「大きくなったら結婚して」と少年が手を握り語ったのは、太陽の光が燦々と降り注ぐ午後の公園でだった。ベンチに腰をかけた少年──清水心矢はキラキラとした瞳を俺に向けていた。
 彼の膝には、へたくそに貼られた絆創膏がある。
それは俺がさっき貼ったもので、激しく動けばきっと剥がれてしまうだろう。なんて、そんなことをぼんやりと考えた。
 心矢は先ほどまで泣きじゃくっていた自分を忘れてしまったのか、今は俺だけを一心に見つめている。まん丸とした目に今にも吸い込まれそうになった。
 ことの始まりは数分前。公園に妹である真衣を連れて遊びにきた俺は、すでに戯れている子供達の群れに合流した。妹が怪我しないようにと見守る中、派手に転んだのが心矢である。最初は我慢していたものの、風船に針を刺したみたいにパンと感情が破裂したのか、わんわんと泣きじゃくり始めた。
 困り果てた俺は彼の手を引き、公園内にあるベンチへ座らせた。近くにあった蛇口へ向かい、ポケットに入ったハンカチを湿らせる。面識もない子供のご機嫌取りは面倒くさいなぁと思いつつ、真衣の世話になれていた俺は勝手に体が動いていた。
 ベンチへ戻ると、心矢はまだ泣きじゃくっていた。そんな彼の傷をハンカチで拭い、常備していた絆創膏で手当てをした。

「泣くなよ、ほら。痛いの痛いの、飛んでいけー」

 俺は真衣にするみたいにまじないをかけた。口にした後、ほんの少し照れが芽生えた。カッと頬が熱くなり、それを隠すように人差し指で頬を掻く。
 俺を見て、心矢はポカンとした表情のまま固まった。
 ──何だよ、俺が恥を惜しんで慰めてやってるのに。
 そう唇を尖らせた俺の手を、心矢が握りしめた。
 一体何事だと思いあぐねいていると、やっと心矢が口を開いた。

「大きくなったら結婚して」

 俺は何と返して良いか分からず、唇を舐めた。
 結婚がなにか、分からない年齢ではなかった。けれどそれは俺たちのような子供が行うものでもないし、ましてや知り合って間もない人間同士がするものでもないと知っていた。
 だが、俺を見つめる心矢の目は、年下ながらに有無を言わせぬものを孕んでいた。
 どうせ子供の戯言だ、と俺は肩を竦めた。そして、彼の頭をくしゃくしゃに撫で回す。

「お前が高校生になっても好きな人がいなかったら、考えてやらなくもない」

 微笑んだ俺に、心矢は花が咲いたように笑った。何度もこくこくと頷く。その姿が可愛くて、俺は思わず吹き出す。
 笑った俺の手を、心矢がもう一度強く握りしめた。

「約束」

 心矢が小指を差し出す。細い指に、俺は小指を絡めた。「ゆびきりげんまん」と愉快げに歌う心矢を、俺は眺めた。
 いつまでこの約束を覚えているだろうか。明日には忘れるだろうか。それとも高校生になるまで覚えているのだろうか。

「お兄ちゃん、名前は?」

 名前も知らないのに結婚したいだなんて改めて変なやつだなぁ、と思いながら「優希だよ」と返した。心矢は口の中で何度も名前を咀嚼した。

「ゆうくん」

 名を呼ばれ、擽ったくなった。「お前の名前は?」と問うと彼は食い気味に「心矢」と返した。

「へぇ。よろしくな、心矢」

 「もう痛くなくなったか? 遊びに行くか?」と彼の手を握り、ベンチから降ろす。こくりと頷いた心矢は俺に腕を引かれるがまま、遠くで戯れている子供の群れへと合流した。
 これが、心矢と俺の初めての出会いであった。どうやら心矢は妹である真衣と同級生であるということをのちに知り「変な奴と同級生なんだなぁ、お前」と妹を揶揄ったりもした。
 同じ小学校だった俺たちは、けれどそこまで交流がなく日々を過ごしていた。時折「ゆうくん」と出会った頃のような声音で俺の名前を呼び、一緒に帰りたがったりもした。
 俺にはきょうだいが妹しかおらず、心矢の甘えたや人懐っこさは弟みたいで、嬉しかったりもした。
 「しょうがないな」と鼻の下を擦りつつ、彼の面倒を見るのは俺にとって良い時間でもあった。
 しかし、そんな彼の甘えたや人懐っこさがまさか後々、悩みの種になるとは小学生の頃の俺は予想もしていなかったのだ。



