蓮さんと食事に行った翌日。
朝、目が覚めると、昨日のことが鮮明に思い出された。
蓮さんの笑顔、温かい会話、帰り道の月……そして、自分の胸の高鳴り。
私は布団の中で、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
――あれは、何だったんだろう。
友達として楽しかっただけ?
それとも――。
考えても、答えは出ない。
私は起き上がって、いつものように準備を始めた。
顔を洗って、朝食を食べて、身支度を整える。
一つ一つの動作を丁寧にこなしながら、心を落ち着かせていく。
今日も、店での仕事がある。
お客さんが来る。
その人たちに、寄り添わなければならない。
だから、今は、自分のことは考えないでおこう。
そう決めて、私は家を出た。
◇
11月も終わりに近づき、12月の足音が聞こえてくる季節になった。
商店街には、少しずつクリスマスの飾り付けが始まっていた。
街灯にはリボンが巻かれ、店の窓にはリースが飾られている。
子供たちは、サンタクロースの人形を見て、目を輝かせていた。
冷たい空気の中に、どこか温かい雰囲気が漂っている。
それが、この季節の良いところだと思う。
店に着くと、誠一郎さんがもう準備を始めていた。
「おはようございます」
「おはよう、和花」
誠一郎さんは振り返って、優しく笑った。
「昨日は、楽しかったかい?」
その言葉に、私は少し顔が熱くなった。
「…はい」
「それは良かった」
誠一郎さんは何も聞かず、ただ微笑んだ。
その優しさが、ありがたかった。
私はエプロンをつけて、いつものように店の準備を始めた。
精油の瓶を確認して、カフェスペースのテーブルを拭いて、窓を磨く。
一つ一つの作業が、心を落ち着かせてくれる。
午前中は、比較的静かだった。
何人かのお客さんが来て、精油やアロマグッズを買っていった。
私は一人一人に丁寧に対応しながら、昨日のことを思い出さないようにしていた。
でも、時々、蓮さんの笑顔がふと頭をよぎる。
そのたびに、胸が少しだけ温かくなる。
カランカラン。
昼過ぎ、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
私は顔を上げて、笑顔で迎えた。
入ってきたのは、20代後半くらいの女性だった。
ベージュのコートを着て、ショルダーバッグを肩にかけている。
髪はセミロングで、少し疲れた様子。
でも、その目には、どこか決意のようなものが浮かんでいた。
彼女は店内を見回した後、少し迷った様子で私のところに近づいてきた。
「あの…すみません」
その声は、少し緊張していた。
「はい、何かお探しですか?」
私は柔らかく笑いかけた。
「あの…新しい一歩を踏み出すための香りって、ありますか?」
彼女は少し困ったように眉を寄せた。
「新しい恋に、踏み出したくて」
その言葉に、私は少しハッとした。
新しい恋……か。
昨日の自分のことを思い出して、少し胸が痛んだ。
「かしこまりました」
私は言った。
「よろしければ、少しお話を聞かせていただけますか?」
彼女は少し迷った様子だったが、やがて小さく頷いた。
「…はい、お願いします」
◇
私は彼女をカフェスペースに案内した。
今日はジャスミンティーを淹れた。
少し甘く、でも力強い香り。
新しいことを始める時に、勇気をくれる香り。
湯気が立ち上り、店内に優しい香りが広がる。
「どうぞ」
私はカップを彼女の前に置いた。
「ありがとうございます」
彼女はカップを両手で包んで、少しだけ香りを嗅いだ。
その仕草が、どこか慎重で、彼女の性格を表しているようだった。
「私、柚木和花と申します。よろしければ、お名前を伺ってもよろしいですか?」
私は先に自分の名を名乗ってから尋ねた。
「山崎春菜です」
彼女は少し緊張した様子で答えた。
「春菜さん、よろしくお願いします」
私は柔らかく笑いかけた。
少し沈黙が流れた。
彼女はカップを見つめたまま、何かを考えているようだった。
言いたいことはあるけれど、どう切り出せばいいか分からない、そんな様子だった。
私は焦らず、彼女が話し始めるのを静かに待った。
窓の外からは、商店街を歩く人々の声が聞こえてくる。
子供の笑い声、自転車のベルの音。
それらが、静かなBGMのように響いていた。
やがて、春菜さんがゆっくりと口を開いた。
「…私、数年前に失恋してから、ずっと恋愛から遠ざかってたんです」
その声は、どこか重かった。
