香りの記憶、人生の処方箋

真帆さんが店を退店してから、一週間程が経った。
秋の深まりを感じる季節。
商店街の街路樹が、少しずつ色づき始めている。
朝晩は肌寒くなり、店に来るお客さんもカーディガンやジャケットを羽織るようになった。
私は今日も変わらず、「桐の香」のカウンターに立っている。
でも、一週間前の私とは、少し違う。
お客さんが来ると、以前よりも積極的に声をかけるようになった。

「何かお探しですか?」
「どんな香りがお好きですか?」

そんな、ささやかな言葉。
たったそれだけのことなのに、私にとっては大きな変化だった。
真帆さんとの出会いが、私を動かした。

人の話を聞くこと。
相手に寄り添うこと。

それが、どれだけ大切か。私は、ようやく気づき始めていた。


「和花、最近いい顔してるね」

誠一郎さんが、店の奥から顔を出してそう言った。
私は少し照れくさくて、笑って誤魔化した。

「そうですか?」
「ああ。客と話す時の君の表情が、柔らかくなった」

誠一郎さんは穏やかに笑った。

「それでいいんだ。それが、君らしい接客だよ」

その言葉が、胸に温かく染みた。
私らしい接客……か。
まだ、それが何なのか完全には分からない。
でも、少しずつ、見つけていけたらいい。



土曜日の午後。
店は比較的混んでいた。
週末は、ふらっと立ち寄るお客さんが増える。
若いカップルや、友達同士の女性たち。
中には、一人で香りを選びに来る男性もいる。
カウンターで接客しながら、私は店内の様子を見渡した。
窓から差し込む秋の日差しが、棚に並ぶ精油の瓶を照らしている。
琥珀色、淡い黄色、透明……光を通して、瓶たちがキラキラと輝いている。
店の奥のカフェスペースでは、一人の女性が本を読みながらハーブティーを飲んでいた。
ラベンダーティー。彼女のお気に入りだ。
混んでいて店内がにぎわっていても、穏やかな時間が流れている。
こういう瞬間が、私は好きだった。

その時、カランカランとドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

私は顔を上げて、笑顔で迎えた。
入ってきたのは、若いカップルだった。
男性は20代半ば、黒縁メガネをかけた知的な雰囲気。
少し緊張した様子で、店内を見回している。
女性も同じくらいの年齢で、ショートカットが似合う活発そうな人。
彼女は男性の腕を掴んで、嬉しそうに店内を見ている。
二人は手を繋いでいた。
仲の良いカップル、という印象だった。
でも、どこか――少しだけ、不安げな表情も見える。

「ねえ、ここ素敵なお店じゃない?香りもいいし!」

女性が明るく言った。

「本当だ。すごくいい香りがするね」

男性も頷いている。
二人はしばらく店内を見て回った後、私のところに来た。

「あの、すみません」

女性が声をかけてきた。

「はい、何かお探しですか?」
「カップルで使える香りって、ありますか?」

女性は少し照れたように笑った。
カップルで使える香り?
私は少し考えた。

「お二人で同じ香りを、ということですか?」
「はい」

女性は頷いた。

「私たち、遠距離恋愛をしていて。なかなか会えなくて」

その言葉に、私は少しハッとした。
遠距離恋愛……。
会いたい時に会える距離にいない。
不安と寂しさで押しつぶされそうになる時もあるのだろう。

「同じ香りを持っていたら、離れていても繋がれる気がして」

女性の声に、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。
隣の男性も静かに頷いた。

「お互いを感じられる、そんな香りがあれば」

二人の表情を見て、私は何かを感じた。
彼らは、お互いを大切に思っている。
でも、離れている時間が、二人を不安にさせている。
その気持ち、少しだけ分かる気がした。

「分かりました。一緒に探しましょう。お二人の香りを」

私の言葉に二人の顔が、パッと明るくなった。



私は彼らを、カフェスペースに案内した。

「よかったら、まず少しお話を聞かせてもらえますか?」

二人は顔を見合わせて、頷いた。
私は彼らにハーブティーを出した。
今日もカモミールティーは心を落ち着かせる香りを漂わせている。

「お名前、聞いてもいいですか?私は柚木和花と申します」
「あ、私は小林彩花です」

彩花さんは明るく答えた後、隣の男性の方を見る。

「こっちは、高橋翔太」
「よろしくお願いします」

翔太さんが少し恥ずかしそうに頭を下げた。

「よろしくお願いします。さっそくですが、お二人は、どれくらい遠距離なんですか?」
「私が大阪で、翔太が東京です。新幹線で二時間半くらいかな」
「月に一回、会えたらいい方です」