「ということで結婚してください」
「──ぎゃあ!」

 俺より身長がデカくなりお世辞にも「可愛い」と言える見た目では無くなった心矢が、俺の手を握り愛の告白をしてきたのは、心矢が高校に入学してきた早々の話である。
 俺の教室に来たかと思えば、満面の笑みでドアから顔を覗かせて手招きする心矢。そんな彼を見て、全身に鳥肌が立ったのと、汗を滲ませたのと、頭が真っ白になったのは記憶に新しい。
 元々、心矢は俺に執着している節があった。中学生の時も同じ部活に入りたがったし(と言っても俺はテニス部の幽霊部員だったためほぼ帰宅部だった)、一緒に帰りたがったりもした。
 卒業してからは高校の校門まで迎えに来て「一緒に帰ろう」と腕を引いてきたりもした。
 まだ中学生の頃までは「弟的な存在」で可愛かった。身長もそこまで差がなく、人懐っこい犬のようでもあった。
 しかし、高校生になったら話が少し変わる。彼は俺が通う高校をわざわざ選んだのだ。
 俺は、恐怖した。
 ここまで執着してくるなんて、と驚きを隠せなかった。
 そして、最終的に心矢は俺に「結婚してくれ」と申し出た。
 急激に成長した心矢を見上げる羽目になった俺は、目を白黒とさせ、口を開閉させた。
 ──一体、何だってんだ。
 俺は彼の口から出た言葉を咀嚼し、嚥下できないまま心矢の瞳を見つめる。
 幼少期から変わらない茶色の瞳は、あの日より切れ目でスッとしている。顔つきも大人っぽく変化し、俺より年上に見える。
 世間でいう「イケてるメンズ」へと変貌した心矢に求婚された俺は、どうして良いか分からなかった。

「し、し、心矢。もしかしてお前、幻覚が見えているのか? 俺が、美少女に見えてるのか?」
「ううん。ゆうくんは、ゆうくんだよ。どっからどう見ても、男だね。美少女とは程遠い……」
「じゃあ、なんで!?」

 なおさら俺は戸惑った。声を張り上げた俺の口元を、心矢が手のひらで覆う。「ゆうくん。声、大きいよ」と顰めた声で囁かれ、さらに眩暈がした。
 ──な、なんかちょっとエッチだ!?
 しかし、そんな考えとは裏腹に、心矢は話を進める。

「結婚もいいけど、先に交際だよね。じゃあ、今日から付き合って」
「い、い、い、意味わからん! なんで結婚? 交際!?」

 「え……」と心矢が目をまん丸とさせた。青天の霹靂と言わんばかりである。やがて眉を八の字にさせ、しょんぼりとした。その姿は叱られた大型犬のようで、庇護欲が擽られた。

「だって、ゆうくん……約束してくれたじゃん……」

 心矢は目を伏せ、唇を尖らせた。その仕草が年齢相応に見え、良心がちくりと痛む。同時に約束とは一体なんのことだ、と小さい脳みそをフル回転させた。
 しかし、浮かぶのはくだらない約束事ばかりだ。埃被った記憶の中でも、彼の言う「約束」は尻尾さえ見せない。
 黙りこくった俺を見かねたのか、心矢がひとりごちるように呟いた。

「公園で……ゆうくんが「お前が高校生になっても好きな人がいなかったら、考えてやらなくもない」って、言ったじゃないか……忘れちゃったの?」

 心矢の言葉を聞いた瞬間、電気のようなものが走った。一気に古い記憶が呼び起こされる。そして、鮮明に再生された。
 ベンチに座るまだかわいい頃の心矢。そんな彼を慰める俺。アホな約束をして、ゆびきりげんまんを交わす俺たち。
 ──言ってたわ。
 完全に失念していた俺は、そこでようやく、なぜ心矢が俺に執着心を見せるのかを理解した。

