香りの記憶、人生の処方箋

岡本さんが決断の香りを手に店を出てから、5日が過ぎた。

11月も半ばを過ぎ、冬の足音が確実に近づいている。
朝、店の扉を開けると、冷たい空気が肺を刺すように入り込んでくる。
吐く息は真っ白で、手袋なしでは指先がかじかんでしまう。

商店街を歩く人々は、厚手のダウンコートやマフラーに身を包んでいた。
あまりの寒さにポケットに手を突っ込んで、肩をすくめながら歩いている姿もある。
街路樹はすっかり葉を落とし、裸の枝だけが冬空に向かって伸びていた。

私は店の窓ガラスを拭きながら、外の景色を眺めた。
灰色の空、冷たい風……それでも、商店街には確かな温かみがある。
人々の笑顔、挨拶を交わす声、お店の明かり。
そういうものが、この場所を温かくしている。

「和花、今日は冷えるね」

誠一郎さんが、温かいお茶を持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

私はカップを両手で包んだ。
手のひらに伝わる温もりが、心地よい。

「もうすぐ12月だね」

誠一郎さんは窓の外を見ながら言った。

「そうですね」

私は頷いた。
12月。クリスマス、年末。
この店で働き始めて、もうすぐ2年。
あっという間だったような、でも長かったような。
この数ヶ月で、私は随分変わった気がする。
お客さんと話すことが、怖くなくなった。
悩みに寄り添うことが、少しずつできるようになった。
まだまだ未熟だけれど、それでも、前には進んでいる。
そう信じたい。

カランカラン。
ドアベルの音で、私は我に返った。

「いらっしゃいませ」

顔を上げると、一人の男性が入ってきた。
30代後半くらいだろうか。
紺色のビジネスコートを着て、革のバッグを手にしている。
髪は短く整えられていて、清潔感がある。
でも、その表情には、どこか困惑が浮かんでいた。
彼は店内を見回した後、少し迷った様子で私のところに近づいてきた。

「あの……すみません」

その声は、少し緊張していた。

「はい、何かお探しですか?」

私は柔らかく笑いかけた。

「あの……落ち着いて、冷静に考えられるような香りを探しているんですが」

彼は少し眉を寄せた。

「最近、ちょっと困ったことがあって。頭を整理したいというか」

その言葉に、私は少し気になった。
困ったこと、か。
彼の表情には、明らかに悩みが浮かんでいる。

「かしこまりました。よろしければ、少しお話を聞かせていただけますか?そのほうが、より合った香りをご提案できると思います」

彼は少し迷った様子だったが、やがて小さく頷いた。

「……そうですね。実は、誰かに話を聞いてもらいたかったんです」



私は彼をカフェスペースに案内した。
今日はペパーミントとレモングラスのブレンドティーを淹れた。
頭をスッキリさせて、冷静に考える力をくれる組み合わせ。
湯気が立ち上り、爽やかな香りが広がる。

「どうぞ」

私はカップを彼の前に置いた。

「ありがとうございます」

彼はカップを手に取って、少しだけ香りを嗅いだ。
その仕草が、どこか慎重で、彼の性格を表しているようだった。

「私、柚木和花と申します。よろしければ、お名前を伺ってもよろしいですか?」

私は先に自分の名を名乗ってから尋ねた。

「橘健人です」

彼は少し緊張した様子で答えた。

「橘さん、よろしくお願いします」

私は柔らかく笑いかけた。
少し沈黙が流れた。彼はカップを見つめたまま、何かを考えているようだった。
言いたいことはあるけれど、どう切り出せばいいか分からない、そんな様子だった。
私は彼が話し始めるのを静かに待った。
やがて、橘さんがゆっくりと口を開いた。

「…僕、既婚者なんです」

その言葉から始まった。

「妻がいて。結婚して10年になります」

彼はカップから視線を上げずに続けた。

「妻のことは、今でも大切に思っています。それは、間違いないんです」

私は静かに頷いた。

「でも…職場の後輩女性に、言い寄られているんです」

その言葉に、私は少しハッとした。
橘さんは苦しそうな表情で続けた。

「最初は、勘違いかと思ったんです。後輩が優しくしてくれるのは、仕事上のことだろうって。でも、先週、彼女から告白されてしまって」

彼は拳を握りしめた。

「僕は、はっきり断りました。妻がいるって。でも、彼女は『奥さんとは別に、私を見てほしい』って」

橘さんの声が、少しずつ震え始めた。

「僕、どうしたらいいか分からなくて。彼女を傷つけたくない。でも、妻を裏切ることもできない……けれど職場の雰囲気も壊したくない。でも、このままだと…」

彼は言葉を切った。
その表情には、深い困惑と苦しみが浮かんでいた。
私は少し考えてから、静かに言った。

「橘さん」

私は少し考えてから、静かに言った。

「橘さんは、もう答えは出ているんじゃないですか?」

橘さんは目を丸くした。

「え…?」
「奥様のことを大切に思っている。浮気をする気はない。それが、橘さんの答えですよね?……ただ、後輩の方を傷つけたくない、という優しさが、橘さんを迷わせているんだと思います」

橘さんは黙って聞いていた。
私はゆっくりと言葉を選びながら話した。

「でも、曖昧にすることの方が、もっと後輩の方を傷つけることになるんじゃないでしょうか」

橘さんの目が、少しだけ見開かれた。

「希望を持たせてしまう。それは、優しさじゃなくて、むしろ残酷なことかもしれません。……きちんと、誠実に伝えることが、本当の優しさだと思います」

橘さんは、じっと私を見つめていた。
やがて、彼の目に涙が浮かんだ。

「…そうですよね」

その声は震えていた。

「僕、ずっと逃げてたんだと思います。ちゃんと向き合うのが怖くて……でも、それじゃダメですよね。彼女のためにも、妻のためにも」

橘さんは涙を拭いて、少し考えるように目を閉じた。
しばらくの沈黙の後、彼がゆっくりと目を開けた。

「ちゃんと伝えます。自分の言葉で」

その声には、もう迷いはなかった。

「妻がいること。彼女の気持ちは嬉しいけど、応えられないこと」

橘さんは拳を握りしめた。

「それから…彼女なら、もっとふさわしい相手に出会えるはずだって。僕のような既婚者じゃなく、彼女だけを見てくれる人が、きっといるって……そう、伝えようと思います」

「はい。……橘さんなら、大丈夫です。ちゃんと伝えられると思います」

私が微笑むと、橘さんは深く頷いた。