浴室から出ると、ひんやりとした脱衣所の空気が、肌を撫でた。
悠斗はタオルで濡れた髪を拭きながら、鏡に映る自分の顔を見た。血の気がなく、死人のようだった顔色に、今はほんのりと赤みが差している。重りをつけているようだった手足も、嘘のように軽い。
そして服を着て、脱衣所から出て暖簾をくぐると番台には、相変わらずあの猫が鎮座していた。
彼は前足を丁寧に舐め、顔を洗う仕草をしている。悠斗が近づいても、こちらを見ようともしない。その態度は、威圧的な番人そのものに見えた。
悠斗は邪魔をしないよう、音を立てずに通り過ぎようとした。
その時だった。
「湯冷めするなよ」
低く、ボソリとした声が足元に落ちた。
悠斗は驚いて立ち止まり、振り返った。しかし、猫の店主は悠斗の方へ視線を向けることすらなく、今度は尻尾の毛づくろいを続けている。
まるで、独り言だとでも言うように。あるいは、照れ隠しのように。
しかし、その短い言葉の響きには、ぶっきらぼうな父親が、子供を気遣うような、独特の温かさが滲んでいた。
「あ、はい。ありがとうございます」
悠斗が頭を下げると、耳がピクリと一度だけ動いた。
ただ怖いだけの猫ではない。この猫は、客を突き放しているようでいて、誰よりも客の背中を見ているのだ。
休憩スペースに行くと、変色した柱と、低い天井が落ち着く空間だった。古びた扇風機がカタカタと首を振り、年代物のマッサージチェアがあった。
悠斗は瓶入りのコーヒー牛乳を買い、壁際のベンチに腰を下ろした。
「お兄さん、見ない顔だね。新入りかい?」
声をかけてきたのは、隣に座っていた髭を生やした男性だった。年齢は五十代ぐらいで甚平を着て、手にはフルーツ牛乳を持っている。
「はい。今日、たまたま通りかかって……」
「そうかそうか。ここはいい湯だろう? 俺は小説家の石川っていうんだがね」
石川と名乗った男は、豪快に腰に手を当てて牛乳を飲み干し「ふぅ」と満足げな息を吐いた。
「小説家の方なんですか」
「まあね。売れない物書きさ。俺は原稿に行き詰まって、脳みそが干上がりそうになると、いつもここへ逃げ込んでくるんだ」
小説家という職業柄、ここで構想を練るのだろうか。悠斗はそう思い、尋ねてみた。
「静かですし、仕事が捗りそうですね」
「いや、逆だ。ここじゃあ、仕事のことはあまり考えない。それがいいんだよ」
石川は人差し指を立てた。
「アイデアが出ない、文章が繋がらない。そういう風に煮詰まった時はな、机にしがみついていてもろくなもんが出てこない。一度考えるのをきっぱりやめて、離れて、全く別のことをしてみるに限るんだ。そうして家に帰ると、不思議とスルスルと言葉が降りてくる」
「考えるのを、やめる……」
それは、今の悠斗が最も渇望し、そして最もできないことだった。
瓶の表面を指でなぞりながら、悠斗はぽつりと漏らした。
「でも……難しいです。やめようと思っても、頭が勝手に動いちゃうんです。仕事の失敗とか、将来どうなっちゃうんだろうとか、今度どうすればいいのかとか……嫌な想像ばかりが、グルグル回って止まらなくて」
すると、石川は深く頷き、悠斗の顔を覗き込むようにして言った。
「だから、銭湯なんだよ」
「え?」
「人間ってのは厄介な生き物でな、何もしないと脳みそが勝手に不安を探しちまう。だがな、熱いお湯に肩まで浸かってみろ。思考なんて吹き飛ぶぞ」
石川は楽しそうに目を細めた。
「『熱い』とか『気持ちいい』とかの強烈な刺激を受けると、脳みそはそっちの処理で手一杯になる。悩み事よりも、体の感覚が優先されるんだ。強制的に『考えること』をシャットダウンさせる装置、それが風呂だよ」
強制終了、確かに先ほどあの広い湯船で浮遊感に包まれていた時、悠斗の頭の中から上司の怒鳴り声は消えていた。
あったのは、ただ「温かい」ということだけだった。
「また石川先生、新入りさんに熱弁ふるってるんですか? 湯あたりしちゃいますよ」
そこで明るい声が会話に割って入った。
髪をタオルで巻いている女性が立っていた。悠斗と同年代くらいの女性だ。彼女はOLの中村だと名乗り、石川の向かい側に座った。
