香りの記憶、人生の処方箋



私たちは香りの棚の前に立った。
窓から差し込む冬の光が、精油の瓶を照らしている。
透明なガラスが、冷たい光を受けて静かに輝いていた。

「橘さんには、サンダルウッドをおすすめします」

私はサンダルウッドの瓶を手に取った。

蓋を開けると、深く、温かみのある木の香りが広がった。
まるで、古い寺院の中にいるような、静謐で神聖な空気。
心の奥底まで染み渡るような、落ち着いた香り。

「サンダルウッドは、白檀とも呼ばれる香りです」

私は橘さんに瓶を差し出した。

「白檀…お寺の香りですか?」

橘さんが尋ねた。

「そうです。日本では、仏教寺院でお香として使われることが多いんですよ。実は、サンダルウッドの木は、樹齢30年以上経たないと、十分な香りが出ないんです」
「え、30年も?」
「はい。だから、とても貴重な香木として扱われてきました」

私は説明を続けた。

「古くから、心を落ち着かせて、自分の軸を保つために使われてきました。更に、サンダルウッドは『誠実さ』の香りとも言われています。誠実に、自分の気持ちと向き合う。誠実に、相手に伝える……その勇気を、この香りが支えてくれます」

橘さんが香りを嗅ぐ。
彼は目を閉じて、ゆっくりと深呼吸した。
数秒の沈黙。
やがて、彼が目を開けた。

「…すごく、落ち着きますね」

その声は、さっきよりもずっと穏やかだった。

「心の芯が、しっかりする感じがします」

橘さんは瓶を見つめた。
その姿を見ながら、私は微笑んだ。

「では次は、これを」

私はシダーウッドの瓶を開けた。
深い森の中にいるような、力強い木の香り。
大地に根を張る大木のような、揺るぎない強さを感じさせる香り。
鼻腔をゆっくりと満たし、胸の奥まで届いていく。

「シダーウッドは、決断を助けてくれる香りです」

橘さんが香りを嗅ぐ。

「これも、すごく落ち着きますね」
「そうでしょう?」

私は頷いた。

「シダーウッドは、揺らがない心をくれる香りなんです。どんなに周りが揺れても、自分の軸は揺らがない。そんな強さを」

橘さんは深く頷いた。

「そして最後に、これ」

私はベルガモットの瓶を開けた。
爽やかな柑橘系の香りが、先ほどまでの深い木の香りと混ざり合う。
まるで、暗い森の中に一筋の光が差し込んだような、明るさと希望を感じさせる香り。

「ベルガモットは、前向きな気持ちにさせてくれる香りです。辛い決断をした後も、前を向いて歩いていける。そんな力をくれます」

橘さんが香りを嗅いで、少し笑顔を見せた。

「これ、いいですね。明るい気持ちになります」
「では、この3つでブレンドを作りますね……橘さんが、誠実に向き合えるように」



カウンターで、私はブレンドを作った。
小さなガラス瓶に、キャリアオイルをゆっくりと注ぐ。
透明なオイルが、瓶の中で静かに揺れる。
そして、一滴ずつ、丁寧に精油を垂らしていく。
橘さんが、誠実に伝えられますように。
後輩の方も、橘さんも、どちらも傷つかずに済みますように。
そんな願いを込めて。

「サンダルウッドを3滴」

誠実さの香り。

「シダーウッドを2滴」

揺らがない心の香り。

「ベルガモットを1滴」

希望の香り。
瓶を優しく振って、香りを混ぜ合わせる。
三つの香りが一つになって、新しい香りが生まれる。
深くて、力強くて、でも温かい。
誠実で、真っ直ぐな……そんな香りだった。

「できました」

私は橘さんに瓶を渡した。
橘さんが香りを嗅ぐ。
彼は目を閉じて、深く息を吸った。
数秒の沈黙。
そして、彼は深く息を吐いた。

「…ありがとうございます」

その声は、もう迷いを含んでいなかった。

「この香りがあれば、ちゃんと伝えられる気がします」
「はい」

私は微笑んだ。

「橘さんなら、大丈夫です」

橘さんは瓶を大切そうに両手で包んだ。

「明日、ちゃんと話します。彼女に」

その表情には、静かな決意が浮かんでいた。



橘さんが店を出た後、私はしばらくカウンターに立っていた。
彼の背中は、真っ直ぐだった。
もう、迷いはない。

「和花」

誠一郎さんが声をかけてきた。

「今日の君は、とても良かったよ」

私は振り返った。

「ありがとうございます」
「相手が自分で答えを見つけられるように、導いていたね」

誠一郎さんは続けた。

「『こうしなさい』じゃなく、『あなたはどうしたいですか?』と問いかける……そのバランスが、とても良かった」

その言葉を聞いて、私の胸が少し軽くなった。

「ありがとうございます」

誠一郎さんは優しく笑って、店の奥に戻っていった。
私は窓の外を見た。
冬の午後の光が、商店街を照らしている。
冷たいけれど、どこか温かい光。



夕方近く、蓮さんが店に来た。
今日は撮影ではなく、SNSの最終確認に来たらしい。

「和花さん、これ見てもらえる?」

蓮さんはノートパソコンを開いて、画面を見せてくれた。
そこには、完成したSNSのページが表示されていた。
店の写真、香りの説明、そして私が接客している様子。
どれも、「桐の香」の温かみを優しく伝えていた。

「素敵です…」

私は思わず声を上げた。

「本当に、ありがとうございます」
「喜んでもらえて、嬉しいな」

蓮さんは笑った。

「明日、公開しようと思うんだけど、いい?」
「はい、もちろんです」

私は頷いた。
少し沈黙が流れた後、蓮さんが言った。

「和花さん、最近すごく変わったね」
「え…?」
「いや、いい意味で」

蓮さんは真剣な表情で言った。

「最初に会った頃、和花さんはすごく不安そうだった。お客さんと話すのも、緊張してたよね」

私は少し恥ずかしくなった。

「…そうでしたね」
「でも、今は違うよ。自信を持って、お客さんに寄り添ってる。……その姿、すごく素敵だと思う」

その言葉に、私の心臓が跳ねた。
素敵、か。
そんな風に見てくれているんだ。

「ありがとうございます」

私は小さく言った。
蓮さんは少し照れたように笑って、パソコンに視線を戻した。

「じゃあ、明日公開するね」
「はい、楽しみにしています」

私は笑顔で答えた。
蓮さんが荷物をまとめ始めた時、ふと思った。
蓮さんへの気持ち。
それが何なのか、まだはっきりとは分からない。
でも、確実に、彼への想いは大きくなっている。
それだけは、確かだった。