「まずは、いくつか嗅いでみてください」

精油の瓶を並べながら私がそう言って、顔を上げる。
彼女は興味深そうに色々と見始めた。

「好きな香り、嫌いな香り……何でもいいので教えてください」

女性――そういえば、まだ名前を聞いていないことに気づいて、私は尋ねた。

「あ、すみません、お名前を聞いてもいいですか?申し遅れましたが、私は柚木和花と申します」
「あ、私は深沢真帆です」
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」

私たちは軽く会釈を交わした。
真帆さんは棚に並ぶ精油の瓶を見つめた。
小さなガラス瓶の中に、それぞれ異なる色の液体が入っている。

「こんなにたくさん……。あの、どれから試せばいいか……」
「大丈夫ですよ、ゆっくりで。それとも、おすすめの香りをご提案しましょうか?」
「お願いできますか……?」
「はい、もちろんです。では、先ほどの真帆さんのお話を参考にさせていただきますね」

そう言いながら、私は最初の瓶を手に取った。

「まずは、これ。ラベンダーです」

瓶の蓋を開けて、真帆さんに差し出す。
真帆さんは少し緊張した様子で、香りを嗅いだ。

「……優しい香りですね」
「そうですね。ラベンダーは、心を落ち着かせてくれます。リラックスしたい時に」

真帆さんは小さく頷いた。

「次は、これを」

次に私はローズの瓶を開けた。
真帆さんが嗅いで、少し顔をしかめる。

「これは……ちょっと甘すぎるかも」
「そうですか。ローズは好みが分かれますね」

私は次の瓶を手に取った。

「では、これはどうでしょう?ペパーミントです」

真帆さんが香りを嗅いだ瞬間、表情が変わった。

「あ……スッとする。頭が冷える感じ」
「そうなんです。ペパーミントは、頭をスッキリさせてくれます。集中したい時や、気持ちを切り替えたい時にいいんです」

真帆さんは少し興味を持った様子で、もう一度香りを嗅いだ。

「悪くない……かも」

私は次の瓶を開けた。

「お次はこれ。レモンです」

私はレモンの瓶を開けた。
真帆さんが香りを嗅いだ瞬間、表情が変わった。

「あ……スッとする。頭が冷える感じ」

「レモンって……」

私は説明を始めた。

「実は、古い時代から『浄化』の香りとして使われてきたんです。古代エジプトでは、レモンの香りが邪気を払うと信じられていて、中世ヨーロッパでは、ペストから身を守るために、人々がレモンを持ち歩いたそうですよ」
「そうなんですね……」

真帆さんが少し驚いた表情を見せた。

「だから、レモンは古い記憶を洗い流して、新しい気持ちにさせてくれるんです」

私は微笑んだ。

「気分をリフレッシュして、前向きになれる香りです。朝、起きた時に嗅ぐと、一日を明るく始められる」
「前向きな気持ち…」

私の言葉に、真帆さんは呟いた。

「そう。新しい一日を、新しい気持ちで始める。そのための香り」

真帆さんは小さく頷いた。
私はもう一つ、瓶を手に取る。

「最後に、これ。ベルガモット」

真帆さんが香りを嗅ぐ。

「これも柑橘系ですか?」
「そうです。でもレモンよりも、少し甘くて温かい香りなんですよ」

私は説明を続けた。

「ベルガモットって、実は紅茶のアールグレイの香り付けに使われているんです」
「あっ!アールグレイですか?!」

真帆さんが目を輝かせた。

「この香り、知ってる気がします」
「そうなんです。ベルガモットは、希望の香りとも言われていて、どんなに暗い道でも、必ず光はあるって思わせてくれるんです」
「……いいですね」

真帆さんは目を閉じて、もう一度香りを嗅いだ。
私は彼女の様子を見て、提案した。

「じゃあ、この三つでブレンドを作りましょうか。レモン、ペパーミント、ベルガモット」
「ブレンド……?」
「はい。それぞれの香りを混ぜ合わせて、あなただけのオリジナルの香りを作るんです」

真帆さんは少し驚いた様子だったが、すぐに頷いた。

「お願いします」
「かしこまりました」

そう答えた真帆さんに一礼し、私はカウンターに戻り、小さなガラス瓶とキャリアオイルを用意した。

「キャリアオイルっていうのは、精油を薄めるためのオイルです。これに精油を数滴垂らして、ブレンドを作ります」

真帆さんは興味深そうに見ていた。
私は慎重に、一滴ずつ精油を垂らしていく。

「レモンを三滴」

透明な液体が、オイルの中に落ちる。

「ペパーミントを二滴」

清涼感のある香りが広がる。

「ベルガモットを一滴」

最後の一滴を加えて、瓶を優しく振る。
香りが混ざり合って、一つになる。

「できました」

私は瓶の蓋を開けて、真帆さんに差し出した。
真帆さんが香りを嗅ぐ。
数秒の沈黙。
そして、彼女の顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。