「いやいや、人生の先輩として、迷える若者に『湯の道』を説いていたのさ」
「ふふ、先生のその講釈、もう百回は聞きましたよ」
中村は慣れた手つきで瓶の蓋を開けながら、悠斗に向かって親しげに微笑んだ。
「でも、先生の言う通りですよ。私も会社で嫌なことがあったり、残業続きで何もかも投げ出したくなった時は、絶対ここに来るって決めてるんです。だってここ、家のガス代も浮くし」
悠斗はそのあまりに生活感のある理由に、思わず吹き出しそうになった。
「あはは、確かにそれは大事ですね」
「でしょ? でもね、それだけじゃないんです」
中村は、古い扇風機の所を見た。その瞳には、ここの景色を愛おしむような色が浮かんでいた。
「会社と家の往復だけだと、息が詰まっちゃうじゃないですか。でも、この暖簾をくぐると、世界が変わるんです」
彼女は指折り数えるように言った。
「足元で軋む古い床板の音、使い込まれた木のロッカーの手触り、高く抜けた天井に立ち込める湯気の匂い……。そういう、昭和から時が止まったような『非日常』の空間に身を置くだけで、肩の力がふっと抜けるんです」
「ああ……わかります。ここだけ、時間の流れが違うみたいで」
悠斗が深く同意すると、中村は嬉しそうに頷いた。
「それに、こうして常連さんたちと、たわいもないお喋りをするのも楽しくて。会社の人とも、学生時代の友達とも違う……なんというか、程よい距離感の人の温かさがあるんですよね」
「程よい、人の温かさか……」
悠斗は、その言葉を噛み締めた。
ここでは、誰も悠斗のことを「仕事に失敗した無能な社員」とは見ない。ただの「銭湯の客」として、当たり前に受け入れ、当たり前に笑いかけてくれる。
孤独で凍りついていた悠斗の心に、お湯とは違う、柔らかい灯火がともった。
悠斗はコーヒー牛乳を一口飲んだ。甘くて、懐かしい味がした。
「また、来てもいいでしょうか」
気づけば、そう口にしていた。
石川と中村は顔を見合わせ、満面の笑みで頷いた。
「待っているぞ。あ、次はフルーツ牛乳も試してな」
「当たり前でしょ、いつでもおいで」
悠斗は久しぶりに、自然な笑顔を返すことができた。
悠斗はタオルで濡れた髪を拭きながら、鏡に映る自分の顔を見た。血の気がなく、死人のようだった顔色に、今はほんのりと赤みが差している。重りをつけているようだった手足も、嘘のように軽い。
そして服を着て、脱衣所から出て暖簾をくぐると番台には、相変わらずあの猫が鎮座していた。
彼は前足を丁寧に舐め、顔を洗う仕草をしている。悠斗が近づいても、こちらを見ようともしない。その態度は、威圧的な番人そのものに見えた。
悠斗は邪魔をしないよう、音を立てずに通り過ぎようとした。
その時だった。
「湯冷めするなよ」
低く、ボソリとした声が足元に落ちた。
悠斗は驚いて立ち止まり、振り返った。しかし、猫の店主は悠斗の方へ視線を向けることすらなく、今度は尻尾の毛づくろいを続けている。
まるで、独り言だとでも言うように。あるいは、照れ隠しのように。
しかし、その短い言葉の響きには、ぶっきらぼうな父親が、子供を気遣うような、独特の温かさが滲んでいた。
「あ、はい。ありがとうございます」
悠斗が頭を下げると、耳がピクリと一度だけ動いた。
ただ怖いだけの猫ではない。この猫は、客を突き放しているようでいて、誰よりも客の背中を見ているのだ。
休憩スペースに行くと、変色した柱と、低い天井が落ち着く空間だった。古びた扇風機がカタカタと首を振り、年代物のマッサージチェアがあった。
悠斗は瓶入りのコーヒー牛乳を買い、壁際のベンチに腰を下ろした。
「お兄さん、見ない顔だね。新入りかい?」
声をかけてきたのは、隣に座っていた髭を生やした男性だった。年齢は五十代ぐらいで甚平を着て、手にはフルーツ牛乳を持っている。
「はい。今日、たまたま通りかかって……」
「そうかそうか。ここはいい湯だろう? 俺は小説家の石川っていうんだがね」
石川と名乗った男は、豪快に腰に手を当てて牛乳を飲み干し「ふぅ」と満足げな息を吐いた。
「小説家の方なんですか」
「まあね。売れない物書きさ。俺は原稿に行き詰まって、脳みそが干上がりそうになると、いつもここへ逃げ込んでくるんだ」
