とあるサラリーマンの佐倉悠斗、二十五歳は任された大きなプロジェクトで、そこで一つの取り返しのつかないミスをした。
 上司の怒号はすでに耳鳴りとなって消えたが、周囲からの冷ややかな視線と、何より自分自身を責め苛む声が、二十四時間止むことはない。
(全部、俺のせいだ。俺がもっと確認していれば……)
駅の改札を出て、アスファルトの道を歩く。革靴が地面を叩くたび、ズシリ、ズシリと、重力が数倍になったかのような負荷が足首にかかる。
体も重い鎧を着ているような感覚で、その重さで自分が押し潰そうになっていた。
 食事の味はもう一ヶ月もしない。睡眠をとっても、泥の中を這いずり回るような夢を見るだけで、目覚めると余計に疲れている。
 それでも悠斗は、毎朝定時に出社し、誰よりも遅くまでデスクにしがみついていた。休むことは悪だと思っていた。失敗した人間が楽をしてはいけない。苦しむことでしか、罪は償えない。
 ふと、信号待ちの交差点で立ち止まる。
 向かい側のビルの巨大なスクリーンが、鮮やかな広告を流している。行き交う人々は皆、何かの輝かしい目的を持って歩いているように見えた。
 その光景が、今の悠斗にはあまりにも眩しく、そして騒々しかった。
(逃げたい……)
 無意識にいつもの帰り道ではなく街灯の少ない、ビルの隙間の薄暗い裏路地へ宛もなく歩いた。ただ、この重苦しい鎧をほんの少しでも下ろせる場所を探して。
それから、どのくらい歩いただろうか。路地が複雑に入り組み、自分がどこにいるのかも定かでなくなった頃、不意に視界が開けた。
 そして道の突き当たりに、その建物はあった。
周囲の無機質なコンクリートビルとは明らかに異質な、古びた木造建築。
 屋根の上には小さな煙突が突き出し、白い煙を頼りなげに夜空へ吐き出している。
 入り口の上には、使い込まれた木の看板が掲げられていた。
『やすらぎの湯』
その筆文字は、どこか子供が書いたような下手な字だが、不思議な温かみを帯びていた。
昭和の遺物のような銭湯。こんな場所に、こんな店があっただろうか。
「やすらぎ、か……」
悠斗は渇いた唇でつぶやいた。今の自分には最も遠く、そして最も求めている言葉だった。
 通り過ぎようとした足が止まる。入口の隙間から、ふわりと香りが漂ってきたからだ。
 それは、干した後の布団のような心地よい香りで、そして何より圧倒的な湯気の匂いだった。
 その温かい湿気が頬に触れた瞬間、悠斗の心の奥で、張り詰めていた糸がプツリと緩む音がした。
(入ってみようか……)
思考するよりも先に、体が動いていた。まるで何かに吸い込まれるように、悠斗は『やすらぎの湯』の引き戸に手をかけた。
 ガララと乾いた音が響きながら、その扉の向こうに悠斗は一歩、中へと踏み入れた。
 引き戸を開けると、そこには昔懐かしいものが広がっていた。
 下駄箱には使い込まれた木の札が並び、壁には色あせた銭湯の注意書きが貼られている。そして、その奥には木造の番台があった。
 しかし、そこに座っていたのは人間ではなく、一匹の巨大な猫だった。
 黒と焦げ茶の縞模様が美しい、立派な体格のキジトラだ。その猫は、前足を綺麗に揃えて行儀よく座り、金色の鋭い瞳で、入ってきた悠斗をじっと見下ろしていた。
「猫?」
悠斗が間の抜けた声を漏らすと、猫の髭がピクリと動いた。
「何を突っ立っている」
 低い声が響いた。
 悠斗は周囲を見回した。誰もいない。間違いなく、目の前の猫が喋ったのだ。あまりの非現実に、悠斗の思考は追いつかない。ただ呆然と、その威厳ある姿を見つめ返すことしかできなかった。
「あの、あなたが店主さんですか?」
「そうだが」
 猫はあくびをし、面倒くさそうに言った。
「入るならさっさと入れ。戸が開けっ放しだ」
「あ、えっと……す、すみません」
悠斗は反射的に謝って戸を閉めた。
 心身ともにかなり疲れ切っていた悠斗にとっては、目の前で猫が喋っているという異常事態を受け入れた。
 悠斗はおどおどしながら、財布を取り出した。
 「あの……入浴料は、おいくらですか?」
財布を開きかけながら尋ねると、猫の店主はふんと鼻を鳴らした。
「いらないよ」
「え?」
「この銭湯は、お代は取らないことになっている」
猫の店主は興味なさそうに視線を逸らし、毛づくろいを始めた。
 (タダ? お金がいらない?)
 悠斗はさらに困惑したが、猫は「さっさと中へ行け」と言わんばかりに背中を向けた。
 悠斗は小さく一礼すると、逃げるように脱衣所へと向かった。
脱衣所もまた、昭和の時代で時が止まったような空間だった。
 大きな扇風機や壁には鏡が並んでいる。人は誰もおらず、静まり返っていた。聞こえるのは、奥の浴室から響く、微かな水の音だけ。
悠斗はロッカーの前で、重いスーツを脱いだ。ネクタイを緩め、シャツのボタンを外し、ベルトを抜く。一枚ずつ服を脱ぐたびに、体に張り付いていた鎧が剥がれ落ちていくような気がした。
 最後に下着を脱ぎ捨て、裸になる。ひんやりとした空気が肌に触れ、少しだけ意識がはっきりした。
ガラス戸を開け、浴室へと足を踏み入れる。
 その瞬間、むわりとした白い湯気が悠斗を包み込んだ。
「おお……」
思わず声が漏れた。
 外観からは想像もできないほど、中は広々としていた。
 壁一面には、見事な富士のペンキ絵が描かれ、その下には青々としたタイルの海が広がっていた。
そして中央には、自宅の狭いユニットバスとは比べ物にならない、巨大な湯船があった。
 体を洗い、かけ湯をする。熱めのお湯が肌を弾き、冷え切っていた体が驚いたように震えた。
 悠斗は、吸い寄せられるように一番大きな湯船へと足を運んだ。
 ざぶりと音を立てて湯に浸かる。
「ああ……」
 そして、首まで浸かった瞬間に信じられない感覚が彼を襲った。重さが、消えたのだ。
仕事のプレッシャー、上司の罵声、自分を責め続ける罪悪感、そして手足の重み。それらすべてが、お湯に溶け出し、湯気となって天井へと吸い込まれていくようだった。
 広い湯船の中で、手足を思い切り伸ばす。
 (広い……)
 体がふわりと軽くなる。まるで無重力の宇宙に浮かんでいるようだ。
 目を閉じると、張り詰めていた心の糸がほどけ、ドロドロとした黒い感情が洗い流されていくのが分かった。
「生き返る」
 もうダメだと思っていた。もう二度と、楽になれる日なんて来ないと思っていた。
 けれど、この湯は教えてくれた。体はまだ温かさを感じられるし、心はまだ「気持ちいい」と感じることができるのだと。
湯船の縁に頭を預け、悠斗はぼんやりと天井を見上げた。
 体の中に、消えかけていた火種のような力が、ポッと灯るのを感じた。
(これがあれば……この湯さえあれば、俺はまだやれるかもしれない)
明日も会社に行ける。あの重苦しいデスクに座り、罵声に耐え、働き続けられる。
 疲れたら、またここに来ればいいのだから。
「明日も、また頑張れる」
悠斗は握り拳を作り、力強くそうつぶやいた。