◇
その日の夕方。
店が少し落ち着いた頃、私は店の奥で在庫整理をしていた。
精油の瓶を棚に並べながら、今日のことを思い返していた。
彩花さんと翔太さん。
遠距離恋愛の二人。
会えない時間が不安にさせるけど、それでもお互いを大切に思っている。
その気持ちを、香りで繋ぐことができた。
――私にも、できるんだ。
そう思えたことが、嬉しかった。
「おじいちゃん、和花さん、お疲れ様」
聞き慣れた声。
振り返ると奥から蓮さんが現れた。
「蓮、作業は捗ったのか?」
誠一郎さんが笑った。
「うん。ちょっと休憩も兼ねてここにね」
蓮さんはノートパソコンとカメラを持っていた。
「そうそう。店のSNS、デザイン考えてたんだ」
私は棚の脇から顔を出した。
「もう作ってくれてるんですか?」
「まだ下書きだけどね」
問いかけると、蓮さんは嬉しそうに笑った。
「ちょっと見てもらってもいい?」
「はい」
私はカウンターに戻った。
蓮さんがパソコンを開いて、画面を見せてくれる。
そこには、店のロゴと写真が並んでいた。
木の温もりを感じさせる店内の写真。
精油の瓶が並ぶ棚。
窓から差し込む光。
どれも、「桐の香」の雰囲気を優しく伝えている。
「わあ……!素敵です」
私は思わず声を上げた。
「ありがとう」
蓮さんは照れたように笑った。
「和花さんの接客の様子とか、店の雰囲気とか、写真で伝えたいなって」
「私の接客?」
「うん。さっきのカップル、すごく嬉しそうだったよ」
蓮さんは頷いた。
「……聞こえてました?」
「ごめん。奥で作業してたら、会話が聞こえてきて」
蓮さんは申し訳なさそうに言った。
「でも、和花さん、ちゃんと二人の気持ちに寄り添ってたよ。遠距離恋愛の不安を理解して、香りで繋ぐっていう提案、すごく良かったと思う」
そう言われて、私は少し恥ずかしくなって俯く。
「そんな……まだまだですよ」
「また謙遜してる」
蓮さんは笑った。
少し沈黙が流れた後、蓮さんがふいに口を開いた。
「……和花さん、変わったね」
「えっ?」
「最初に会った頃、もっとそっけなかったもん」
蓮さんはからかうように言った。
「客が来ても『ご自由にどうぞ』って言って、すぐ自分の作業に戻ってたし」
私は顔が熱くなった。
「……そうでしたね」
「でも今は、すごく優しい顔で接客してる」
蓮さんは真剣な表情になった。
「和花さんの成長、ずっと見てたよ」
その言葉に、私の心臓が跳ねた。
見てた?
ずっと?
「あ、でも変な意味じゃなくて!」
蓮さんが慌てて手を振った。
「ただ、応援してるって意味で。おじいちゃんの店を手伝ってる和花さんが、ちゃんと成長してくれたら嬉しいなって」
「あ、ありがとうございます……」
私は小さく言った。
蓮さんは少し照れたように笑って、パソコンに視線を戻した。
「SNS、もう少し作り込んだら、また見せるね」
「はい、楽しみにしています」
私たちは、少しぎこちなく笑い合った。
でも、その沈黙は、決して嫌なものじゃなかった。
◇
その夜、店を閉めた後。
私は一人、香りの棚の前に立っていた。
ローズマリーの瓶を手に取る。
記憶のハーブ。
大切な人を忘れないための香り。
私にも、忘れられない人がいる。
瀬川遼さん。
大学の先輩。片思いの相手。
私が香りを贈って、傷つけてしまった人。
あれから四年。
私は、まだあの日のことを忘れられない。
でも――。
今日、彩花さんと翔太さんを見て、思った。
香りは、人を繋ぐこともできる。
傷つけるだけじゃない。
人を幸せにすることもできる。
もしかしたら、私も――。
いつか、もう一度、誰かに香りを贈れる日が来るかもしれない。
そんな、ささやかな希望を感じた。
窓の外を見る。
月が静かに輝いていた。
秋の夜空に浮かぶ、優しい光。
私は瓶を棚に戻して、深呼吸した。
ローズマリーの香りが、鼻腔をくすぐる。
記憶の香り。
約束の香り。
――いつか、きっと。
私もまた、誰かと約束を交わせる日が来る。
そう信じて、前に進もう。
一歩ずつ。