彼女はカップから視線を上げずに続けた。
「当時の彼氏に、すごく傷つけられて。もう、恋なんてしたくないって思ってました」
私は静かに頷いた。
「でも、最近」
春菜さんは少し顔を上げた。
「職場の後輩に、告白されたんです」
その言葉に、私は少し驚いた。
「彼、すごく優しくて。真面目で。私のこと、本当に大切に思ってくれてるみたいで」
春菜さんの声が、少しずつ震え始めた。
「でも、怖いんです……また傷つくのが。また、同じような思いをするのが」
彼女は拳を握りしめた。
「だから、返事をできないでいるんです。……彼を待たせてるのは、申し訳ないって分かってる。でも、一歩が踏み出せなくて」
その言葉を聞いて、私の胸が締め付けられた。
彼女の気持ちが、少し分かる気がした。
過去に傷ついて、新しい恋に踏み出せない。
それは、私も同じだから。
「春菜さん」
私は静かに言った。
彼女が顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「怖いのは、当然だと思います」
私はゆっくりと言葉を選んだ。
「一度傷ついたら、また同じことが起こるんじゃないかって、不安になりますよね」
春菜さんは黙って頷いた。
「でも……今の後輩の方は、昔の彼とは違う人ですよね」
春菜さんは少しハッとした表情を見せた。
「過去の彼が傷つけたからって、今の彼も同じことをするとは限らない」
私は自分に言い聞かせるように、言葉を続けた。
「もちろん、保証はありません。また傷つく可能性だって、あるかもしれない。……でも、もし踏み出さなかったら」
私は春菜さんの目を見た。
「春菜さんは、幸せになるチャンスも逃してしまうんじゃないでしょうか」
春菜さんの目から、涙が一筋、頬を伝った。
「…そうですよね」
その声は震えていた。
「私、ずっと逃げてたんだと思います。傷つくのが怖くて。でも、それじゃ、何も変わらない」
春菜さんは涙を拭いた。
「彼は、待ってくれてる。私の答えを。だったら、私も、ちゃんと向き合わないと」
その表情には、少しずつ、決意のようなものが浮かんできていた。
「春菜さんなら、大丈夫です」
私は微笑んだ。
「きっと、幸せになれます」
春菜さんは、小さく頷いた。
朝、目が覚めると、昨日のことが鮮明に思い出された。
蓮さんの笑顔、温かい会話、帰り道の月……そして、自分の胸の高鳴り。
私は布団の中で、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
――あれは、何だったんだろう。
友達として楽しかっただけ?
それとも――。
考えても、答えは出ない。
私は起き上がって、いつものように準備を始めた。
顔を洗って、朝食を食べて、身支度を整える。
一つ一つの動作を丁寧にこなしながら、心を落ち着かせていく。
今日も、店での仕事がある。
お客さんが来る。
その人たちに、寄り添わなければならない。
だから、今は、自分のことは考えないでおこう。
そう決めて、私は家を出た。
◇
11月も終わりに近づき、12月の足音が聞こえてくる季節になった。
商店街には、少しずつクリスマスの飾り付けが始まっていた。
街灯にはリボンが巻かれ、店の窓にはリースが飾られている。
子供たちは、サンタクロースの人形を見て、目を輝かせていた。
冷たい空気の中に、どこか温かい雰囲気が漂っている。
それが、この季節の良いところだと思う。
店に着くと、誠一郎さんがもう準備を始めていた。
「おはようございます」
「おはよう、和花」
誠一郎さんは振り返って、優しく笑った。
「昨日は、楽しかったかい?」
その言葉に、私は少し顔が熱くなった。
「…はい」
「それは良かった」
誠一郎さんは何も聞かず、ただ微笑んだ。
その優しさが、ありがたかった。
私はエプロンをつけて、いつものように店の準備を始めた。
精油の瓶を確認して、カフェスペースのテーブルを拭いて、窓を磨く。
一つ一つの作業が、心を落ち着かせてくれる。
午前中は、比較的静かだった。
何人かのお客さんが来て、精油やアロマグッズを買っていった。
私は一人一人に丁寧に対応しながら、昨日のことを思い出さないようにしていた。
でも、時々、蓮さんの笑顔がふと頭をよぎる。
そのたびに、胸が少しだけ温かくなる。
カランカラン。
昼過ぎ、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
私は顔を上げて、笑顔で迎えた。
