ある日、その瞬間は唐突に訪れた。
三日連続の徹夜明け。重要なプレゼンの最中だった。悠斗はスクリーンの前に立ち、資料を指し示しながら説明を続けていた。順調だったはずだった。
しかし、次のスライドに移ろうとした瞬間、プツリ、と頭の中で何かが切れる音がした。
(言葉が、出ない)
次に言うべき台詞は頭の中にあるはずなのに、喉の奥で泥のように固まって出てこない。
 数字が、ただの記号の羅列に見える。意味のある情報として脳に入ってこない。
「ええと、このグラフは……つまり……」
悠斗は口をパクパクと動かした。冷や汗が背中を伝う。
会議室の空気が、急速に冷えていくのが分かった。上司の不安そうな顔。クライアントの無言の圧力。
 沈黙が、永遠のように長く感じられた。
(何か言わなければ、誤魔化さなければ)
 そう焦れば焦るほど、視界が白く染まり、自分が何のためにここに立っているのかさえ分からなくなった。
「佐倉、もういい」
上司の低く、冷たい声が響いた。
 悠斗は立ち尽くしたまま、資料を取り上げられた。ただ、かかしのように、その場に棒立ちになることしかできなかった。
会議の後、悠斗は別室に呼ばれ、プロジェクトから降板させられた。
 怒鳴られさえしなかった。ただ、「しばらく休め」という言葉だけが、重く、冷たく突き刺さった。これは事実上の戦力外通告だった。
自宅のアパートに帰り着いた悠斗は、電気もつけずにソファに沈み込んだ。
 悔しさも、情けなさも湧いてこなかった。ただ、圧倒的な恐怖だけがあった。
(あそこに行かなきゃ)
震える手でスマートフォンを見ると深夜二時だった。あそこへ行けば、またリセットできる。あの広い湯船に浸かれば、この惨めな記憶も洗い流して、また明日から平気な顔で会社に行けるはずだ。
 悠斗は立ち上がろうとした。けれど、足が動かなかった。体全身も力が全く入らない。
 あのお湯は、頑張るための燃料だった。けれど燃料を入れる器である自分が壊れてしまったら、注ぐ意味なんてない。
猫の店主の忠告が、脳裏に蘇る『穴の空いたバケツ』という言葉。
 その通りだった。自分は穴を塞ごうともせず、ただ湯を注ぎ足して、誤魔化し続けていただけだったのだ。
 湯がないと、自分はダメになる。パニックと恐怖が、津波のように押し寄せた。
(俺はあの場所に依存しすぎていたのか)
 カーテンを閉め切った暗闇の中で、膝を抱えて震え続ける。
 路地裏の匂い、古い木造の建物の軋み、そしてあの温かい湯気の記憶が、遠い幻のように感じられた。
 限界を超えた悠斗は、何とかの思いで部屋を出た。
 外は冷たい雨が降っていた。傘を差す気力もなく、ずぶ濡れになりながら夜の街を歩く。
 足がもつれ、何度もアスファルトに膝をついた。スーツは泥だらけになり、革靴は擦り切れた。それでも、這うようにして路地裏へ向かった。
「あった」
 雨のカーテンの向こうに、ぼんやりと温かい光が漏れている。
 『やすらぎの湯』。
 悠斗は震える手で、引き戸に手をかけてガララという乾いた音が響く。
そして足を踏み入れた瞬間、糸が切れたように膝から崩れ落ち、冷たい床に手をつき、荒い息を吐く。
番台を見上げると、そこには猫の店主が静かに座っていた。
「助けてくれ」
悠斗は喉の奥から絞り出すように言った。
 涙が溢れ出し、雨の雫と混ざり合って頬を伝う。
「もう終わりだ……お願いだ、助けてくれ……」
子供のように泣きじゃくった。大人のプライドも、世間体も、何もかもかなぐり捨てて、ただ救いを求めた。
 泥だらけで泣き崩れる悠斗を見下ろし、猫の店主は深く、あきれたようにため息をついた。
「まったく……手間のかかる客だ」
猫の店主は番台から悠斗の目をじっと見つめ、諭すようにこう言った。
「昔のあんたは、もっと上手く入っていただろ。思い出しなよ」
「え、上手に入っていた?思い出す?」
 悠斗が涙で滲む目を上げかけた、その時だった。
背後の入り口の引き戸が開き、そこに立っていたのは一人の男の子だった。
 年齢は八歳くらいだろうか。丸坊主頭に、半袖のシャツと短パン。どこにでもいそうな、普通の少年だ。
だが、悠斗は息を呑んだ。
悠斗はその顔を、知っていた。それは、幼い頃の自分自身だった。
 そして頭の中で何かが弾けた。
 猫の店主が言った「思い出しなよ」という言葉が鍵となり、脳裏に封印されていた記憶が鮮烈に蘇った。
(そうだ)
自分は、この銭湯に来るのが初めてではない。
 あれは、小学校低学年の夏の日だ。