シーン7-1:
 帝都大学病院・集中治療室(翌朝)

 嵐が去り、美しい朝日が差し込んでいる。
 モニターの心拍音が、力強く規則正しく刻まれている。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 沙羅、ゆっくりと目を開ける。
 体の重さが消えている。深く呼吸ができる。
​沙羅「……私……生きてる?」
沙羅、体を起こす。
 ベッドの横を見る。

『……皇子は、行っちまったよ』
 どこからか、少年の声が聞こえる。
 沙羅、あたりを見回す。
 床の上の白衣。その上に、手のひらサイズの「純白の子鹿」がうずくまっている。
 半透明に輝くその姿。
​沙羅「え……? 子鹿……?」
 沙羅、目を疑う。
 今まで、そんな動物はいなかったはずだ。

​​シカネ『おいらは​シカネ。皇子……蓮の眷属だ。今まで、あんたには見えてなかったはずさ。皇子の術があったし……あんたは、霊感の無い、ただの人間だったし』
 子鹿の​シカネが顔を上げる。その瞳は泣き腫らしたように赤い。
​​シカネ『でも、今は見えるだろ? あんたの中に、皇子の”命”が入っちまったからな』
​沙羅「蓮さんの……命……?」
​​シカネ『皇子は、自分の存在全てをあんたに注ぎ込んで、黄泉の掟を破った代償に、消えた』

​沙羅「消えた……?」
 沙羅、震える手で蓮の白衣を抱きしめる。
 微かに残る、彼の冷たくて優しい香り。
 唇に残る、最後の口づけの感触。
​沙羅「そんな……。私のせいで」
 ​シカネは何も言わず、ただ深く首を垂れる。
 窓の外では、小鳥が囀り、二人の別れなど知らぬかのような青空が広がっていた。


​シーン7-2:
 帝都大学病院・集中治療室(朝)

 朝日が、無機質な病室を照らす。
 沙羅、ベッドの上で決意の表情を浮かべる。
 手元には、劇薬のアンプル。

​シカネ『……本気なのか? 沙羅』
​沙羅「もちろん。この命を使って、彼を買い戻す」
 沙羅、自分の胸に手を当てる。
 そこにあるのは、蓮がくれた命。

 バンッ!
 クラウスが飛び込んでくる。
​クラウス「沙羅ちゃん! 何や急に、ベッドサイドに、呼びつけて……。おい、何を物騒なもん、持っとるんや」
 クラウス、アンプルを見て顔色を変える。
​沙羅「クラウスお願い、私の心臓を止めて。人狼は、冬眠と変身の原理で、細胞の代謝状態の変化を操れると聞いた。人狼の祖が月の満ち欠けに合わせて、生命活動を自在に操るために編み出した術が、あると。……仮死状態になって、シカネの手引きで、黄泉へ行きます」
​ クラウス「はあ!? アホなこと言うな! 死ぬ気か!」
 クラウス、沙羅の手から薬を奪おうとする。

 沙羅、クラウスの目を真っ直ぐに見つめる。
​沙羅「協力してくれたら……私の『血液』をあげる」
​クラウス「……なんやて?」
 クラウスの瞳が、一瞬、獣の金色に揺らぐ。
​沙羅「特殊な抗体を持った、私の血。研究材料にするなり、……あなたの渇きを癒やすなり、好きにしていいわ」
 クラウス、ゴクリと喉を鳴らす。
クラウス「……あいつのために、そこまでするんか。自分の身を切り売りしてまで」
​沙羅「蓮さんは、命を投げ出して私を生き返らせた。……私の血なんて、安いもの」
 クラウス、苦しげに顔を歪める。
 やがて、深くため息をつく。
​クラウス「……負けたわ。ほんま、いい女やな」
 クラウス、沙羅の手から注射器を受け取る。
​クラウス「約束やで。必ず戻ってきて、その美味そうな血を俺に提供するんや。……死体になったら味落ちるからな」
​沙羅「ええ、約束します」
 沙羅、ベッドに横たわる。
 クラウスの手が震える。慎重に、静脈へ針を刺す。同時に、異国の言葉で呪文を唱え始める。
 注入された劇薬は、心臓を一時的に停止させる引き金となり、同時にクラウスの呪文が、沙羅の肉体に流れる「生命の奔流」そのものを、極限まで凍結させる。

 モニターの心拍音を示す電子音が、急激に間隔を広げていく。

 ピッ……、ピッ…………、ピッ………………。

 そして、一本の長い線に変わった。

 沙羅のほぼ呼吸は止まり、脈も触れない。体温は急速に低下する。
 しかし、クラウスは知っている。細胞の呼吸、脳の活動、すべての代謝が極限まで減速しただけで、「魂の火」はまだその体の中に残っていることを。

​クラウス「……行ってこい」
 視界が暗転する。
 意識が、深い闇へと沈んでいく。