それからの悠斗の生活は、一変した。正確には働き方は変わらず、それを支えるものが変わっただけだった。
毎晩、終電間際まで会社に残ってデスクワークをこなす。
目は血走り、肩は鉄板のように固まり、思考は泥沼のように重くなる。限界だ、もう指一本動かない。そう感じた瞬間に、悠斗はタクシーを拾って路地裏へ向かうのだ。
『やすらぎの湯』
その暖簾をくぐれば、魔法がかかったようにすべてがリセットされた。
広い湯船の浮遊感に身を委ねれば、疲労は消え去り、石川や中村たちとのたわいない会話が、すり減った精神を修復してくれる。
そして、風呂上がりには新品のような体と心を手に入れ、こう思うのだ。
「よし、これでまた大丈夫だ」
それは、救済ではなく、悪魔的なサイクルだった。
悠斗は、銭湯を自分の体を無理させ続けるための場所として使い始めていた。
ある晩、悠斗が休憩スペースでコーヒー牛乳を流し込んでいると、石川が声をかけてきた。
「おや、佐倉くん。なんだか随分と急いでいるね。顔色も優れないが、ちゃんと寝ているのかい?」  
隣にいた中村も、心配そうに眉を下げた。
「そうですよ。目の下に隈ができてます。たまにはゆっくり浸かって、何も考えずにぼーっとした方がいいですよ?」
二人の言葉は温かかった。以前なら、その優しさに救われていただろう。けれど、今の悠斗の頭の中は、会議と資料のことで埋め尽くされていた。
「あ、いえ、大丈夫です。まだ仕事が残っているので」
 悠斗は飲み干した瓶を慌ただしく返却口に置くと、その場を去った。
「あ、佐倉くん……」  
背後で中村が寂しそうに呼ぶ声が聞こえたが、悠斗は振り返らなかった。
そして、ある日の雨の降る深夜だった。その日も悠斗は、日付が変わる頃に銭湯へ駆け込んだ。
「こんばんは、店主さん」
番台に座る猫の店主に、明るく声をかけると、悠斗の顔をじろりと見た。
「また来たのか。顔色が悪いぞ」
「大丈夫ですよ。ここに入れば治りますから」
悠斗はタオルを片手に、早口でまくし立てた。
「おかげさまで、昨日も一昨日も、集中力が持ちました。このお湯は本当にすごいですね。疲れ知らずになれる。おかげで今日も、この後も会社に戻って資料を仕上げられそうです。頑張れますよ」
そう話して悠斗は笑ったが、猫の店主は笑わなかった。
それどころか、不機嫌さを隠そうともせず、太い尻尾をパタン、パタンと床板に打ち付け始めた。
「見てられないね」
猫の店主が低く唸るように呟いた。
「え?」
「あんたの心は、穴の空いたバケツに必死で水を汲んでるようなもんだよ」
猫の店主は番台から身を乗り出した。その顔はいつになく険しく、鋭い眼光が悠斗を射抜いた。
「いくらここで水を足したって、あんた自身に空いたデカイ穴を塞がなきゃ、全部垂れ流しだ」
「穴って……僕はただ、仕事の責任を果たそうと……」
猫の店主は悠斗の言葉を遮り、吐き捨てるように言った。
「その穴を塞ぎな。自分の体ひとつ大事に扱えない奴に、いい仕事なんてできるわけないだろう」
その言葉は、あまりにも真っ当な、正論すぎた。だからこそ、極限状態で張り詰めていた悠斗の心には届かなかった。むしろ、反発心すら覚えた。
(この猫に何が分かる。今の自分がどれだけ追い詰められているか、どれだけ必死で挽回しようとしているか。ここで止まってしまったら、自分には何も残らないという恐怖があるのに)
悠斗は心の中でそう思った。
現に、体は動いている。結果も出せそうだ。このペースで走り抜ければ、きっとかつての評価を取り戻せる。
「ご忠告、どうも。でも、今は止まるわけにはいかないんです」
悠斗は引きつった笑顔でそう言い残すと、脱衣所へと向かった。行く時、猫の店主の深いため息が聞こえた気がしたが、悠斗は振り返らなかった。
彼はまた、熱い湯に深く身を沈めた。