香りの記憶、人生の処方箋

春菜さんが新しい恋への一歩を踏み出してから、1週間が過ぎた。
12月に入り、商店街はすっかりクリスマスムードに包まれていた。
店々の窓にはリースが飾られ、街灯には赤と緑のリボンが巻かれている。
夜になると、イルミネーションが灯り、商店街全体がキラキラと輝く。
子供たちは、サンタクロースの飾りを見て、目を輝かせている。
カップルたちは、手を繋いで、幸せそうに歩いている。
そんな光景を見ていると、心が温かくなる。
私も、店の窓に小さなリースを飾った。
誠一郎さんが「少しは華やかにしないとね」と言って、一緒に選んでくれたものだ。
緑の葉に、赤いリボンと小さなベルが付いていて、シンプルだけれど、温かみがある。

「和花、もうすぐクリスマスだね」

誠一郎さんが、店の奥から声をかけてきた。

「そうですね」

私は窓を拭きながら答えた。

「この時期は、お客さんも増えるから、忙しくなるよ」
「はい。頑張ります」

私は笑顔で答えた。
確かに、最近お客さんが増えている気がする。
クリスマスプレゼントに香りを選びに来る人、自分へのご褒美に精油を買いに来る人。
様々な人が、この店を訪れてくれる。
それが、嬉しかった。

カランカラン。
午後、ドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

私は顔を上げて、笑顔で迎えた。
入ってきたのは、40代半ばくらいの女性だった。
濃紺のコートを着て、大きめのトートバッグを肩にかけている。
髪は肩までの長さで、少し疲れた様子。
でも、その目には、どこか強い意志のようなものが浮かんでいた。
彼女は店内をゆっくりと見回した後、私のところに近づいてきた。

「あの…すみません」

その声は、少し掠れていた。

「はい、何かお探しですか?」

私は柔らかく笑いかけた。

「新しい一歩を踏み出すための香りを探しているんです」

彼女は少し迷うように眉を寄せた。

「最近、人生が大きく変わって。これから、どう生きていこうかって考えてて」

その言葉に、私は少し胸が痛んだ。
人生が大きく変わる、か。
彼女の表情には、疲労と同時に、どこか希望のようなものも見える。

「かしこまりました。よろしければ、少しお話を聞かせていただけますか?」

私の申し出に彼女は少し迷った様子だったが、やがて小さく頷いた。

「…はい、お願いします」



私は彼女をカフェスペースに案内した。
今日はカモミールとオレンジのブレンドティーを淹れた。
心を温めて、リラックスさせてくれる組み合わせ。
湯気が立ち上り、優しい香りが広がる。
窓の外からは、商店街のざわめきが聞こえてくる。
人々の笑い声、自転車のベルの音、子供たちの歓声。
それらが、温かいBGMのように店内に響いていた。

「どうぞ」

私はカップを彼女の前に置いた。

「ありがとうございます」

彼女はカップを両手で包んで、小さく息を吐いた。
その仕草が、どこか緊張を解こうとしているようだった。

「私、柚木和花と申します。よろしければ、お名前を伺ってもよろしいですか?」

私は先に自分の名を名乗ってから尋ねた。

「吉田京子です」

彼女は少し緊張した様子で答えた。

「京子さん、よろしくお願いします」

私は柔らかく笑いかけた。
少し沈黙が流れた。
彼女はカップを見つめたまま、何かを考えているようだった。
言いたいことはあるけれど、どう切り出せばいいか分からない、そんな様子だった。
私は彼女が話し始めるのを静かに待った。
カップから立ち上る湯気が、ゆっくりと揺れている。
その動きを見ていると、心が落ち着く。
やがて、京子さんがゆっくりと口を開いた。

「…私、先月、離婚が成立したんです」

その言葉から始まった。
彼女はカップから視線を上げずに続けた。

「20年、結婚生活を続けてきました。でも、もう限界で」

私は静かに頷いた。

「夫は、悪い人じゃなかったんです。暴力を振るうわけでもないし、浮気をするわけでもない」

京子さんの声が、少しずつ震え始めた。

「ただ…私のことを見てくれなかった。仕事が忙しくて、家にいる時間も少なくて。子供が独立してからは、もう夫婦として話すこともなくなって」

彼女は拳を握りしめた。

「それで、離婚を決めました。もう一度、自分の人生を生きたいって」

その言葉を聞いて、私の胸が締め付けられた。
20年の結婚生活。
それを終わらせる決断。
どれだけの勇気が必要だったのだろう。

「でも」

京子さんは顔を上げた。

「これからどうしたらいいのか、分からなくて」

その目には、不安と、でも小さな希望が混ざっていた。

「20年、妻として、母として生きてきた。でも、これからは『私』として生きなきゃいけない。……『私』って、何なのか。何がしたいのか。分からないんです」

その言葉を聞いて、私は少し考えた。
20年という時間。
その間、自分のことを後回しにして、家族のために生きてきた。
そして今、ようやく自分に向き合おうとしている。

「京子さん」

少しの沈黙の後、静かに私が名前を呼ぶと、彼女が私を見た。

「今、こうやってここに来てくださったこと」

私はゆっくりと言葉を選んだ。

「それが、もう『新しい一歩』だと思います」

京子さんは目を丸くした。

「自分のために、香りを探しに来た。それって、ご自身を大切にしようとしているってことですよね。……『私』が何なのか、すぐに答えは出ないと思います。でも、一つずつ、自分の好きなことを見つけていけばいいと思います。今日は香り。次は、別の何か」

私は微笑んだ。

「そうやって、少しずつ『私』を取り戻していけばいいんじゃないでしょうか」

京子さんの目に、涙が浮かんだ。

「…そうですね」

その声は震えていた。

「焦らなくていいんですよね」
「はい」

私は頷いた。

「焦らなくていいです。京子さんのペースで」

京子さんは涙を拭いて、深呼吸をした。

「ありがとうございます。少し、楽になりました」

その表情には、少しずつ、安らぎのようなものが浮かんできていた。