「あの日から、ずっと僕はゆうくんのこと……好きだったのに……ひどいよ」

 心矢が目元を腕で覆う。肩を震わせ始めた。いよいよ泣き始めた心矢に、俺は慌てふためく。
 心矢に招かれ、教室を抜け出した俺たちは人通りの少ない廊下で話をしていた。しかし、周りの目はものすごく気になる。
 「何あれ、いじめ?」と通り過ぎる女子生徒がヒソヒソと話をしていた。

「し、心矢、泣くなよ。ごめんって」
「でも、忘れてたんでしょ? ゆうくん」
「あ、あはは……」
「笑って誤魔化してる、ひどいよ」

 鼻を鳴らす心矢がひどく可哀想に思え、手を伸ばす。「忘れてないって」と頬を引き攣らせながら彼を撫でると、その手をガッと力強く掴まれた。

「じゃあ、結婚しよう」

 心矢が両手で俺の手を包み込む。キラキラとした目には涙などなく、俺は瞬時に「騙された」と理解した。

「忘れてないって言ったよね、ゆうくん。じゃあ、約束守ってね。結婚しよう」
「う……うぅ……」

 ジィッと目を見つめられ、全身に汗が滲む。
 どう答えていいのだろうか。この回答で俺たちの関係性がガラリと変わってしまう。
 それに、俺は心の準備というものができていない。急に今まで弟みたいに可愛がってきた年下の男に結婚を申し込まれて「そういや、約束してたな。よし、結婚しよう」とはならない。誰だってそうだろう。

「や、約束は守る。ただし……」
「ただし?」
「お前はまだ、高校生になったばかりだ。そんなお前も、生活が変われば気分が変わるかもしれない。だから二ヶ月だけ、猶予をくれ。その間に、新しい出会いがあるかもしれないだろ?」

 心矢はまだ、高校生になったばかりだ。子供の頃にした約束に縛られすぎて周りが見えていないだけかもしれない。
 高校生の新生活なんて、そりゃあ楽しいことが溢れている。視野を広くしたら、俺への執着心が解かれるかもしれない。
 もしかしたら良い女子生徒(もしくは男子生徒)と出会う可能性だってある。

「なにも、そう焦らなくたっていいじゃないか。な? 俺はいつだって、消えることなく居るわけなんだし。そういうのは心に余裕を持って、行動に移すべきだと思うんだ」

 「そうだろ?」と首を傾げて促すと、心矢は黙ったあと、ポツリと呟く。

「そんなに僕のこと、嫌いなの?」
「違うよ、心矢。好きだからこそ、お前に理解して欲しいんだ」

 恨めしそうに俺を見つめる心矢に気圧される。目は野兎を捉える猛獣のようで、恐ろしかった。
 ──どれだけ俺のこと好きなんだよ。
 今までも、こんな目で俺を見ていたのだろうか。だとすれば、これに気がつかない俺は鈍感すぎる。

「……わかった。じゃあ、二ヶ月待つ……」

 納得はいっていない様子だったが、すんなりと彼は身を引いた。
 同時に、チャイムが鳴り響く。俺を助ける蜘蛛の糸のごとく降り注いだ音に、感謝をした。

「じゃ、またな。授業、頑張れよ」

 逃げるように心矢から離れる。教室へ入り込むと、友人である伸晃と目が合った。なぜか顔見知りの友人にホッとした自分がいる。
 席へ戻り、遅れて入ってきた教師の話を右から左へ受け流す。
 ──この日まで、心矢は待ち続けていたのだろうか。
 あの日の約束を忘れることなく、ただ一心に果たされる日を待つ心矢はいい意味で一途だ。悪い意味で、執着心が強い。
 そんな彼を受け入れることが、俺にできるだろうか。
 ふぅとため息をつき、目を瞑る。瞼の裏に、まだかわいい頃の心矢が浮かんだ。



「ねぇ、嶋田くん。今朝、教室に来た子と知り合いなの?」

 クラスの女子たちが、きゃらきゃらと鈴が鳴るような声をあげて俺に問うてきた。みんな目を輝かせて、浮ついた様子である。
 俺は口の中に含んでいたおにぎりを嚥下し、包まれていたアルミのホイルをグシャリと丸めた。

「知り合いっていうか、幼馴染かなぁ……妹と同級生なんだ」
「へぇ、そうなんだ。あの子、めっちゃカッコいいよね」
「背も高いし、スタイルいいし」
「今、彼女とかいないのかな?」
「さ、さぁ? ……いないんじゃないかな?」

