夜の冷えた空気は、火照った身体を程よく冷まし、冷静な判断力を取り戻させてくれる。
紫陽は小さく息をついて、汗ばんだ手で剣を握り直した。
(一、二、三……十体といったところね)
暗闇の中でうねうねと蛇のようにうごめく影。しかし普通の蛇と明らかに違うのは、刀の鞘五本分はありそうな太さと、大きな口から覗くびっしりと並んだ歯。
それからじゅるりと舌なめずりのような音がすると、紫陽の後ろで震えていた親子の口から悲鳴が漏れ出た。
「ひっ」
こんな気味の悪い見てくれの生き物が自分に襲い掛かろうとしているのだ。親子の反応は当然である。
大丈夫、私が何とかする。……そう笑って安心させてやれたら良かったのだが、残念ながら紫陽は多少感情が欠落している部分があるためそこまで気は回らない。
まっすぐ剣を構えた紫陽は、自分の中の霊力を刃へ伝えるように集中させる。そして軽く息を吐くと、迷いのない線で振り下ろした。
一撃、また一撃と振るわれる剣は、確実に敵を捉える。
攻撃を受けた生物は、数秒の間のたうち回るもすぐに動かなくなり、燃えて粉々になった灰が風で吹き飛ばされるように消えていく。
「すご……い……」
幼い少年が母親の腕の中で、自分のいる状況を忘れたかのようにうっとりとした声で呟いた。
紫陽の繰り出す容赦のない斬撃は、回数を重ねても勢いが落ちる気配がない。
暗闇の中、何度も何度も響く金属音と断末魔。気がつけばおぞましい生物は跡形もなく消え去っていた。
辺りに完全な沈黙がおりる。
「無事ですか」
刀を鞘に納めて振り返った紫陽の抑揚のない声に、身を寄せ合い息をつめていた親子ははっと顔を上げて彼女を見た。
それから慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。
「危ないところをお助けいただきありがとうございました。ほら、あんたもお礼」
「あ、ありがとう」
「この辺りは危険な妖が多いので夜不用意に外へ出るのは止めた方がいいかと」
紫陽はにこりともしないで淡々とそう言う。
親子はそんな紫陽に少し気まずそうな顔をしながら、もう一度頭を下げた。
母親はふらつきながら歩く子の背中を支えるようにしながら、夜の闇へと消えていく。
子を守る母親の姿が完全に見えなくなるまで黙って見送った紫陽は、やがて静かに息をついた。
(良かった。ちゃんと守りきれた)
あの異形を切り裂いたときの感覚が残っている気がして、軽く手をこすり合わせる。
(この辺りは妖の気配が強い。もう少し見回っておいた方が良いかもしれないけど……)
紫陽は月明りの眩い夜空を見上げてから、進んできた道に目をやる。
あまり遠くに行ってしまうと夜が明けるまでに戻れず、家の者に見つかって面倒なことになるかもしれない。それに先ほどの戦闘でそれなりに体力を消耗している。
……そんなことを考えていたときだった。
「見事なものだな」
背後から聞こえた、低く静かな、透き通るような声。
ハッと振り返る。驚いたことに、全く気配を感じ取れなかった。
「誰?」
紫陽は剣に手をかけ、警戒心を露わに問いかける。
──ふわり、と一陣の風が吹いた。
舞い上がる砂埃に思わず閉じてしまった目を恐る恐る開く。
(あ……)
驚きで動けなくなった。
そこにいたのは、月の光を浴びて白金色に輝く恐ろしくも美しい獣だった。艶やかな毛並みをした山犬のような、だけど普通の山犬ではないのは誰もが一目でわかる。
……妖だ。
「誰?」
紫陽はもう一度そう問いかけながら刀を抜き、その剣先を獣に向ける。
距離があってもわかる禍々しいほどの霊力。先ほど紫陽が切り伏せた雑魚とはどう見ても格が違う。
あまりに力量に差がある相手と対峙すると立っていることすらままならなくなるらしい。自分の震える足を見てそう知った。
