香りの記憶、人生の処方箋



京子さんが店を出た後、私はしばらくカウンターに立っていた。
彼女の背中は、来た時よりもずっと真っ直ぐだった。
まるで、重い鎖を断ち切ったような……そんな風に見えた。
窓の外を見ると、冬の午後の光が商店街を照らしている。
クリスマスの飾りが、キラキラと輝いている。
人々が行き交い、笑顔で会話を交わしている。
その光景を見ていると、心が温かくなる。

「和花」

誠一郎さんが声をかけてきたので、振り返った。

「今日の君も、とても良かったよ」
「ありがとうございます」

私は少し照れながら答えた。

「京子さんみたいに、人生の大きな転機を迎えている人に寄り添うのは、難しいことだ」

誠一郎さんは続けた。

「でも、君は『焦らなくていい』と言ってあげられた。それが、とても良かった」

その言葉を聞いて、私の胸が少し軽くなった。

「私も…」

私は少し考えてから、口を開いた。

「焦らなくていいんですよね」

誠一郎さんは優しく笑った。

「そうだね。人生に、急ぐ必要はない。自分のペースで、一歩ずつ」

その言葉が、胸に染みた。
私も、焦らなくていい。
蓮さんへの気持ち。
瀬川さんとの過去。
それらと向き合うのは、もう少し先でいい。
今は、目の前のことを、一つずつ。



その日の夕方、店が少し落ち着いた頃、蓮さんが来た。
今日は、SNSの報告に来たらしい。

「和花さん、見て」

蓮さんはスマートフォンを見せてくれた。
画面には、「桐の香」のSNSページが表示されていた。
そして、たくさんの「いいね」やコメントがついている。

「すごい…」

私は思わず声を上げた。

「こんなに反響があるんですか?」
「うん。みんな、和花さんの接客に興味を持ってくれてる」

蓮さんは嬉しそうに言った。

「『香りで悩みに寄り添ってくれる店』って、すごく評判いいよ」

彼の言葉を聞いて、私の胸が温かくなった。

「蓮さんのおかげです。素敵なSNSを作ってくださって」

「いや、和花さんの魅力を伝えただけだよ」

蓮さんは照れたように笑った。

「ねえ、和花さん」

少しの沈黙の後、蓮さんが口を開いた。

「もうすぐクリスマスだけど、予定ある?」

その言葉に、私の心臓が跳ねた。
クリスマス?
予定?

「あ、変な意味じゃなくて!」

蓮さんが慌てて言った。

「おじいちゃんも含めて、三人でご飯でもどうかなって」
「あ…」

私は少しホッとしたような、でも少し残念なような、複雑な気持ちになった。

「はい、大丈夫です」

私は笑顔で答えた。

「じゃあ、また日程調整するね」

蓮さんは嬉しそうに笑った。


彼が帰った後、私は一人、考えていた。
蓮さんとのクリスマス。
誠一郎さんも一緒だけど、それでも嬉しい。
胸が、少しだけ温かくなる。



その夜、店を閉めた後。
私は一人、ペパーミントの瓶を手に取った。
新しいスタートの香り。
蓋を開けて、深く香りを嗅ぐ。
スッとする香りが、心を包んでくれる。
――新しいスタート、か。
京子さんは、新しい人生を歩み始めた。
20年の結婚生活を終えて、自分のために生きると決めた。
その勇気が、すごいと思う。
じゃあ、私は?
私も、そろそろ新しいスタートを切らなければならない。
瀬川さんとの過去と、ちゃんと向き合うこと。
蓮さんへの気持ちを、認めること。
まだ、今じゃない。
でも、そう遠くない未来に。

窓の外を見る。
冬の夜空に、星が冷たく輝いている。
商店街のイルミネーションが、温かい光を放っている。
私は瓶を棚に戻して、深呼吸した。
少しずつでいい。
でも、確実に。
前に進もう。
クリスマスが、もうすぐそこまで来ている。