 まるでアイドルに黄色い声援をあげるように、女子たちが言葉を述べる。
 心矢は俺に求婚する変人だぞと告げたら、この中の何人かは泡を吹いてぶっ倒れるに違いない。
 俺はそんな無粋なことをしたくなくて、あえて口を噤んだ。
 そう、心矢はモテる。それはもうモテる。顔もいいしスタイルもいいし、頭もいいしスポーツもできる。
 ただ一つ欠点があるとすれば、それは俺のような男を好きだという点だろう。
 彼の性癖と嗜好を狂わせてしまった俺は、石を投げられるほど罪な男かもしれない。
 聞きたかった情報を手に入れた女子たちはそそくさと退散した。
 俺自身には興味ないのか……と少ししょんぼりしつつ、麦茶を飲み下す。

「優希、俺もひとつ聞いていいか?」
「なんだよ、伸晃」

 向かいに座っていた伸晃が身を乗り出した。

「その、幼馴染の一年生について」

 まさかこいつも心矢狙いか? あいつどっちにもモテるな、と肩を竦めつつ「なんだよ」と返す。

「部活はバスケ部に来てくれとだけ伝えといてくれないか」
「あー……残念、心矢はずっと文化部だ」
「嘘だろ? あのナリで!?」
「そうなんだよ。あのナリで文化部だから、余計にそのギャップでモテるんだ」

 確か写真部だった気がするなぁ、と天井を見上げる。そこでふと、俺が盗撮されているのではないか、という被害者意識が芽生えた。
 だが、かぶりを振る。そこまで心矢が変人だとは思えない。俺は自意識過剰の化身である──そうであると信じたい。

「どうした、優希。なんか顔色悪いぞ」

 伸晃にそう言われ、慌てて頬に手を伸ばす。皮膚にじっとりと汗が滲んでいた。
 俺は無理に笑顔を作り「ちょっと腹が痛いだけ」と目を細めた。



 家に帰るとリビングのソファで真衣が寛いでいた。すでに制服を脱ぎ捨てた彼女は、スウェットを着て、ポテトチップスを食べながらスマホをいじっている。

「なぁ、真衣」
「うん?」

 真衣はこちらへ目をくれることなく返事をした。

「心矢のことについてちょっと聞きたいんだが」

 真衣はちらりと俺へ視線を遣り「あぁ……」と天井を見上げた。

「心矢くんねぇ。あの人、本当にお兄ちゃんのこと好きだよねぇ」

 さらりとそう言われ、どきりと胸が跳ねた。

「心矢くん、きょうだいがいないからお兄ちゃんみたいな人がほしかったんだろうね。うちのお兄ちゃんでよければあげるよって何度も言ってるんだ」

 ガハハと笑う妹を殴りたくなったがグッと我慢した。
 実の妹である真衣に「お兄ちゃんでよければあげるよ」などと言われ、心矢がどんな気持ちを孕ませたか、想像するだけで冷や汗が止まらない。

「で、心矢くんがどうしたの?」
「あいつ、俺のこと探ったりとかしてないか?」
「え? してるよ?」

 あっけらかんと言われ、俺は悲鳴をあげそうになった。

「好きな食べ物は、とか。好きな色は、とか。最近はどんな漫画が好きか、とか。きのう何を食べたか、とか」

 「なんでそんなこと聞くのかな? よっぽどきょうだいが欲しかったんだろうなぁ。お兄ちゃんのこと本当のお兄ちゃんみたいに慕ってるし」。真衣がなんてことないように言葉を並べる。
 我が妹の鈍感さに心底、呆れる。お前の実の兄は、いま狙われているんだぞ。

「……そうか。あと、あいつ写真部だったよな。どんな写真を撮ってたか、わかるか?」
「さぁ? 正直、お兄ちゃんの話以外ではあまり仲良くなかったし。あ、でも運動会の写真はなんか必死に撮影してたなぁ」

 俺は背筋が寒くなるのを感じた。しかし、運動会の写真を撮っていただけで、俺を撮っていたとは限らない。だからまだ、慌てる時間ではないと思ったのだ。

「そういや、一枚だけお兄ちゃんの写真をくれたよ。よく撮れてるでしょって見せてきた。でも、実の兄の走ってる姿なんて別にほしくないから、心矢くんの家宝にしたら? って冗談で返した。心矢くん、冗談が通じたのかものすごくニコニコしてたよ」