彩花さんの言葉に、翔太さんが少し寂しそうに続けて言った。

「そうなんですね」

私が頷くと、彩花さんがカップに視線を落とした。

「最近、すれ違いが多くて」
「すれ違い……?」
「はい。メッセージのタイミングも合わないし、電話してもお互い疲れてて、ちゃんと話せなくて」

彩花さんの声が、少し沈んだ。
翔太さんも身を乗り出して必死な表情で続ける。

「会えない時間が長いと、不安になるんです」
「このまま、気持ちが離れていくんじゃないかって」

二人の表情には、確かに不安が浮かんでいた。
でも同時に、お互いを見つめる目には、深い愛情も感じられた。
私は少し考えて、言った。

「……お二人とも、ちゃんとお互いのこと、大切に思ってますね」

私の言葉に二人はきょとんとした。

「え?」
「だって……」

私は微笑んだ。

「こうやって一緒に香りを探しに来てくれています。それって、繋がりたいって思ってるからですよね」

彩花さんが少し顔を赤らめた。

「そう、ですね」
「気持ちが離れてるわけじゃない。ただ、物理的に離れてるだけ。……だから、不安になるのは当然です。でも、お二人の絆は、ちゃんとそこにあります」

翔太さんが、ほっとしたような表情を見せた。

「そう言ってもらえると、少し安心します」
「じゃあ、大丈夫です。お二人の絆を、香りで繋ぎましょう」

そう言って、私は微笑んだ。



私たちは香りの棚の前に立った。
色とりどりの小瓶が並んでいて、それぞれに、異なる香りが秘められている。

「まず、お二人に知ってほしいことがあります」

私は話し始めた。

「香りって、記憶や感情と深く結びついているんです」

二人は静かに聞いていた。

「だから、同じ香りを嗅ぐことで、同じ気持ちを共有できる。離れていても、その香りを嗅げば、お互いを思い出せる……つまり香りが、二人を繋いでくれるんです」

彩花さんが目を輝かせた。

「素敵ですね」
「はい、私もそう思います。それでは、お二人にぴったりの香りを探しましょう」

私は最初の瓶を手に取った。

「まず、これを」

私はローズマリーの瓶を開けた。
清々しい、少しスッとする香り。

「ローズマリーは、『記憶のハーブ』って呼ばれています」
「記憶?」

翔太さんが首を傾げた。

「はい。昔から、大切な人や約束を忘れないために使われてきたんです」

私は説明を続けた。

「古代ギリシャでは、学生たちが試験の時に頭にローズマリーを巻いたそうです。記憶力を高めるために。……それに、中世ヨーロッパでは、結婚式で新郎新婦がローズマリーを身につけて、永遠の愛を誓ったそうです」
「わあ……っ!ロマンチック」

彩花さんが嬉しそうに目を輝かせた。

「だから、お二人にぴったりだと思います。離れていても、この香りで約束を忘れない。そんな香りです。ぜひ、嗅いでみてください」

私は瓶を差し出した。
彩花さんが先に嗅いで、それから翔太さんに渡す。

「爽やかですね」
「少しスッとする感じ。でも、嫌じゃない」

二人は顔を見合わせて、頷いた。

「そうですか。では、次は、これを」

私はオレンジスイートの瓶を開けた。
甘く、温かい香りが広がる。

「オレンジスイート。これは、温かさと絆を象徴する香りです」
「絆……」

彩花さんが呟いた。

「はい。家族や恋人との繋がりを感じさせてくれる香りなんです」

先ほどと同じように、私は瓶を差し出した。
二人が香りを嗅ぐ。

「これもいい香り!」

彩花さんが笑顔になった。

「温かくて、優しい」

翔太さんも頷いた。

「なんだか、ほっとする香りです」
「そうでしょう?」

私は微笑んだ。

「では最後に、これを。ラベンダーです」

私はラベンダーの瓶を開けた。
柔らかく、優しい香り。

「ラベンダーって……よく聞く香りですよね」

彩花さんが言った。

「そうですね。すごく有名な香りです。実は、ラベンダーという名前は、ラテン語の『洗う』という言葉が由来なんです」
「洗う?」
「はい。古代ローマでは、公衆浴場でラベンダーを使って、心と体を清めていたそうですよ」
「そうなんですね!奥が深いんですね」
「ラベンダーなんて身近に思ってたけど、そんな歴史があったとは……」

彩花さんの反応に、翔太さんも意外そうな表情で頷きながら同調する。
二人の反応を見ながら、私も笑顔で頷き説明を続けた。

「だから、ラベンダーは心を洗い流して、リラックスさせてくれる香りなんです。……不安な時、寂しい時に、この香りを嗅ぐと、心が安らぐんです」

二人が嗅いで、また顔を見合わせた。

「いい香り!」
「うん、そうかも。この香り、俺も好き」

彩花さんが嬉しそうに言うと、翔太さんも同調して頷く。

「じゃあ、この三つでブレンドを作りましょう。お二人だけの香りを」

私はそう提案すると、二人は同時に頷いた。