入ってきたのは、20代後半くらいの女性だった。
ベージュのコートを着て、ショルダーバッグを肩にかけている。
髪はセミロングで、少し疲れた様子。
でも、その目には、どこか決意のようなものが浮かんでいた。
彼女は店内を見回した後、少し迷った様子で私のところに近づいてきた。
「あの…すみません」
その声は、少し緊張していた。
「はい、何かお探しですか?」
私は柔らかく笑いかけた。
「あの…新しい一歩を踏み出すための香りって、ありますか?」
彼女は少し困ったように眉を寄せた。
「新しい恋に、踏み出したくて」
その言葉に、私は少しハッとした。
新しい恋……か。
昨日の自分のことを思い出して、少し胸が痛んだ。
「かしこまりました」
私は言った。
「よろしければ、少しお話を聞かせていただけますか?」
彼女は少し迷った様子だったが、やがて小さく頷いた。
「…はい、お願いします」
◇
私は彼女をカフェスペースに案内した。
今日はジャスミンティーを淹れた。
少し甘く、でも力強い香り。
新しいことを始める時に、勇気をくれる香り。
湯気が立ち上り、店内に優しい香りが広がる。
「どうぞ」
私はカップを彼女の前に置いた。
「ありがとうございます」
彼女はカップを両手で包んで、少しだけ香りを嗅いだ。
その仕草が、どこか慎重で、彼女の性格を表しているようだった。
「私、柚木和花と申します。よろしければ、お名前を伺ってもよろしいですか?」
私は先に自分の名を名乗ってから尋ねた。
「山崎春菜です」
彼女は少し緊張した様子で答えた。
「春菜さん、よろしくお願いします」
私は柔らかく笑いかけた。
少し沈黙が流れた。
彼女はカップを見つめたまま、何かを考えているようだった。
言いたいことはあるけれど、どう切り出せばいいか分からない、そんな様子だった。
私は焦らず、彼女が話し始めるのを静かに待った。
窓の外からは、商店街を歩く人々の声が聞こえてくる。
子供の笑い声、自転車のベルの音。
それらが、静かなBGMのように響いていた。
やがて、春菜さんがゆっくりと口を開いた。
「…私、数年前に失恋してから、ずっと恋愛から遠ざかってたんです」
その声は、どこか重かった。
彼女はカップから視線を上げずに続けた。
「当時の彼氏に、すごく傷つけられて。もう、恋なんてしたくないって思ってました」
私は静かに頷いた。
「でも、最近」
春菜さんは少し顔を上げた。
「職場の後輩に、告白されたんです」
その言葉に、私は少し驚いた。
「彼、すごく優しくて。真面目で。私のこと、本当に大切に思ってくれてるみたいで」
春菜さんの声が、少しずつ震え始めた。
「でも、怖いんです……また傷つくのが。また、同じような思いをするのが」
彼女は拳を握りしめた。
「だから、返事をできないでいるんです。……彼を待たせてるのは、申し訳ないって分かってる。でも、一歩が踏み出せなくて」
その言葉を聞いて、私の胸が締め付けられた。
彼女の気持ちが、少し分かる気がした。
過去に傷ついて、新しい恋に踏み出せない。
それは、私も同じだから。
「春菜さん」
私は静かに言った。
彼女が顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「怖いのは、当然だと思います」
私はゆっくりと言葉を選んだ。
「一度傷ついたら、また同じことが起こるんじゃないかって、不安になりますよね」
春菜さんは黙って頷いた。
「でも……今の後輩の方は、昔の彼とは違う人ですよね」
春菜さんは少しハッとした表情を見せた。
「過去の彼が傷つけたからって、今の彼も同じことをするとは限らない」
私は自分に言い聞かせるように、言葉を続けた。
「もちろん、保証はありません。また傷つく可能性だって、あるかもしれない。……でも、もし踏み出さなかったら」
私は春菜さんの目を見た。
「春菜さんは、幸せになるチャンスも逃してしまうんじゃないでしょうか」
春菜さんの目から、涙が一筋、頬を伝った。
「…そうですよね」
その声は震えていた。
「私、ずっと逃げてたんだと思います。傷つくのが怖くて。でも、それじゃ、何も変わらない」
春菜さんは涙を拭いた。
「彼は、待ってくれてる。私の答えを。だったら、私も、ちゃんと向き合わないと」
その表情には、少しずつ、決意のようなものが浮かんできていた。
「春菜さんなら、大丈夫です」
私は微笑んだ。
「きっと、幸せになれます」
春菜さんは、小さく頷いた。