「通常、人間の使う武器で妖を傷付けることはできない。だが……」
獣はゆっくりと紫陽の方へと歩み寄って来る。向けられた剣先を恐れる様子は微塵も見せない。
足の震えが手にも伝染してきたのだろうか。握る刀が揺れている。
一歩、また一歩と近づく獣が、パッと一瞬姿を消した。
そして。
「なっ」
獣がいたはずの場所には、代わりに一人の青年が立っていた。
獣と同じ、艶やかで美しい白金色の長い髪。その間から覗く鳩羽色の瞳はまっすぐ紫陽に向けられている。珍しい玩具を見せられた子どものような、好奇心を湛えた瞳。
彼は、紫陽の愛刀に素手で躊躇なく触れた。
「面白い。刀身に微量の霊力を纏わせているのだな。人間の武器でできた傷口は通常なら一瞬で再生するが、内側から霊力を流されるとそうはいかない。霊力の弱さを剣技という別の形で補うとは、考えたな」
冷たい汗がたらりと背中を伝う。
(っ、こちらの手が一瞬で見抜かれた)
怖い。だけどそう思っているのを悟られないよう唇を固く結ぶ。
「どなたかは存じませんが、並みの妖ではないのは確かなようですね」
紫陽はさっと後ろに下がり、青年から距離を取る。
一度体勢を立て直し、夜の冷えた空気を可能な限り体に取り込むため深く息を吸う。
「皆の平穏な暮らしを守るために消えていただきます」
紫陽は強く地面を蹴り、相も変わらず余裕そうな笑みを浮かべる青年に斬りかかった。
──ここ陽華の国には、古来より人間と妖という異なる種族が存在していた。
人間は長い間、ずっと妖に怯えながら暮らしてきた。妖は霊力と呼ばれる不思議な力を持っており、その力をもって人間を襲う。その理由は人を食うためであったり、住処を奪うためであったりと様々だ。
そして残念なことに、刀や槍といった人間の使う武器は妖には基本効かない。だから人間にできることといえばせいぜい、妖が狂暴化しやすい夜に大人しく家に籠っていることぐらいだった。
しかし数百年前、人々のそんな生活に夜明けの兆しが見られた。
人間の中に、妖に対抗し得る者たちが現れたのだ。
妖に対抗し得る者たち──陰陽師は、人間でありながら妖と同じ霊力を持っている。
通常の物理攻撃がほぼ効かない妖は霊力によって祓うことができる。妖は自らも霊力を操る一方で、弱点もまた霊力なのだ。
そしてそんな霊力を持つ人間は、普通の人間の中から低い確率で突然生まれてくるとされた。だが時間が進むにつれ、霊力の強い者同士の子どもは高確率で同じように強い霊力を持って生まれてくることもわかってきた。
そのため霊力の強い優秀な陰陽師を多く輩出し、大きな権力を持つ家がいくつも現れるようになった。中でも、ここ数十年優秀な陰陽師を輩出し続けている涼風家は、現在その頂点に君臨している。
……しかし、紫陽はそんな涼風家で高い霊力量を誇る両親の間に生まれながら、霊力はほんの微量しか持っていない落ちこぼれだ。
霊力の強さによって序列が決まる陰陽師の中では最底辺の地位。
元々持っている霊力の量は才能でしかなく、残念ながら努力で鍛えられるようなものではない。
陰陽師界の権威である両親は、才能の無い紫陽に早々に見切りを付けていた。物心ついたときから、親から優しい言葉も笑顔も向けてもらった覚えがない。
逆に紫陽の妹の綾目などは、涼風家の中でも稀に見る霊力量を誇っており、将来一族の頂点に立つ陰陽師になるであろうと期待されている。両親の愛は、紫陽に注がれることがなかった分もまで全て彼女に注がれていた。
少しでも良いから、自分も妹のように両親から笑顔を向けてもらいたい。
幼い頃、その一心で研究と鍛錬を重ねた紫陽は、やがてその微弱な霊力でも妖を祓う方法を編み出した。
それが、剣技と霊力の融合。
