香りの記憶、人生の処方箋




真帆さんが店を出る時、彼女の表情は来た時とは全く違っていた。
疲れた様子は変わらないけれど、どこか希望が見える。
前を向いている。

「また来ます。本当にありがとうございました」
「はい、お待ちしています」

私は自然な笑顔で答えた。
カランカラン。
ドアベルが鳴って、真帆さんが商店街に消えていく。
私は彼女の背中を見送った。

――私、ちゃんと話を聞けた。
彼女の気持ちに、寄り添えた。
ひとりよがりじゃなく、相手のために。
胸に、温かいものが広がった。

「良かったね、和花」

後ろから声がして、振り返ると誠一郎さんが立っていた。

「誠一郎さん…」
「君の顔、さっきより明るいよ」

誠一郎さんは穏やかに笑った。

「人の話を聞いて、寄り添うこと。それが、香りを扱う者の最初の仕事だ」

私は少し照れながら頷いた。

「まだまだです」
「そんなことない。今日の君は、ちゃんと向き合えていた」

誠一郎さんは私の肩に手を置いた。

「自信を持ちなさい。君には才能がある」

その言葉が、胸に染みた。
才能、か。
私にそんなものがあるのか、まだ分からない。
でも、今日、少しだけ――ほんの少しだけ、前に進めた気がした。
その時、カランカランとドアベルが鳴って、一人の若い男性が入ってきた。

「おじいちゃん、ただいま」
「おお、蓮。今日は早いね」

桐野蓮さん。
誠一郎さんの孫で、27歳。
フリーランスのグラフィックデザイナーをしていて、時間が空くと時々、店を手伝いに来る。

「今日は打ち合わせが早く終わって」

蓮さんは店の奥に荷物を置いて、こちらに歩いてきた。

「お疲れさまです」

私は少しよそよそしく挨拶した。
蓮さんとは、もう1年以上の付き合いになる。でも、まだどこか距離を感じてしまう。
彼は優しくて、いつも穏やかで、誰にでも親切だ。
だからこそ、私は――どう接していいか分からない。

「和花さん、お疲れさま」

蓮さんは柔らかく笑った。

「今日は疲れたから、香り嗅ぎに来た」
「そうですか。どんな香りがいいですか?」
「和花さんが選んでくれる香りがいい」

その言葉に、私は少しドキッとした。

「え、でも……」
「和花さんのセンス、信頼してるから」

蓮さんはさらりと言った。
私は少し迷った後、棚からオレンジスイートの瓶を取り出した。

「じゃあ、これを」

蓮さんが香りを嗅ぐ。

「いい香り。温かくて、優しい」
「疲れた時に、元気をくれる香りです」
「ありがとう」

蓮さんは微笑みながら言う。
少し沈黙が流れた後、蓮さんが口を開いた。

「さっき、お店から出てきた人、すごくいい表情をしてたよ」
「本当ですか?」
「うん。足取りが軽くて希望に満ち溢れた表情でこの店から出てくる事って珍しいなって思ってたんだ。

蓮さんの言葉に、真帆さんが前向きになってくれたのだと改めてわかって、嬉しくなった。

「お客様の話をじっくり聞いて、その気持ちに寄り添って、背中を押したんだよ」
「そっか。……和花さん、優しいね。人の気持ちに、ちゃんと寄り添える」

誠一郎さんから聞いて、蓮さんがパッと笑顔を向けた。

「そんな……まだまだです、私は」

私は少し照れて、視線を逸らした。

「……そういえば」

蓮さんが話題を変えた。

「店のSNSアカウント、作ろうと思うんだけど、どう?」
「SNS?」

誠一郎さんが首を傾げた。

「うん。今の時代、若い人はSNSで店を知るから」

誠一郎さんの反応に、蓮さんが答えると、私のほうに向きなおる。

「和花さんの接客、すごくいいと思う。もっと多くの人に知ってもらいたいな」
「えっ?いや、私なんて……」
「だから、謙遜しないでよ。君には才能がある。それを、もっと多くの人に届けたい」

蓮さんの言葉に、私は戸惑った。
才能……と言われても。
でも、蓮さんの真剣な眼差しを見て、私は小さく頷いた。

「……考えてみます」
「うん。ゆっくりでいいから」

蓮さんは優しく笑った。



その日の夜、店を閉めた後、私は一人、カウンターに残っていた。
窓の外を見る。
商店街の灯りが、少しずつ消えていく。
夕日が、オレンジ色に街を染めている。

――人の話を聞くこと、か。

今日、真帆さんの話を聞いて、私は何かを感じた。
彼女の苦しみに、寄り添えた気がした。

ひとりよがりじゃなく。
相手のために。
もう一度、ちゃんと向き合ってみよう。
香りと、人と、そして自分自身と。

窓から差し込む夕日が、私を優しく包んだ。
――これが、私の新しい一歩なのかもしれない。