 俺はその場でずっこけそうになった。予感は遠からず近からずといったところかもしれないが、俺の写真を実妹のお墨付きで家宝にして良いと言われたときの心矢を想像し、喉が引き攣った。

「そうか……」
「どうしたのお兄ちゃん。顔色、悪くない?」
「……気にすんな」

 心矢に(俺の約束が発端とはいえ)求婚されて色々疲れているんだとは言えず、俺は二階へ上がり自分の部屋へ向かった。
 満身創痍の体をベッドに預ける。
 ふと、心矢の顔が浮かんだ。幼少期の可愛らしさを残す顔と、今の凛々しい顔が重なる。
 ──マジであいつ、俺のこと好きなのか……。
 冷静になって考えてみると恥ずかしさで頬が染まった。
 ずっと俺だけを想い続けていた愚かな男が哀れに思え、その執着心に恐怖を覚える。

「心矢と、俺が……」

 もし仮に、心矢が他に心移りをしなかった場合、俺達は結婚を前提に付き合うことになる。
 手を繋いだり、キスをしたり、見つめ合ったり、抱きしめ合ったりするのだ。
 ──うわぁ……。
 想像した途端、体が火照った。そして、同時にその光景に嫌悪感を覚えなかった自分がいる。
 むしろ、あの心矢の隣りに立つのが俺でよいのか? とさえ思ってしまった。

「俺、どうすりゃいいんだ……」

 自分のせいで性癖が歪んでしまった男をどうにか救ってやりたい。そのためにできることはただひとつ。心矢に俺を諦めさせることだ。他に心移りをしたら、きっと俺のアホヅラなんか忘れるに決まっている。
 不意に心矢と俺が口づけをしている場面を妄想してしまい「ぎゃあ!」と叫んでしまった。



 玄関の鏡で制服を整え、母の押し付けた弁当をリュックへ詰め込む。スニーカーの紐を結び直し、ドアを開けたところで心矢の朗らかな笑顔と遭遇し、俺は後ろにすっ転びそうになった。

「あら、心矢くんじゃない」
「お久しぶりです、おかあさま」

 フッと目を細める心矢に母は「やだぁ、おかあさまだってぇ」と俺の背中を叩いた。
 俺の内心など知りもしないであろう母の平手の強さを無視し「……行ってきます」とぶっきらぼうに告げる。

「……お前、いつからここに?」
「ついさっき、来たばかりだよ。一緒に学校へ行ってもいい?」

 俺より身長が高い心矢だが、なぜか上目遣いで見られているような感覚に陥る。さらに首をこてんと傾げられ、俺は無意識で頷いていた。
 「やったぁ」と歯を見せる心矢が俺の隣を歩む。浮ついた足取りが妙に子供らしくて、心矢の大人びた顔つきとのギャップにどぎまぎした。

「……心矢」
「なに?」

 俺に名前を呼ばれて嬉しいのか、心矢はふわついた声で返答する。俺は息を吸い込み、静かに、そして長く吐き出す。

「お前、写真部だったよな?」
「……」

 心矢のまとった空気が凍る。

「どんな写真を撮ってた?」
「……背景とか、花とか」
「……俺は?」

 ちらりと心矢を見た。彼はじっと俺を見つめたまま、黙りこくった。
 長い沈黙が続く。鳥の鳴く声が俺達の間を流れた。

「その沈黙は、答えなんだよ心矢……!」

 俺は頭を抱えた。心矢は真顔のまま表情筋ひとつも動かさない。否定しないまま俺を見つめ続ける心矢はホラー映画より怖かった。

「ところでゆうくん」
「うわぁ! 何事もなかったように話題を変えるなぁ!」

 心矢はニコリと微笑み、俺へ問いかけた。ケロッとした彼は言葉を続ける。

「今日の放課後、一緒に帰ってもいい?」

 部活があるから無理と言いたかったが、あいにく俺は帰宅部だ。こういう時に部活に入っておくべきだったなと後悔する。
 「お前、部活は?」と問いかけると「写真部がないから、帰宅部にしたんだ」と笑顔で返された。
 察するに俺が帰宅部だから、帰宅部にしたんだろう。考えすぎかもしれないが、引く手あまたの彼がわざわざ帰宅部を選ぶ理由がわからなかったのであながち間違いではなさそうだ。

