアアッと床を洗い流す豪快な音が、浴室中に響き渡る。
「ぷはぁー、極楽、極楽」
悠斗少年がいっちょまえに大人びた口調で言い、顔についたお湯を手の甲で拭った。
 悠斗もまた、深く、長く息を吐き出した。
「ああ……」
肩までお湯に浸かると、冷え切っていた芯の部分が、じわじわと解凍されていくのが分かった。
そして、その温もりに触れながら、悠斗は鮮明に思い出していた。
 あの頃の自分は、明日のために体を回復させようなどと思っていなかった。嫌なことから逃げるために湯に浸かっていたわけでもなかった。
 ただ純粋に、広い湯船で手足を伸ばすのが嬉しくて楽しかった。そんな単純なことを、いつから忘れてしまったのだろう。
隣には湯気の中で、悠斗少年がパシャパシャとお湯を叩いて遊んでいると、ふと手を止め、水面から顔だけを出して、隣の大人の悠斗をじっと見上げた。
 その瞳は、純粋で、ガラス玉のように澄み切っていた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
悠斗少年は不思議そうに小首を傾げた。
「どうして、そんなに暗い顔をしているの?」
悠斗は言葉に詰まり俯いた。
 仕事が大変で。責任が重くて。失敗してしまって。思いつくことがたくさん浮かんだ。
少年は、答えを待たずに続けた。
「大人は、毎日楽しいんじゃないの?」
その言葉のドキリとした。心臓を直接掴まれたような衝撃が走った。
「僕は早く大人になって、毎日好きなことしたいなって思ってるのに。お兄ちゃんは、好きなことしてないの?」
その言葉が、悠斗の胸の真ん中を鋭く貫いた。
 息ができなくなるほどの痛みだった。
気づかされた。自分が本当に苦しんでいたのは、仕事の失敗のせいだけではない。
 大人だから我慢しなければならない、楽しんではいけない。そうやって自分自身をがんじがらめに縛り付け、目の前にいる幼い頃の悠斗が持っていた、生きる喜びや未来への希望を、自らの手で殺し続けてきたことへの苦しみだったのだ。
昔の自分は、未来の自分に希望を持っていた。
 好きなことをして、毎日笑っている大人になることを夢見ていた。
 その夢を裏切ったのは、誰でもない。俺自身だ。
悠斗の目から、涙が溢れ出し、湯船に落ちた。
 (ごめんな、昔の自分。君がなりたかった大人になれなくて)
嗚咽が漏れる。大人の仮面が完全に剥がれ落ち、ただの弱い人間として泣いた。
悠斗少年は、突然泣き出した大人に驚き、少しだけ目を丸くした。
 そしてこの人は「とても大切なものをなくしてしまって悲しいんだ」ということが伝わってきた。
「お兄ちゃんも、なにかなくしちゃったの?」
少年は、優しく問いかけた。
 悠斗が涙で濡れた顔で頷き、こう話した。
「楽しむという気持ちをなくしちゃった。君みたいに笑えなくなって……」
悠斗少年は少し寂しそうに、でもしっかりと前を向いて言った。
「僕もね、大好きなおじいちゃんをなくしたんだ」
 少年はそう言うと、自分の胸に小さな手を当てた。
「すごく悲しかった。もう会えないんだって思ったら、涙が止まらなかった。でもね、さっきの猫さんが教えてくれたんだ。『下ばかり向いてたら、大事なものをなくすばかりだぞ』って」
「おじいちゃんは、僕が笑ってるのが好きだったから。だから僕、もう泣かないで、明日からまた楽しいこと探すんだ」
その健気な言葉に、悠斗の胸が締め付けられた。
 幼い自分は、死という永遠の別れさえも、小さな胸で受け止めようとしていたのだ。それに比べて、自分はどうだ。まだやり直せる失敗ごときで、すべてを捨てようとしていた。
悠斗少年は、真っ直ぐな瞳で悠斗を見つめた。
「お兄ちゃんはなくしたんじゃなくて、忘れちゃっただけでしょ?楽しむ気持ちを忘れてるだけなら、また思い出せばいいじゃん」
その言葉は、あまりにも単純で、力強く、そして温かかった。
 (ただ、忘れているだけか……)
 過去の自分が、絶望の淵から手を差し伸べてくれたのだ「思い出せばいい」と。
「思い出せるかな。俺なんかが」
「大丈夫だよ。見つかったら、きっと嬉しいよ。僕も応援してあげる」
その無邪気な許しを得て、悠斗の中で凝り固まっていた黒い塊が、音を立てて崩れ去った。
(そうだ。人生は続くのだ。失敗しても、傷ついても。祖父との別れを乗り越えて生きてきた自分が、ここで終わるはずがない)
悠斗の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
 依存も、恐怖も、すべてがお湯に溶け、排水口へと吸い込まれていき、湯気だけが静かに揺らめいていた。