香りの記憶、人生の処方箋



私たちは香りの棚の前に立った。
窓から差し込む冬の光が、精油の瓶を照らしている。
透明なガラスが、冷たい光を受けて静かに輝いていた。
その光を見ていると、不思議と心が落ち着く。

「春菜さんには、ジャスミンをおすすめします」

私はジャスミンの瓶を手に取った。
蓋を開けると、甘く、でも力強い香りが広がった。
まるで、夜の闇の中に咲く白い花のような、神秘的で魅惑的な香り。
その香りは、鼻腔をゆっくりと満たし、胸の奥まで届いていく。

「ジャスミンは、『夜の女王』と呼ばれる香りです」

私は春菜さんに瓶を差し出した。

「夜の女王?」

春菜さんが首を傾げた。

「はい。ジャスミンは夜に咲く花で、日が暮れると、とても強い香りを放つんです。……その香りはとても強くて、存在感がある。古代インドでは、『月光の花』とも呼ばれていて、夜の庭で愛を語る恋人たちの花とされていました」

春菜さんが香りを嗅ぐ。
彼女は目を閉じて、ゆっくりと深呼吸した。
その表情が、少しずつ和らいでいくのが分かった。
数秒の沈黙。
やがて、彼女が目を開けた。

「…すごく、いい香りですね」

その声は、さっきよりもずっと穏やかだった。

「甘いけど、力強い。なんだか、背中を押されてる感じがします」
「そうなんです」

私は微笑んだ。

「ジャスミンは、勇気を与えてくれる香りなんです。新しい一歩を踏み出す時、この香りが支えてくれます」

春菜さんは瓶を見つめた。その目には、もう迷いはなかった。

「お次は、これを」

私はイランイランの瓶を手に取った。

「イランイラン……?」

春菜さんが首を傾げた。

「聞いたことない名前ですね」
「そうですよね。……イランイランは、フィリピンやインドネシアなどに自生する、熱帯の木に咲く花なんです。『花の中の花』という意味を持っていて、とても香りが強い花として知られています」

私は瓶の蓋を開けた。
濃厚で、エキゾチックな香りが広がった。
甘く、少し官能的で、まるで南国の夜の庭に咲く花のような、魅惑的な香り。
鼻腔をゆっくりと満たし、心の奥まで届いていく。

「わあ…」

春菜さんが思わず声を上げた。

「すごく、濃厚な香りですね」
「そうなんです。イランイランは、女性の魅力を引き出してくれる香りなんです。昔から、結婚式の夜に新郎新婦のベッドにこの花を敷く習慣があったとも言われています」

春菜さんの頬が、少しだけ赤くなった。

「そうなんですね…なんだか、特別な香りみたいですね」
「はい」

私は微笑んだ。

「それに、イランイランは自信を持たせてくれる香りでもあるんです。『私は、愛される価値がある』って、思わせてくれる」

春菜さんが香りを嗅ぐ。
彼女は目を閉じて、ゆっくりと深呼吸した。
やがて、彼女が目を開けた。

「これ…すごく、女性らしい香りですね」

その声には、少しだけ自信のようなものが戻ってきているように聞こえた。

「私、自信なかったから」

春菜さんは小さく笑った。
私は微笑んで三つ目の瓶を手に取る。

「最後はこの香りを」

私はベルガモットの瓶を開けた。
爽やかな柑橘系の香りが、先ほどまでの濃厚な香りと混ざり合う。
まるで、重い雲の間から一筋の光が差し込んだような、明るさと希望を感じさせる香り。

「ベルガモットは、希望を与えてくれる香りです。新しい恋も、きっとうまくいく。そう思わせてくれます」

春菜さんが香りを嗅いで、笑顔を見せた。

「これ、すごく好きです。明るい気持ちになります」
「では、この3つでブレンドを作りますね」

魔法をかけるように私は彼女に向かって微笑む。

「春菜さんが、新しい恋に踏み出せるように」



カウンターで、私はブレンドを作った。
小さなガラス瓶に、キャリアオイルをゆっくりと注ぐ。
透明なオイルが、瓶の中で静かに揺れる。
光を受けて、少しだけ金色に輝いて見える。
そして、一滴ずつ、丁寧に精油を垂らしていく。
春菜さんが、幸せになれますように。
新しい恋が、うまくいきますように。
そんな願いを込めて。

「ジャスミンを2滴」

勇気の香り。
透明なオイルの中に、琥珀色の雫が落ちる。

「イランイランを2滴」

女性らしさと自信の香り。
もう一滴、また一滴。

「ベルガモットを2滴」

希望の香り。
最後の雫が、静かにオイルに溶け込んでいく。
瓶を優しく振って、香りを混ぜ合わせる。
三つの香りが一つになって、新しい香りが生まれる。
甘くて、力強くて、でも明るい。
新しい恋への、応援歌のような。
そんな香りだった。

「できました」

私は春菜さんに瓶を渡した。
春菜さんが香りを嗅ぐ。
彼女は目を閉じて、深く息を吸った。
数秒の沈黙。
そして、彼女は深く息を吐いた。

「…ありがとうございます」

その声は、もう迷いを含んでいなかった。

「この香りがあれば、ちゃんと伝えられる気がします」

彼女は瓶を大切そうに両手で包んだ。

「明日、彼に返事をします」

その表情には、静かな決意と、小さな希望が浮かんでいた。



春菜さんが店を出た後、私はしばらくカウンターに立っていた。
彼女の背中は、来た時よりも軽やかだった。
まるで、重い荷物を下ろしたような。そんな風に見えた。
窓の外を見ると、冬の午後の光が商店街を照らしている。
冷たい光だけれど、どこか温かみがある。
人々が行き交い、笑顔で会話を交わしている。そんな日常の風景が、心を落ち着かせてくれる。

「和花」

誠一郎さんが声をかけてきた。
私は振り返った。

「今日の君も、とても良かったよ」
「ありがとうございます」

私は少し照れながら答えた。

「春菜さんみたいな悩み、君にも分かるんじゃないかい?」

誠一郎さんは優しく言った。
その言葉に、私は少しドキッとした。

「…はい」

私は小さく答えた。

「過去に傷ついて、新しい恋に踏み出せない。その気持ち、少し分かります」

誠一郎さんは静かに頷いた。

「でも、君は春菜さんに、こう言ったね。『幸せになるチャンスを逃してしまう』って」
「はい」
「その言葉は、君自身にも向けられているんじゃないかな」

誠一郎さんは続けた。

「人に言えることは、自分にも言えるはずだ」

その言葉を聞いて、私の胸が締め付けられた。
そうだ。
春菜さんに言ったこと。
それは、私自身にも当てはまる。
過去に傷ついたからって、新しい恋から逃げていていいのか。
蓮さんへの気持ち。
それが何なのか、もう薄々気づいている。
でも、認めるのが怖い。
また傷つくのが、怖い。

「誠一郎さん…」

私は言葉に詰まった。

「焦ることはないよ、和花」

誠一郎さんは優しく笑った。

「でも、いつか、向き合わないといけない時が来る。……その時は、勇気を出して」

私は小さく頷いた。