「別に、いいけど」

 正直、断る理由もない。ここで無理に拒絶すると、俺が意識しすぎているみたいでカッコ悪く思えた。
 「ありがとう」と目を細める心矢は、どこからどうみても平凡な年上男を好きになるような存在ではない。
 もったいないなぁコイツ、と内心ため息を漏らす。

「……お前さ、なんで俺のこと好きなの?」

 ずっと思っていた純粋な疑問だった。何故、彼はここまで俺に固執するのか謎であった。
 心矢は困ったように笑い「なんでかなぁ」とひとりごちた。

「……わかんねぇのかよ」
「なんだろうね。でも、直感でそう思ったんだ。この人が運命の人なんだって」

 穏やかな口調でそう言われた。ふわりとした声だったが、しかし芯のある声だった。それがなんだか気恥ずかしくて「ふぅん」と鼻を鳴らす。
 ふと、真横を自転車が通り抜けた。艷やかな黒髪のポニーテールを揺らした彼女は、一瞬こちらを振り返る。
 俺を一瞥し、間をおいて心矢を見た。
 やがて目をそらし、そのまま遠ざかる。
 制服を見る限り、俺達と同じ高校に通う生徒だ。

「知り合いか?」
「多分、同じクラスの笹部さんだった気がする。バレー部にはいるらしいよ」
「やけに詳しいな」
「だって、男子バレー部に入らないの?ってきのう話しかけられたし」

 ふぅんと鼻を鳴らす。そこでハッとあることに気がついた。
 わざわざこちらを振り返ったバレー部の女子。彼女はもしかしたら心矢に気があるのかもしれない。
 新しい春の風が、心矢に舞い込むのでは? と思いつつ、いやいや俺は田舎の厄介な老人かよと肩をすくめた。



「あの、嶋田先輩いますか?」

 放課後。教室は騒がしかった。俺はほぼ何も入っていないリュックを背負い、さて帰ろうかと席から体を起こす。
 途端、教室の外から女子生徒が俺の名前を呼んだ。
 「嶋田、女子が呼んでるぞ」。窓の近くにいた男子が俺に聞こえるように声を張り上げる。ニヤついた顔を貼り付けたそいつを睨みつけ、俺は彼女のもとへ走った。
 女子生徒は、今朝すれちがった心矢の同級生であった。確か、名前は笹部だった気がする。
 ぽかんとした俺を、黒い瞳でじっと見つめる。

「ちょっと、お時間ありますか」

 そう問われ、俺は詳細を聞くことなく静かに頷いた。踵を返し人気のない場所へ向かう彼女の背中を追う。
 やがて、校舎裏の日陰になる場所へ招かれた。
 高い位置で髪の毛を結った彼女は、その馬のしっぽを揺らし、俺を見上げる。
 ──もしかして。
 俺はある考察をしていた。それは、彼女が俺から心矢の情報をえようとしているのではないかということだ。
 登校時に俺といる所を目撃した彼女は、まずは外堀から埋めようと、俺を呼び出したに違いない。
 これはいいチャンスでは……? と思う反面、心の隅がチクリと傷んだ。
 ──チクリ?
 なぜ、心が痛むのだろう。俺は上手く言い表せない感情を孕んでいた。心矢の視野を広くしようとしていたはずなのに、いざそうなるとモヤモヤする。

「嶋田先輩、あの……」
「は、はい」

 心臓がバクバクと脈を打つ。彼女の目は、射るかのごとく俺を見つめている。心の奥底まで見透かすような瞳は、俺の喉をカラカラに乾かした。
 彼女は、唇を舐めたり噛んだりしている。やがて、口を開けた。

「好きです、付き合っていただけませんか?」

 一瞬、何を言われたのか分からず、俺は固まってしまった。頭の中で、彼女の発した言葉が反芻する。理解ができた瞬間に、喉の奥から声にならない声が絞り出された。

「お、俺!?」
「はい」

 彼女は顔を真っ赤にして目を伏せている。
 ──まさか、俺の方かよ。
 目の前にいる女子生徒を見つめる。彼女は確かに、愛らしい。けれど、告白されても嬉しくはなかった。
 何故だろうと考えた瞬間に心矢の顔が浮かんだ。まさか、と思いつつ、かぶりを振る。