刀に霊力を纏わせた状態で斬れば、通常は人間の武器は効き目がない妖にも傷を負わせることができる。
血の滲むような努力で剣技を磨き、齢17になる頃には同年代の陰陽師に引けを取らない成果を上げられるようになった。紫陽が持つ程度の霊力では、本来あり得ない成果だった。
しかし、それでも両親は紫陽を認めることはなかった。むしろ紫陽のやり方を「異端」と見なし切り捨て、涼風家の恥として隠すようになった。おかげで家族に愛される期待は完全に無くなり、感情も希薄になった。残ったのは陰陽師として人々を守らねばならないという正義感と技術だけ。
ただ両親からの扱いのせいで一族の中でも腫れ物のように扱われるようになり、最近では妖退治の仕事も一切回されなくなってしまった。そのため、持て余した正義感と技術を活用するため、今夜のように一人でこっそり家を抜け出し町を見回っている。
とはいえこのような見回りで特別強力な妖に出会うことはまずない。今目の前に突然現れた大物は、紫陽にとってあまりに衝撃的だった。
(この妖がその気になれば一晩でこの辺り一帯を灰にできる。私の手には余る相手。だけど)
息を吸って、大きく踏み込む。
(この妖を祓うことができたら、人々が妖に怯えることなく安心して暮らせる世にまた一歩近づく)
だが、紫陽がそんな想いで勇んで繰り出した斬撃を、男はトンと軽く下がるだけであっさりとかわした。
先ほどの戦いで体力を消耗している、などというのは言い訳だ。たとえ万全の状態だったとしても、これを祓うどころか傷を負わせることすらままならなかったのだろう。長く美しい白金色の髪一本切り落とすことさえできる気配がなかった。
そのまま体勢を立て直し二度三度と剣を振るうも、そのたびに軽い身のこなしで避けられる。
「おお、さすがに速いな。夜目が利くのか? 狙いが正確だ」
「っ……!」
「だが」
心にも思ってなさそうなことを言いながら剣先をひょいひょいと避けていた男が、ぴたりと動きを止めた。
奇妙に思ったものの、紫陽は大きく跳躍して正面から刀を振り下ろす。が……
「ぐっ」
刀が男に届くかと思われたその直前。キィィンと甲高い音と共に、何かにはじき返された。
痛い。
加えた力がそのまま自分に跳ね返ってきたようだ。思いがけない衝撃に耐え切れず刀から手を離してしまった。金属が地面に落ちる鈍い音が聞こえた。
動きが無かったせいで気が付かなかったが、霊力で何らかの術を使ったのだろう。
「そろそろ飽きた。終わらせよう」
そう言った男は、今度は自分の番だと言うようにわずかに口角を上げた。
その瞬間、首を細い紐か何かで締め付けられるような感覚に襲われる。
「うぐ……が……」
「人間というのはとかく脆いもの。少し力加減を間違えれば簡単に死ぬ。戦いには向かぬ体だ」
苦しい。視界が歪み、力が抜けていく。
「無駄な殺しをしたいわけではない。どうだ、泣いて許しを請うのなら見逃してやるが」
耐えられず地面に膝をついた紫陽に、男は見下すような冷たい目を向ける。
かすんでいく視界の中、それでも必死に男を睨みつけた。
「こと……わり……ます……」
「……そうか」
目に宿した温度と同様に冷たい声。
首を押さえながら、満足に空気を取り込めない苦し気な呼吸を繰り返す紫陽に、男は一歩一歩ゆっくり近づいてくる。
(死ぬ? 私は、ここで)
覚悟がなかったわけではない。特別怖いわけでもない。
(こんな大妖怪との戦いの末命を落とすなんて、陰陽師としては栄誉ですらあるけど)
ただ胸に宿るのは悔しさのみ。
この妖に一撃も入れられないまま死んだら、自分のやり方で陰陽師として人々を守ることは不可能だったのだと、夢物語でしかなかったのだと証明してしまう。
(嫌だ、それは……)
