香りの記憶、人生の処方箋



香りの棚の前に京子さんを案内し、並んで立つ。
窓から差し込む冬の光が、精油の瓶を照らしている。
透明なガラスが、冷たい光を受けて静かに輝いていた。
商店街のクリスマスの飾りが、窓越しに見える。
その光景が、どこか希望を感じさせる。

「京子さんには、ペパーミントをおすすめします」

私はペパーミントの瓶を手に取った。

「ペパーミント…」

京子さんが呟いた。

「歯磨き粉みたいな香りですか?」
「そうですね」

私は笑った。

「ペパーミントは、すごく身近な香りですよね」

私は瓶の蓋を開けた。
スッとする、清涼感のある香りが広がった。
爽やかで、頭をクリアにしてくれるような香り。
鼻腔をゆっくりと満たし、心の奥まで届いていく。

「でも、実はペパーミントには、すごく長い歴史があるんです」

私は説明を始めた。

「ペパーミントという名前は、ギリシャ神話の妖精メンタから来ています」

「妖精…?」

京子さんが興味深そうに聞いた。

「はい。メンタは、冥界の王ハデスに愛された美しい妖精でした。でも、ハデスの妻ペルセポネが嫉妬して、メンタを踏みつけてしまったんです。ハデスは悲しんで、メンタを香り高い植物に変えました。それがミント、つまりペパーミントになったと言われています」

京子さんは少し驚いた表情を見せた。

「そんな神話があったんですね」
「はい。それに、古代エジプトのピラミッドからも、ペパーミントが発見されているんです。それだけ昔から、人々に愛されてきた香りなんです」

京子さんが香りを嗅ぐ。
彼女は目を閉じて、ゆっくりと深呼吸した。
数秒の沈黙。
やがて、彼女が目を開けた。

「…すごく、スッキリしますね」

その声は、さっきよりもずっと明るかった。

「頭が冴えて、前向きな気持ちになります」
「そうでしょう?」

私は微笑んだ。

「ペパーミントは、新しいスタートを応援してくれる香りなんです。頭をスッキリさせて、一歩踏み出す力をくれます」

京子さんは瓶を見つめた。その目には、もう迷いはなかった。

「次は、これを」

私はオレンジスイートの瓶を開けた。
甘く、温かい香りが広がった。
まるで、冬の日差しのような、優しい香り。
先ほどのペパーミントの清涼感と混ざり合って、心地よいバランスを作り出す。

「オレンジは、温かさと自分を愛する力を象徴する香りです」

京子さんが香りを嗅ぐ。
彼女の表情が、柔らかくなった。

「これ、すごく好きです」

その声には、安心感が滲んでいた。

「温かくて、優しい」
「そうでしょう?オレンジは、自分を大切にすることを思い出させてくれる香りなんです」

私は彼女に微笑みかける。

「これまで、京子さんは家族のために生きてこられた。でも、これからは、ご自身のためにも生きていい。……自分を愛していいんです」

京子さんの目に、また涙が浮かんだ。
でも、今度は悲しい涙じゃなかった。

「最後に、これを」

私はベルガモットの瓶を開けた。
爽やかな柑橘系の香りが、先ほどまでの香りと混ざり合う。
まるで、新しい朝の光のような、希望を感じさせる香り。

「ベルガモットは、希望の香りです。これから先、きっと良いことがある。そう思わせてくれます」

京子さんが香りを嗅いで、笑顔を見せた。

「これ、いいですね。明るい気持ちになります」
「では、この3つでブレンドを作りますね」

私は瓶を手にして、祈るようにつぶやいた。

「京子さんが、新しい人生を歩んでいけるように」



カウンターで、私はブレンドを作った。
小さなガラス瓶に、キャリアオイルをゆっくりと注ぐ。
透明なオイルが、瓶の中で静かに揺れる。
窓から差し込む光を受けて、少しだけ金色に輝いて見える。
そして、一滴ずつ、丁寧に精油を垂らしていく。
京子さんが、幸せになれますように。
新しい人生が、素晴らしいものでありますように。
そんな願いを込めて。

「ペパーミントを3滴」

新しいスタートの香り。
透明なオイルの中に、淡い黄色の雫が落ちる。

「オレンジスイートを2滴」

自分を愛する香り。
もう一滴、また一滴。
オイルの中で、色が混ざり合っていく。

「ベルガモットを1滴」

希望の香り。
最後の雫が、静かにオイルに溶け込んでいく。
瓶を優しく振って、香りを混ぜ合わせる。
三つの香りが一つになって、新しい香りが生まれる。
瓶を傾けると、オイルがゆっくりと動く。
その動きを見ていると、まるで新しい人生の流れのようだと思った。
爽やかで、温かくて、明るい。
新しい人生への、応援歌のような……そんな香りだった。

「できました」

私は京子さんに瓶を渡した。
京子さんが香りを嗅ぐ。
彼女は目を閉じて、深く息を吸った。
胸が大きく上下し、心の奥まで香りを取り込んでいるようだった。
数秒の沈黙。
そして、彼女は深く息を吐いた。

「…ありがとうございます」

その声は、もう迷いを含んでいなかった。

「この香り、すごく好きです」

彼女は瓶を大切そうに両手で包んだ。
その手は、もう震えていなかった。

「これから、毎日この香りを嗅いで、少しずつ自分を取り戻していきます」

その表情には、静かな決意と、確かな希望が浮かんでいた。