「ご、ごめん。俺、好きな人……いるから、無理」

 咄嗟に飛び出た言葉に、俺は背筋が張った。
 ──今、なんて?
 目の前がチカチカとして、身体中が熱くなった。汗が額を伝い、頬へ流れる。

「そ、そうなんですね……」

 彼女は、今にも泣きそうな声を振り絞った。俺は泣かせたくなくて、声を荒げた。

「悲しませて、本当にごめん。でも、君はすごく魅力的だし、素敵な女性だから、俺なんかよりもいい男がすぐに見つかるよ! 俺が保証する!」

 グッと親指を立てると、彼女は泣きそうな顔をくしゃりと歪めて肩を竦めた。「ありがとうございます」と頭を下げ、小走りでその場を去った。
 失礼なことをしてしまったな、と後悔が押し寄せる。彼女の悲しい顔を思い出し、ため息を漏らした。
 ──けれど。
 俺は自分の中で芽吹き始めている感情に気づき始めていた。

「ゆうくん」

 ふと、声が聞こえた。顔を上げると、入れ違いで心矢がこちらへ走ってきていた。俺は自分の頬をパンと叩き、いつもの表情を作る。
 「ごめん、そういえば一緒に帰るって約束してたな」と笑顔を作るが、心矢の顔は強張っていた。
 肩で呼吸を繰り返し、汗を拭った心矢は口を開く。

「今、笹部さんに何を言われたの?」
「えっと……」

 彼の目は、ひどく恐怖を煽った。俺は視線を逸らしたが、それは許さないと言わんばかりに肩を掴まれる。
 驚きのあまり、心矢へ視線を戻す。

「告白、されたんだよね?」
「な、なんで……」
「ゆうくんの雰囲気で分かるよ」

 なんだそりゃ、こえーよ。なんて冗談を言えないほど、心矢は真剣だった。

「……僕はゆうくんの幸せを願っているよ。それは本心だ──でも、やっぱり無理。ゆうくんが僕以外の人間と付き合うなんて、嫌だ。好きなんだ、ずっと。本気で、好きなんだ。ゆうくんのこと、渡したくない。絶対に!」

 肩を掴んでいた手に力を込められ、体が跳ねる。心矢の顔は、今まで見たことないぐらいの気迫だ。

「渡したくない……! ゆうくんを好きな気持ちは、誰にも負けない! 絶対に、絶対に渡さない! 好きなんだ、誰よりも!」

 いつもは余裕のある心矢が、声を荒げている。嫉妬と欲望が渦を巻き、どう対処して良いのか分からず、パニックを起こしていた。
 俺は、なぜかそんな心矢に胸がドキドキと高鳴った。それほど俺を好きだったんだと、改めて実感させられる。
 そして、同時に彼へ委ねてみたいと思ったのだ。

「僕以外を見ないでほしい! 僕だけのゆうくんであってほしい!」

 顔を俯けた彼は、荒い呼吸を繰り返した。肩に置かれていた手が震える。
 その手に、触れてみる。汗ばんだ手のひらを掴み、握りしめた。

「心矢。お前の気持ちは、痛いほどわかったよ」

 心矢が顔を上げる。涙ぐんだ瞳に俺が映った。

「告白はされたけど、断ったよ」
「そうなの?」
「だって、俺にはお前がいるし……」

 言葉にしたは良いものの、語尾が徐々に弱まる。比例して、心矢の瞳がキラキラと輝きだす。
 「それ、本心?」と前のめりになって聞いてきた。鼻と鼻が触れ合うぐらいに密着してきた心矢から一歩退く。

「本心も何も……約束、だろ」

 鼻を鳴らすと、心矢は嬉しそうに頷いた。そんな彼が可愛くて、俺も心の底で「心矢を誰かに奪われるのは嫌だ」と思ってしまった。
 意外と俺も嫉妬深いのかもな、と思いつつ、スニーカーで地面を蹴る。唇を尖らせながら、ひとりごちた。

