香りの記憶、人生の処方箋

蓮さんと食事に行った翌日。
朝、目が覚めると、昨日のことが鮮明に思い出された。
蓮さんの笑顔、温かい会話、帰り道の月……そして、自分の胸の高鳴り。

私は布団の中で、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
――あれは、何だったんだろう。
友達として楽しかっただけ?
それとも――。

考えても、答えは出ない。
私は起き上がって、いつものように準備を始めた。
顔を洗って、朝食を食べて、身支度を整える。
一つ一つの動作を丁寧にこなしながら、心を落ち着かせていく。
今日も、店での仕事がある。
お客さんが来る。
その人たちに、寄り添わなければならない。
だから、今は、自分のことは考えないでおこう。
そう決めて、私は家を出た。



11月も終わりに近づき、12月の足音が聞こえてくる季節になった。
商店街には、少しずつクリスマスの飾り付けが始まっていた。
街灯にはリボンが巻かれ、店の窓にはリースが飾られている。
子供たちは、サンタクロースの人形を見て、目を輝かせていた。
冷たい空気の中に、どこか温かい雰囲気が漂っている。
それが、この季節の良いところだと思う。
店に着くと、誠一郎さんがもう準備を始めていた。

「おはようございます」
「おはよう、和花」

誠一郎さんは振り返って、優しく笑った。

「昨日は、楽しかったかい?」

その言葉に、私は少し顔が熱くなった。

「…はい」
「それは良かった」

誠一郎さんは何も聞かず、ただ微笑んだ。
その優しさが、ありがたかった。
私はエプロンをつけて、いつものように店の準備を始めた。
精油の瓶を確認して、カフェスペースのテーブルを拭いて、窓を磨く。
一つ一つの作業が、心を落ち着かせてくれる。

午前中は、比較的静かだった。
何人かのお客さんが来て、精油やアロマグッズを買っていった。
私は一人一人に丁寧に対応しながら、昨日のことを思い出さないようにしていた。
でも、時々、蓮さんの笑顔がふと頭をよぎる。
そのたびに、胸が少しだけ温かくなる。

カランカラン。
昼過ぎ、ドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

私は顔を上げて、笑顔で迎えた。
入ってきたのは、20代後半くらいの女性だった。
ベージュのコートを着て、ショルダーバッグを肩にかけている。
髪はセミロングで、少し疲れた様子。
でも、その目には、どこか決意のようなものが浮かんでいた。
彼女は店内を見回した後、少し迷った様子で私のところに近づいてきた。

「あの…すみません」

その声は、少し緊張していた。

「はい、何かお探しですか?」

私は柔らかく笑いかけた。

「あの…新しい一歩を踏み出すための香りって、ありますか?」

彼女は少し困ったように眉を寄せた。

「新しい恋に、踏み出したくて」

その言葉に、私は少しハッとした。
新しい恋……か。
昨日の自分のことを思い出して、少し胸が痛んだ。

「かしこまりました」

私は言った。

「よろしければ、少しお話を聞かせていただけますか?」

彼女は少し迷った様子だったが、やがて小さく頷いた。

「…はい、お願いします」



私は彼女をカフェスペースに案内した。
今日はジャスミンティーを淹れた。
少し甘く、でも力強い香り。
新しいことを始める時に、勇気をくれる香り。
湯気が立ち上り、店内に優しい香りが広がる。

「どうぞ」

私はカップを彼女の前に置いた。

「ありがとうございます」

彼女はカップを両手で包んで、少しだけ香りを嗅いだ。
その仕草が、どこか慎重で、彼女の性格を表しているようだった。

「私、柚木和花と申します。よろしければ、お名前を伺ってもよろしいですか?」

私は先に自分の名を名乗ってから尋ねた。

「山崎春菜です」

彼女は少し緊張した様子で答えた。

「春菜さん、よろしくお願いします」

私は柔らかく笑いかけた。
少し沈黙が流れた。
彼女はカップを見つめたまま、何かを考えているようだった。
言いたいことはあるけれど、どう切り出せばいいか分からない、そんな様子だった。
私は焦らず、彼女が話し始めるのを静かに待った。
窓の外からは、商店街を歩く人々の声が聞こえてくる。
子供の笑い声、自転車のベルの音。
それらが、静かなBGMのように響いていた。
やがて、春菜さんがゆっくりと口を開いた。

「…私、数年前に失恋してから、ずっと恋愛から遠ざかってたんです」

その声は、どこか重かった。
彼女はカップから視線を上げずに続けた。

「当時の彼氏に、すごく傷つけられて。もう、恋なんてしたくないって思ってました」

私は静かに頷いた。

「でも、最近」

春菜さんは少し顔を上げた。

「職場の後輩に、告白されたんです」

その言葉に、私は少し驚いた。

「彼、すごく優しくて。真面目で。私のこと、本当に大切に思ってくれてるみたいで」

春菜さんの声が、少しずつ震え始めた。

「でも、怖いんです……また傷つくのが。また、同じような思いをするのが」

彼女は拳を握りしめた。

「だから、返事をできないでいるんです。……彼を待たせてるのは、申し訳ないって分かってる。でも、一歩が踏み出せなくて」

その言葉を聞いて、私の胸が締め付けられた。
彼女の気持ちが、少し分かる気がした。
過去に傷ついて、新しい恋に踏み出せない。
それは、私も同じだから。

「春菜さん」

私は静かに言った。
彼女が顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。

「怖いのは、当然だと思います」

私はゆっくりと言葉を選んだ。

「一度傷ついたら、また同じことが起こるんじゃないかって、不安になりますよね」

春菜さんは黙って頷いた。

「でも……今の後輩の方は、昔の彼とは違う人ですよね」

春菜さんは少しハッとした表情を見せた。

「過去の彼が傷つけたからって、今の彼も同じことをするとは限らない」

私は自分に言い聞かせるように、言葉を続けた。

「もちろん、保証はありません。また傷つく可能性だって、あるかもしれない。……でも、もし踏み出さなかったら」

私は春菜さんの目を見た。

「春菜さんは、幸せになるチャンスも逃してしまうんじゃないでしょうか」

春菜さんの目から、涙が一筋、頬を伝った。

「…そうですよね」

その声は震えていた。

「私、ずっと逃げてたんだと思います。傷つくのが怖くて。でも、それじゃ、何も変わらない」

春菜さんは涙を拭いた。

「彼は、待ってくれてる。私の答えを。だったら、私も、ちゃんと向き合わないと」

その表情には、少しずつ、決意のようなものが浮かんできていた。

「春菜さんなら、大丈夫です」

私は微笑んだ。

「きっと、幸せになれます」

春菜さんは、小さく頷いた。