「……いい香り」
「気に入っていただけましたか?」
「はい。爽やかで、でも温かい。なんだか、背中を押してもらえる感じ」

私は安堵した。

「良かった」

真帆さんは瓶を両手で包んだ。

「これが、私の新しい香りですね」
「そうです」

私は力強く頷きながら言った。

「毎朝、起きたらこの香りを嗅いでください。辛い時も、嬉しい時も。そうすれば、この香りが『今のあなた』になっていきます。過去の香りじゃなくて、未来に向かうあなたの香り」

真帆さんは目を潤ませながら、頷いた。

「ありがとうございます。本当に」



真帆さんが店を出る時、彼女の表情は来た時とは全く違っていた。
疲れた様子は変わらないけれど、どこか希望が見える。
前を向いている。

「また来ます。本当にありがとうございました」
「はい、お待ちしています」

私は自然な笑顔で答えた。
カランカラン。
ドアベルが鳴って、真帆さんが商店街に消えていく。
私は彼女の背中を見送った。

――私、ちゃんと話を聞けた。
彼女の気持ちに、寄り添えた。
ひとりよがりじゃなく、相手のために。
胸に、温かいものが広がった。

「良かったね、和花」

後ろから声がして、振り返ると誠一郎さんが立っていた。

「誠一郎さん…」
「君の顔、さっきより明るいよ」

誠一郎さんは穏やかに笑った。

「人の話を聞いて、寄り添うこと。それが、香りを扱う者の最初の仕事だ」

私は少し照れながら頷いた。

「まだまだです」
「そんなことない。今日の君は、ちゃんと向き合えていた」

誠一郎さんは私の肩に手を置いた。

「自信を持ちなさい。君には才能がある」

その言葉が、胸に染みた。
才能、か。
私にそんなものがあるのか、まだ分からない。
でも、今日、少しだけ――ほんの少しだけ、前に進めた気がした。
その時、カランカランとドアベルが鳴って、一人の若い男性が入ってきた。

「おじいちゃん、ただいま」
「おお、蓮。今日は早いね」

桐野蓮さん。
誠一郎さんの孫で、27歳。
フリーランスのグラフィックデザイナーをしていて、時間が空くと時々、店を手伝いに来る。

「今日は打ち合わせが早く終わって」

蓮さんは店の奥に荷物を置いて、こちらに歩いてきた。

「お疲れさまです」

私は少しよそよそしく挨拶した。
蓮さんとは、もう1年以上の付き合いになる。でも、まだどこか距離を感じてしまう。
彼は優しくて、いつも穏やかで、誰にでも親切だ。
だからこそ、私は――どう接していいか分からない。

「和花さん、お疲れさま」

蓮さんは柔らかく笑った。

「今日は疲れたから、香り嗅ぎに来た」
「そうですか。どんな香りがいいですか?」
「和花さんが選んでくれる香りがいい」

その言葉に、私は少しドキッとした。

「え、でも……」
「和花さんのセンス、信頼してるから」

蓮さんはさらりと言った。
私は少し迷った後、棚からオレンジスイートの瓶を取り出した。

「じゃあ、これを」

蓮さんが香りを嗅ぐ。

「いい香り。温かくて、優しい」
「疲れた時に、元気をくれる香りです」
「ありがとう」

蓮さんは微笑みながら言う。
少し沈黙が流れた後、蓮さんが口を開いた。

「さっき、お店から出てきた人、すごくいい表情をしてたよ」
「本当ですか?」
「うん。足取りが軽くて希望に満ち溢れた表情でこの店から出てくる事って珍しいなって思ってたんだ。

蓮さんの言葉に、真帆さんが前向きになってくれたのだと改めてわかって、嬉しくなった。

「お客様の話をじっくり聞いて、その気持ちに寄り添って、背中を押したんだよ」
「そっか。……和花さん、優しいね。人の気持ちに、ちゃんと寄り添える」

誠一郎さんから聞いて、蓮さんがパッと笑顔を向けた。

「そんな……まだまだです、私は」

私は少し照れて、視線を逸らした。

「……そういえば」

蓮さんが話題を変えた。

「店のSNSアカウント、作ろうと思うんだけど、どう?」
「SNS?」

誠一郎さんが首を傾げた。

「うん。今の時代、若い人はSNSで店を知るから」

誠一郎さんの反応に、蓮さんが答えると、私のほうに向きなおる。

「和花さんの接客、すごくいいと思う。もっと多くの人に知ってもらいたいな」
「えっ?いや、私なんて……」
「だから、謙遜しないでよ。君には才能がある。それを、もっと多くの人に届けたい」

蓮さんの言葉に、私は戸惑った。
才能……と言われても。
でも、蓮さんの真剣な眼差しを見て、私は小さく頷いた。

「……考えてみます」
「うん。ゆっくりでいいから」

蓮さんは優しく笑った。



その日の夜、店を閉めた後、私は一人、カウンターに残っていた。
窓の外を見る。
商店街の灯りが、少しずつ消えていく。
夕日が、オレンジ色に街を染めている。

――人の話を聞くこと、か。

今日、真帆さんの話を聞いて、私は何かを感じた。
彼女の苦しみに、寄り添えた気がした。

ひとりよがりじゃなく。
相手のために。
もう一度、ちゃんと向き合ってみよう。
香りと、人と、そして自分自身と。

窓から差し込む夕日が、私を優しく包んだ。
――これが、私の新しい一歩なのかもしれない。