香りの記憶、人生の処方箋

結衣さんが嬉しそうに店を出ていった後、私は一人、静かな店内に立っていた。
時計を見ると、午後7時を少し回ったところ。外はすっかり暗くなっている。窓の外には、商店街の街灯が温かい光を灯していた。
今日も、良い一日だった。
橘さんは、明日、後輩の方にちゃんと伝えるだろう。
結衣さんは、告白が成功して、幸せそうだった。

そして、私も――。

私も、少しずつ変わってきている。
そう思えることが、嬉しかった。

「和花、今日はもう上がっていいよ」

店の奥から、誠一郎さんが声をかけてきた。

「あ、はい。でも、片付けを…」
「もう大丈夫。僕がやっておくから」

誠一郎さんは優しく笑った。

「早く帰りなさい。寒いから、気をつけてね」
「ありがとうございます」

私はエプロンを外して、コートを羽織った。
その時、携帯電話が鳴った。
画面を見ると、蓮さんからだった。
心臓が、少しだけ跳ねる。

「もしもし」
「和花さん?今、大丈夫?」

蓮さんの優しい声が、電話越しに聞こえた。

「はい、大丈夫です」
「あのさ……これから時間、ある?」

少し迷うような口調。

「もし良かったら、ご飯、どうかなって思って。お疲れさまってことで」

その言葉に、私は少しドキッとした。
ご飯?
二人で?

「あ、でも、疲れてたらいいんだ。また今度で」

蓮さんが慌てて言った。

「いえ、大丈夫です」

私は気づいたら、そう答えていた。

「本当?!じゃあ、20分後に駅前でどう?」
「はい、分かりました」

電話を切った後、私は少し呆然としていた。

――今、何て言った?
ご飯に行くって、言った?

「和花、行っておいで」

誠一郎さんが、ニコニコと笑いながら言った。

「えっ?」
「蓮だろう?行ってきなさい」

誠一郎さんは優しく背中を押してくれた。

「たまには、仕事以外の時間も大切にしないとね」

その言葉に、私は少し照れながら頷いた。

「……行ってきます」



駅前で蓮さんと待ち合わせた。
彼は黒いダウンコートを着て、マフラーを巻いていた。
いつもの穏やかな笑顔で、手を振っている。

「お疲れさま、和花さん」
「お疲れさまです」

私は少し緊張しながら答えた。

「寒かったでしょ?すぐ近くに、いいイタリアンがあるんだ」
「はい」

私たちは並んで歩き始めた。
冷たい風が吹いて、頬を撫でる。
でも、不思議と寒さは感じなかった。
蓮さんと一緒にいると、心が温かくなる。
商店街を少し外れたところに、小さなイタリアンレストランがあった。
温かい光が窓から漏れていて、中からは笑い声が聞こえてくる。

「ここ、おじいちゃんも好きな店なんだ」

蓮さんが言った。

「よく三人で来たいねって話してたんだけど、なかなか機会がなくて」
「そうだったんですね」

私は少し嬉しくなった。
誠一郎さんも一緒に、と考えてくれていたんだ。
店の中は、温かくて居心地が良かった。
木のテーブル、柔らかな照明。BGMとして流れるジャズが、心地よい。
私たちは窓際の席に座った。

「何がいい?どのパスタも美味しいよ」
「たくさん種類ありますね。どれにしようか迷っちゃいます」
「そうだよね。僕も次回は違うの食べようって思うのに、結局いつも同じの食べちゃうんだよね」
「え、もう決まってるんですか?」
「うん。バジルのトマトソースパスタ」

蓮さんが言うと、一瞬でトマトソースの香りが思い出され、実際に嗅いでいないのに、匂いに誘われた感覚に陥る。
まるで魔法にかけられてしまったようだった。

「一瞬でトマトソースの気分になったので、私も蓮さんと同じのにしますね」
「アハハ。じゃあ食べたら、きっと虜になっちゃうよ」

蓮さんは笑った後、注文をした。
しばらくして料理が運ばれてきた。
トマトソースの香りが、ふわりと広がる。
酸味と甘み、そしてバジルの爽やかな香り。
それだけで、幸せな気持ちになる。

「いただきます」

そう言って、クルクルとフォークでパスタを巻いて口に運ぶと、一気にトマトソースの香りが体中に染み込んでいく。

「美味しいです」
「そう?良かった」
「蓮さんがさっき言ってた事、私もなりそうです」
「ん?」
「次回、違うの食べようと思っても、またこれを注文しちゃいそうです」
「でしょ?トマトソースの沼にハマっちゃったね」

蓮さんが笑うとつられて私も笑ってしまった。
私たちは、ゆっくりと食事を始めた。
しばらく食べた後、蓮さんが口を開いた。

「和花さん、最近すごく変わったよね」
「えっ?」
「いや、いい意味で」

蓮さんは笑った。

「最初に会った頃、和花さんはすごく不安そうだった。お客さんと話すのも、緊張してたよね」

私は少し恥ずかしくなった。

「……そうでしたね」
「でも、今は違う。自信を持って、お客さんに寄り添ってる」

蓮さんは真剣な表情で言った。

「その姿、本当に素敵だと思う」

その言葉に、私の心臓が跳ねた。
素敵、か。
そんな風に見てくれているんだ。

「ありがとうございます。でも、まだまだです……」

私が小さく言うと、蓮さんが首を横に振る。

「謙遜しないで。……和花さんは、ちゃんと成長してる。それを、僕はずっと見てきたから」

その言葉を聞いて、私の胸が温かくなった。
ずっと、見てきた。
そう言ってくれることが、嬉しかった。