香りの記憶、人生の処方箋



その日の夕方、店が少し落ち着いた頃。
私は店の奥で、精油の在庫を確認していた。
一つ一つの瓶を手に取り、残量をチェックする。
この作業は、心を落ち着かせてくれる。
ジャスミン、イランイラン、ベルガモット。
今日、春菜さんに使った香りたち。
私は、ジャスミンの瓶を手に取った。
勇気の香り。
新しい恋への香り。
蓋を開けて、深く香りを嗅ぐ。
甘く、力強い香りが、鼻腔を満たす。
――新しい恋、か。
私にも、来るのだろうか。
蓮さんへの気持ち。
それが、恋なのだろうか。
まだ、はっきりとは分からない。
でも、確実に、彼への想いは大きくなっている。
それだけは、確かだった。

カランカラン。
ドアベルが鳴った。
私は瓶を棚に戻して、店の前に出た。

「いらっしゃい…」

言葉が、途中で止まった。
そこに立っていたのは、蓮さんだった。

「和花さん、今、大丈夫?」

蓮さんは少し照れたように笑った。

「あ、はい」

私は少し慌てて答えた。

「昨日、楽しかったから。また、少し話したくて」

その言葉に、私の心臓が跳ねた。
また、話したくて。
そう言ってくれることが、嬉しかった。

「はい、大丈夫です」

私は笑顔で答えた。

蓮さんは店の奥のカフェスペースに座った。
私はハーブティーを淹れて、彼の前に置いた。
オレンジとカモミールのブレンド。温かくて、優しい香り。

「ありがとう」

蓮さんはカップを手に取った。

「今日も、お客さんがいたみたいだね」
「はい。新しい恋に踏み出せない方が来られて」

私は言った。

「過去に傷ついて、もう一度恋をするのが怖いって」

蓮さんは静かに聞いていた。

「でも、最後は、勇気を出すって決められました」
「そうなんだ」

蓮さんは微笑んだ。

「和花さんの言葉が、背中を押したんだろうね」

その言葉を聞いて、私は少し考えた。
春菜さんに言った言葉。

『幸せになるチャンスを逃してしまう』

それは、私自身にも当てはまる。
蓮さんへの気持ち。
それと、ちゃんと向き合わないと。
でも、まだ怖い。
まだ、準備ができていない。

「和花さん?」

蓮さんが心配そうに声をかけた。

「あ、すみません。ぼーっとしてました」

私は慌てて笑顔を作った。

「大丈夫?疲れてる?」
「いえ、大丈夫です」

蓮さんは少し心配そうに私を見ていたが、それ以上は何も聞かなかった。
その優しさが、ありがたかった。

私たちは、しばらく他愛もない話をした。
蓮さんの仕事のこと、店のこと、最近の出来事。
そんな、何でもない会話。
でも、それが、とても心地よかった。



その夜、店を閉めた後。
私は一人、ジャスミンの瓶を手に取った。
勇気の香り。
新しい恋の香り。
蓋を開けて、深く香りを嗅ぐ。
甘く、力強い香りが、心を包んでくれる。
――勇気を出すこと。
春菜さんは、勇気を出した。
結衣さんも、勇気を出した。
じゃあ、私は?
私も、いつか、勇気を出さなければならない。
蓮さんへの気持ちと、向き合わなければならない。
まだ、今じゃない。
でも、いつか。
そう遠くない未来に。

窓の外を見る。
冬の夜空に、星が冷たく輝いている。
風が吹いて、街路樹が揺れている。
私は瓶を棚に戻して、深呼吸した。
勇気を出すこと。
それが、私の次の課題。
少しずつでいい。
でも、確実に。
その時が来るまで、準備をしておこう。