香りの記憶、人生の処方箋




その日の夕方。
店が少し落ち着いた頃、私は店の奥で在庫整理をしていた。
精油の瓶を棚に並べながら、今日のことを思い返していた。
彩花さんと翔太さん。
遠距離恋愛の二人。
会えない時間が不安にさせるけど、それでもお互いを大切に思っている。
その気持ちを、香りで繋ぐことができた。
――私にも、できるんだ。
そう思えたことが、嬉しかった。

「おじいちゃん、和花さん、お疲れ様」

聞き慣れた声。
振り返ると奥から蓮さんが現れた。

「蓮、作業は捗ったのか?」

誠一郎さんが笑った。

「うん。ちょっと休憩も兼ねてここにね」

蓮さんはノートパソコンとカメラを持っていた。

「そうそう。店のSNS、デザイン考えてたんだ」

私は棚の脇から顔を出した。

「もう作ってくれてるんですか?」
「まだ下書きだけどね」

問いかけると、蓮さんは嬉しそうに笑った。

「ちょっと見てもらってもいい?」
「はい」

私はカウンターに戻った。
蓮さんがパソコンを開いて、画面を見せてくれる。
そこには、店のロゴと写真が並んでいた。
木の温もりを感じさせる店内の写真。
精油の瓶が並ぶ棚。
窓から差し込む光。
どれも、「桐の香」の雰囲気を優しく伝えている。

「わあ……!素敵です」

私は思わず声を上げた。

「ありがとう」

蓮さんは照れたように笑った。

「和花さんの接客の様子とか、店の雰囲気とか、写真で伝えたいなって」
「私の接客?」
「うん。さっきのカップル、すごく嬉しそうだったよ」

蓮さんは頷いた。

「……聞こえてました?」
「ごめん。奥で作業してたら、会話が聞こえてきて」

蓮さんは申し訳なさそうに言った。

「でも、和花さん、ちゃんと二人の気持ちに寄り添ってたよ。遠距離恋愛の不安を理解して、香りで繋ぐっていう提案、すごく良かったと思う」

そう言われて、私は少し恥ずかしくなって俯く。

「そんな……まだまだですよ」
「また謙遜してる」

蓮さんは笑った。
少し沈黙が流れた後、蓮さんがふいに口を開いた。

「……和花さん、変わったね」
「えっ?」
「最初に会った頃、もっとそっけなかったもん」

蓮さんはからかうように言った。

「客が来ても『ご自由にどうぞ』って言って、すぐ自分の作業に戻ってたし」

私は顔が熱くなった。

「……そうでしたね」
「でも今は、すごく優しい顔で接客してる」

蓮さんは真剣な表情になった。

「和花さんの成長、ずっと見てたよ」

その言葉に、私の心臓が跳ねた。
見てた?
ずっと?

「あ、でも変な意味じゃなくて!」

蓮さんが慌てて手を振った。

「ただ、応援してるって意味で。おじいちゃんの店を手伝ってる和花さんが、ちゃんと成長してくれたら嬉しいなって」
「あ、ありがとうございます……」

私は小さく言った。
蓮さんは少し照れたように笑って、パソコンに視線を戻した。

「SNS、もう少し作り込んだら、また見せるね」
「はい、楽しみにしています」

私たちは、少しぎこちなく笑い合った。
でも、その沈黙は、決して嫌なものじゃなかった。



その夜、店を閉めた後。
私は一人、香りの棚の前に立っていた。
ローズマリーの瓶を手に取る。
記憶のハーブ。
大切な人を忘れないための香り。
私にも、忘れられない人がいる。

瀬川遼さん。
大学の先輩。片思いの相手。
私が香りを贈って、傷つけてしまった人。
あれから四年。
私は、まだあの日のことを忘れられない。
でも――。
今日、彩花さんと翔太さんを見て、思った。
香りは、人を繋ぐこともできる。
傷つけるだけじゃない。
人を幸せにすることもできる。
もしかしたら、私も――。
いつか、もう一度、誰かに香りを贈れる日が来るかもしれない。
そんな、ささやかな希望を感じた。

窓の外を見る。
月が静かに輝いていた。
秋の夜空に浮かぶ、優しい光。
私は瓶を棚に戻して、深呼吸した。
ローズマリーの香りが、鼻腔をくすぐる。
記憶の香り。
約束の香り。
――いつか、きっと。
私もまた、誰かと約束を交わせる日が来る。
そう信じて、前に進もう。
一歩ずつ。