苦しさで徐々にかすれてくる視界の中、じわりと涙がにじむ。
この男の冷え切った目に映る紫陽は、さぞかし情けない姿であろう。苦しみ息絶えようとしている敵を近くで見届けようなんていい趣味をしている。
このまま意識を手放してなるものか。だけどもう限界だ。
そう思った矢先、突然首に掛かっていた力が一気に緩んだ。
「なるほど、こういう目はよく似ている」
どっと肺に流れ込んでくる空気。紫陽は大きく咳き込む。
男が突然攻撃を止めた。何故殺さないのか。
疑問は浮かぶが、それ以上に今は息を吸うことに必死だった。
「涼風紫陽」
はっきりとした声で、男が紫陽の名を呼んだ。
「お前とは近いうちにまた会うことになる」
「どういう……こと……?」
「すぐにわかる」
彼がそう言ったのと同時に、また風が大きく吹いた。
舞い上がった砂吹雪が治まる頃には、既に妖の姿はそこになかった。
□
「生きて帰ってこられただけで奇跡と思うべきなのかしら」
自室で丁寧に刀の手入れをしながら、紫陽は一人呟いた。
優秀な陰陽師の家系として名を上げ、時代が進むと共に広大になっていった涼風家屋敷。その屋敷の中で紫陽に与えられている部屋は、本邸の離れにある一室。離れそのものが使用人が寝泊りする部屋ばかりなのに、その中でも一番小さな場所だ。部屋というより物置として使われることを想定されているのかもしれない。
ただ、狭苦しい場所だが紫陽はこの場所をそれなりに気に入っていた。顔を合わせるたびに嫌味か暴言しか出てこない家族と顔を合わせる機会が少ないというのもありがたい。
──あの妖との邂逅から数日が経つが、紫陽は何事もなかったかのように日常を過ごしていた。朝起きると女中に混ざって仕事をして、空いた時間に鍛錬と愛刀の手入れ。そしてまた女中のような仕事。
両親は紫陽のことは気にせずこき使うよう使用人たちに命じているようだが、そうは言われても主人の娘を雑に扱うというのは難しいのだろう。使用人たちが紫陽との関わり方に困り果てているようだ。
だからこうして部屋にいるときに別の部屋にいる使用人たちがわざわざ訪ねてくることもなく、完全に一人の時間になる。
それでも唯一訪ねてくる人間がいるとすれば。
「あらあらあら。一等みすぼらしい格好の女中がいると思ったら……嫌だわ、姉様じゃない」
キンキンと響く甲高い声が、紫陽の部屋の戸を開けて近づいてきた。
紫陽は顔を上げ、静かにその人物の名前を呟く。
「綾目……」
後ろに侍女を一人付き従わせ、上等な衣服に身を包んだ丸く大きい目の可愛らしい少女。
涼風綾目。紫陽の三つ下の妹。
幼い頃、紫陽と綾目は仲の良い姉妹だった。だが、綾目が才能を開花させ、涼風一族の中でも一、二を争う陰陽師だと囁かれるようになった頃から徐々にその関係は歪なものへと変化していった。
両親を始め一族からの期待を一身に背負いこれ以上ないほど甘やかされてきた綾目と、霊力が少ないせいでで冷遇されている紫陽。この二人が並んでいるのを見て姉妹だと言い当てることができる者は果たしてどれほどいるだろうか。
綾目は、紫陽が丁寧に手入れをしていた刀を一瞥して、わざとらしくため息をついた。
「はあ……才能がないって本当に憐れよね。そんな大袈裟な道具を使わないと雑魚妖怪一匹祓えないんだもの」
「……」
「もういい加減陰陽師は諦めたら? 大人しくどこかに嫁入りする方がお父様もお母さまも喜ぶのではないかしら。ま、こんな愛想笑いの一つもできない暗い女を欲しがる殿方がいるのかは知らないけれど」
ねえ、と綾目に同意を求められた彼女の侍女がくすくす笑いながらうなずく。
残念だが、綾目の言うことを何一つ否定できない。
紫陽は鍛錬に長い時間を費やして、どうにか剣術の腕を磨いた。もし人間同士の戦国の世であればそこそこ功績を上げたかもしれない。しかし対妖となると、圧倒的な量の霊力のみで戦う綾目が紫陽の何倍も強い。