小説家という職業柄、ここで構想を練るのだろうか。悠斗はそう思い、尋ねてみた。
「静かですし、仕事が捗りそうですね」
「いや、逆だ。ここじゃあ、仕事のことはあまり考えない。それがいいんだよ」
石川は人差し指を立てた。
「アイデアが出ない、文章が繋がらない。そういう風に煮詰まった時はな、机にしがみついていてもろくなもんが出てこない。一度考えるのをきっぱりやめて、離れて、全く別のことをしてみるに限るんだ。そうして家に帰ると、不思議とスルスルと言葉が降りてくる」
「考えるのを、やめる……」
それは、今の悠斗が最も渇望し、そして最もできないことだった。
瓶の表面を指でなぞりながら、悠斗はぽつりと漏らした。
「でも……難しいです。やめようと思っても、頭が勝手に動いちゃうんです。仕事の失敗とか、将来どうなっちゃうんだろうとか、今度どうすればいいのかとか……嫌な想像ばかりが、グルグル回って止まらなくて」
すると、石川は深く頷き、悠斗の顔を覗き込むようにして言った。
「だから、銭湯なんだよ」
「え?」
「人間ってのは厄介な生き物でな、何もしないと脳みそが勝手に不安を探しちまう。だがな、熱いお湯に肩まで浸かってみろ。思考なんて吹き飛ぶぞ」
石川は楽しそうに目を細めた。
「『熱い』とか『気持ちいい』とかの強烈な刺激を受けると、脳みそはそっちの処理で手一杯になる。悩み事よりも、体の感覚が優先されるんだ。強制的に『考えること』をシャットダウンさせる装置、それが風呂だよ」
強制終了、確かに先ほどあの広い湯船で浮遊感に包まれていた時、悠斗の頭の中から上司の怒鳴り声は消えていた。
あったのは、ただ「温かい」ということだけだった。
「また石川先生、新入りさんに熱弁ふるってるんですか? 湯あたりしちゃいますよ」
そこで明るい声が会話に割って入った。
髪をタオルで巻いている女性が立っていた。悠斗と同年代くらいの女性だ。彼女はOLの中村だと名乗り、石川の向かい側に座った。
「いやいや、人生の先輩として、迷える若者に『湯の道』を説いていたのさ」
「ふふ、先生のその講釈、もう百回は聞きましたよ」
中村は慣れた手つきで瓶の蓋を開けながら、悠斗に向かって親しげに微笑んだ。
「でも、先生の言う通りですよ。私も会社で嫌なことがあったり、残業続きで何もかも投げ出したくなった時は、絶対ここに来るって決めてるんです。だってここ、家のガス代も浮くし」
悠斗はそのあまりに生活感のある理由に、思わず吹き出しそうになった。
「あはは、確かにそれは大事ですね」
「でしょ? でもね、それだけじゃないんです」
中村は、古い扇風機の所を見た。その瞳には、ここの景色を愛おしむような色が浮かんでいた。
「会社と家の往復だけだと、息が詰まっちゃうじゃないですか。でも、この暖簾をくぐると、世界が変わるんです」
彼女は指折り数えるように言った。
「足元で軋む古い床板の音、使い込まれた木のロッカーの手触り、高く抜けた天井に立ち込める湯気の匂い……。そういう、昭和から時が止まったような『非日常』の空間に身を置くだけで、肩の力がふっと抜けるんです」
「ああ……わかります。ここだけ、時間の流れが違うみたいで」
悠斗が深く同意すると、中村は嬉しそうに頷いた。
「それに、こうして常連さんたちと、たわいもないお喋りをするのも楽しくて。会社の人とも、学生時代の友達とも違う……なんというか、程よい距離感の人の温かさがあるんですよね」
「程よい、人の温かさか……」
悠斗は、その言葉を噛み締めた。
ここでは、誰も悠斗のことを「仕事に失敗した無能な社員」とは見ない。ただの「銭湯の客」として、当たり前に受け入れ、当たり前に笑いかけてくれる。
孤独で凍りついていた悠斗の心に、お湯とは違う、柔らかい灯火がともった。
悠斗はコーヒー牛乳を一口飲んだ。甘くて、懐かしい味がした。
「また、来てもいいでしょうか」
気づけば、そう口にしていた。
石川と中村は顔を見合わせ、満面の笑みで頷いた。
「待っているぞ。あ、次はフルーツ牛乳も試してな」
「当たり前でしょ、いつでもおいで」
悠斗は久しぶりに、自然な笑顔を返すことができた。