「……二ヶ月の猶予も、無しでいいよ」
「いいの?」

 花が咲いたように笑う心矢から目を逸らし、首を縦に振った。「じゃあ、今から結婚できるってことだね!」と浮ついた声を漏らし、心矢がズボンのポケットを探った。何事だと片眉を上げた俺の前に、一枚の紙を掲げた。

「なんだこれ」
「婚姻届はまだ無理だから、契約書」
「え……」
「ゆうくんが逃げないように、契約書」
「契約書……」
「口約束だけじゃ、逃げちゃうかもしれないからね」
「ヤベェ、前言撤回したいかも」
「無理だよ、実はさっきの会話もスマホで録音も録ってるんだ」

 「だから、逃げられないよ」と微笑む心矢に「こえーよ!」と俺は叫んだ。

「冗談だよ」
「心矢、冗談は笑えなきゃ冗談にはならないんだよ……」

 頭を抱え、ため息を漏らした俺の手を、心矢が握る。真剣な眼差しに射られ、ドキリと胸が跳ねた。

「……幸せにする。絶対に」

 俺は絶対という言葉を信じてはいない。そんなもの幻想でしかないからだ。
 しかし、目の前の男の吐く「絶対」は本当にそうであるように思えた。
 俺は頬を染めながら小さく頷く。

「……お前こそ、その言葉を守れよ」
「もちろん」

 ニコリと微笑んだ心矢が、顔を寄せた。雰囲気的にキスをする流れだろう。だが、俺は彼の薄くて形のいい唇を手のひらで覆った。

「ま、まだ早い……!」
「だめ?」
「首を傾げて可愛い子ぶってもダメだ!」

 しょんぼりとした心矢の頭を撫で「段階を踏んでから、だな」と慰める。気分を良くしたのか、彼は涙目を拭い「じゃあ、先にこの契約書にサインと実印と拇印をお願いね」と言われた。
 「保険の契約かよ」とツッコミをしながらも、俺は本当にこのおかしな男とうまくやっていけるのだろうか、と再び頭を抱えた。



 これが初恋だと、そのとき直感で思った。僕の手を引き、ベンチへ座らせてくれた男の子は、泣きじゃくる僕を迷惑がることなく面倒を見てくれた。
 涙で歪んだ視界の中、傷口をハンカチで抑えてくれた彼は、絆創膏をポケットから取り出した。
 少しぐちゃりと歪んだそれを膝へ貼り付けて「泣くなよ、ほら。痛いの痛いの飛んでいけー」と呪文を唱えた。そのあと、恥かしくなったのか人差し指で頬を掻いた。
 そんな彼がとても愛らしく思えた。きっと彼は僕より年上だ。けれど、どうしようもなく可愛く思えたのだ。
 そして、彼を離したくないと思った。
 咄嗟に僕の口から「大きくなったら結婚して」という言葉が溢れた。男の子はびっくりしているのか目をまん丸とさせている。
 やがて僕の頭をくしゃりと撫でて「お前が高校生になっても好きな人がいなかったら、考えてやらなくもない」と微笑んだ。
 その言葉が、僕の胸に深く刻まれた。

「約束」

 指を差し出した僕に、呆れ気味に彼が小指を絡める。ゆびきりげんまんを歌う僕を見て、彼は穏やかな目をしていた。

「お兄ちゃん、名前は?」
「優希だよ」

 ゆうき。口の中で呟き、咀嚼する。なんだかとても甘いお菓子を食べているような、そんな感覚に陥った。

「ゆうくん」

 発した言葉に僕はドキドキと胸が跳ねた。名を呼ばれたゆうくんは照れくさそうに笑った。

「お前の名前は?」
「心矢」
「へぇ。よろしくな、心矢」

 名前を呼ばれると、さらに心臓が脈を打つ。膝の痛みなんて、とうの昔に忘れ去っていた。
 やがて、ゆうくんが手を握る。「もう痛くなくなったか? 遊びに行くか?」と言い、手を引いた。
 手を握りながら、ゆうくんの背中を見上げる。彼は時々振り返り、僕へ微笑みかけた。
 その時に思ったのだ。彼は運命の人だ、と。
 そして同時に思った。僕は彼を幸せにするために生まれてきたのだ、と。
 ゆうくんの手を、もう一度強く握った。
 暖かい体温が伝わる中、僕はゆうくんの背中だけをずっと見つめ続けていた。