それに、刀を使った紫陽の戦い方はどうしても刃の届く範囲まで敵と間合いを詰めなくてはならない。霊力で遠距離からの攻撃が可能な他の陰陽師に比べてはるかに戦い方が制限される。
そんな紫陽のやり方は、他の陰陽師からすると原始的かつ野蛮に見えるそうだ。才能に溢れた綾目にとってはさらにそれが顕著だろう。
(そして暗い女というのもまた事実だものね)
紫陽は静かに目を伏せて気付かれないようにため息をついた。
もともと感情表現は苦手だ。それに加えて、幼い頃から両親からぶつけられる言葉から心を守ろうとしていたせいで、そもそも表現するべき感情自体芽生えにくくなっている。
「ま、山岡家の狸親父なんかは若い女大好きだから、姉様でも喜んで妾に迎えてくれるんじゃないかしら。あそこお金だけはあるし、きっと姉様にちょうどいいわ」
「……」
「あらだんまり? せっかくあたしが姉様のためを思って提案してあげてるのだからお礼ぐらい言ったらいいのに。ねえ松」
「本当ですわね綾目様。こんな出来損ないの姉君のことを気遣われるなんて綾目様は本当にお優しい」
綾目の侍女は大袈裟にうなずいて、見下した目を紫陽に向ける。
その後も二人は紫陽に対して散々嫌味やら何やらをぶつけ続けてきた。紫陽は内心そこそこ傷つきはしたものの、全く表情に出ないせいで反応を見ても面白みがなく、次第に飽きてきたらしい。
「あら嫌だ。姉様のせいで貴重な時間を無駄に過ごしてしまったわ。松、行きましょ」
「はい、綾目様」
「ああそうだ」
そのまま部屋を出ようとした綾目は、直前で何かを思い出したように足を止めて振り返る。
「さっき父様が姉様のことを呼んでいたわよ。なかなか来ないものだから今頃お怒りじゃないかしら」
……そういうことはさっさと教えてもらいたかった。もちろんわざと教えなかったのだろうが。
相変わらずキンキン響く綾目の笑い声が、離れの廊下を徐々に遠ざかっていった。
□
「遅い」
父が普段過ごしている屋敷の中で最も広いこの部屋に、紫陽はほぼ立ち入った記憶がない。父親と顔を合わせて話すこと自体少なかったから当然だろう。
案の定、苛立った父は紫陽が部屋に入るなり怒鳴りつけてきた。
「綾目に呼びに行かせたのはもう半刻近く前だぞ」
「申し訳ありません」
そう言われても、綾目から話を聞いてすぐここに飛んできた。だがその言い訳を口にしようものならさらに怒鳴られるのは目に見えているので素直に謝罪だけしておくのが得策だ。
「本当、少しは綾目を見習おうという気概がないのかしら」
父の後ろには母親の姿もあった。母は扇で口元を隠し、紫陽に蔑んだ目を向ける。
紫陽はもう一度「申し訳ございません」と頭を下げる。それで二人は一応溜飲を下げてくれたようだ。
「まあいい。そこに座れ」
「はい」
これ以上怒鳴られることは無さそうだとわかり、ようやく少しほっとする。
脇息に肘をかけた父は、眉間の皺を深く刻んだまま紫陽に問いかけた。
「紫陽。お前は当然“五大妖”について知っているな?」
「五大妖」
いったい何の話が始まるのか。疑問に思いながらも、紫陽はその言葉を繰り返しながら記憶をたどる。
「妖たちを統率する、いわば王のような存在。最恐と名高い五人の妖──土蜘蛛、九尾狐、烏天狗、狗神、ぬらりひょん……のことですね」
「ああ」
父がうなずいた後ろで、母が面白くなさそうな表情を浮かべる。これで紫陽が少しでも答えに窮したら、その知識不足にたっぷりと嫌味をぶつけるつもりだったのだろう。
紫陽はそんなことを思いながら話しの続きを待つ。普段ろくに声を掛けようともしない娘をわざわざ自室に招き入れてまでする話。先ほどから考えているのだが全く予想ができない。
父は懐から折りたたまれた紙を取り出し、厳しい表情でそれを開いた。
「ではその五大妖のうち、狗神について知っていることはあるか?」
「狗神……。そうですね、ここからそう遠くない地に立派な城を構えているということくらいなら知っています。そしてその城下町で孤児や罪人など居場所のない人間を攫ってきて住まわせ、奴隷として扱っているのだという噂もありますね」
「そうだな、わたしもその程度の知識だ。奴は周囲との交流を好まず、あまり派手な行動をしない分五大妖の中でも謎が多い」
そこで言葉を切った父は、手に持っていた紙を床に置き、紫陽に渡した。
「だが一昨日、そんな狗神の元からこんな文が届いた」
「文? 狗神から、ですか……?」
眉をひそめずにはいられなかった。紫陽は不信感を抱きながら渡された手紙をそっと開き、ざっと目を通す。
そして無意識に息を止めていた。
(え……)
二度、三度、四度と何度も繰り返し文字を目で追う。
書いてあることの意味が理解できなかった。いや、何が書いてあるのかはわかるのだが、それを上手く受け取めることができなかった。
感情の出ない紫陽が明らかに狼狽えている様子を見て、父は一度ため息をついた後、その手紙の内容を改めて口にした。
「どうやら狗神は、お前を妻に所望しているらしい」
「意味が……わかりません……」
妖と陰陽師はいわば天敵同士だ。手紙を寄こしてくることから奇妙なのに、その上結婚の申込みなど……聞いたことがない。
戸惑いの表情を浮かべる紫陽に、母が扇を揺らしながら言う。
「花嫁という名目で人質をとる。人間の権力者同士でも昔からよくある話です。大方、涼風家の存在を恐れて策を打ったのでしょう」
なるほど、それならわからなくもない。
父も同意見らしい。大きくうなずいて母の言葉を継いだ。
「周囲との交流を好まず派手な行動をしない……というのも物は言いようだな。強さを周囲に誇示できない、すなわち狗神が五大妖の中では最も弱いというだけのこと。我々陰陽師の存在は目の上のたんこぶなのだろう」
一度大きくため息をついた父は、まっすぐ紫陽のことを見つめる。
親の顔をこんな風に近くでまっすぐ見たのはいつぶりだろう。彼らの目には、前からこんな黒い光が宿っていただろうか。
「だが、そうは言っても狗神の力が未知数なのも事実。下手に断って怨みを買っても良いことはない。だから分かるな?」
紫陽は小さく息を吐いて、止めた。
ここまで言われてわからないはずがない。
「狗神に嫁ぎなさい、紫陽」
決定事項。拒否することなど認めない。父は口にこそ出さないが、そんなこと言われずともわかった。
「狗神が貴女を指名したのは幸いだったわ。もしこれが綾目だったらとても行かせられないもの」
パンと手を叩き、にこにこ笑いながら残酷に言い切る母。そちらにちらりと目を向けたが、言葉を返すことはもう諦めた。
(狗神の怨みを買っては厄介……だなんて本気で思っているわけではないわね。私のことを体よく追い出す口実ができたと喜んでいるようにしか見えない)
狗神には悪いが、紫陽に人質としての価値など皆無だ。この人たちは、紫陽がどれだけ痛めつけらようと、たとえ殺されることがあろうと痛くも痒くもないのだから。
(ああ、吐き気がする)
紫陽はぎゅっと歯を食いしばる。
目線を上げると、口元に笑みを浮かべた両親の顔が見えた。そこに娘に対して申し訳なく思ったり憐れんだりするような感情は少しも無い。
かつて、どうにか愛してもらいたい、認めてもらいたいと求めてやまなかった人たち。今はもう何も感情がわかない。
「……かしこまりました。お父様、お母様」
そう言って頭を下げた紫陽は、再び彼らの顔を見ようとはしなかった。


