香りの記憶、人生の処方箋



午後、蓮さんがお店に顔を出した。
カメラを持って、少し嬉しそうな表情をしている。

「和花さん、お疲れさま」
「お疲れさまです」

私は笑顔で迎えた。

「今日は、撮影してもいい?」
「はい、大丈夫です」

蓮さんはカメラを構えて、店内のいくつかのシーンを撮り始めた。
窓から差し込む光、精油の瓶、カフェスペース。
そして、カウンターで作業する私の姿も。

「和花さん、すごく自然でいいよ」

蓮さんが言った。

「え…そうですか?」

私は少し恥ずかしくなった。

「うん。緊張してないし、いつもの和花さんって感じ」

蓮さんは笑った。

「それが一番いい」

その言葉を聞いて、私は少しだけ嬉しくなった。
撮影が一段落した後、蓮さんはカメラを置いて、私のところに来た。

「さっきのお客さん、大変そうだったね」
「…聞こえてましたか?」
「ごめん。奥で作業してたら、声が聞こえてきて」

蓮さんは申し訳なさそうに言った。

「でも、和花さん、すごく良かったよ」
「え…?」
「答えを押し付けるんじゃなくて、相手が自分で考えるのを手伝ってた」

蓮さんは真剣な表情で言った。

「それって、簡単なことじゃない。つい、自分の意見を言いたくなるし。でも、和花さんは、ちゃんと相手に寄り添ってた」

その言葉に、私の心が温かくなった。

「ありがとうございます」

私は小さく言った。

「僕も、昔、転職で悩んだことがあってさ」

蓮さんが突然言った。

「え?」
「会社員だったんだ、昔。でも、自分のやりたいことと違って」

蓮さんは少し遠い目をした。

「それで、フリーランスになったんだけど、めちゃくちゃ怖かった。今でも、正しかったのかなって、時々思う」

蓮さんは窓の外を見た。

「でも、後悔はしてない。自分で選んだ道だから」

その言葉を聞いて、私は少し驚いた。
蓮さんにも、そんな時期があったんだ。
いつも穏やかで、自信があるように見える蓮さんも、悩んで、迷って、それでも前に進んできたんだ。

「蓮さん…」
「あ、ごめん。変な話しちゃった」

蓮さんは照れたように笑った。

「いえ、教えてくださってありがとうございます。……蓮さんのお話、すごく励みになります」
「そう言ってもらえると、嬉しいな」

蓮さんは優しく笑った。
その笑顔にドキッとして、顔が熱くなったのがわかり、思わず俯いてしまう。
少し沈黙が流れた。
でも、それは心地よい沈黙だった。

「じゃあ、もう少し撮影するね」

蓮さんはカメラを手に取った。

「はい」

私は頷いた。
蓮さんの背中を見ながら、私は思った。
みんな、それぞれに悩みを抱えて、それでも前に進んでいる。
私も、そうでありたい。



その夜、店を閉めた後。
私は一人、シダーウッドの瓶を手に取った。
決断の香り。
勇気の香り。
蓋を開けて、深く香りを嗅ぐ。
深い木の香りが、心を落ち着かせてくれる。

――私も、いつか大きな決断をする日が来るだろうか。
瀬川さんと向き合うこと。
自分の未来を決めること。
まだ、答えは見えない。
でも、それでいい。
焦らなくていい。
今は、目の前のことを一つずつ。
お客さんに寄り添って、香りの力を信じて。
そうやって積み重ねていけば、いつか答えが見えてくる。

窓の外を見る。
冬の夜空に、星が冷たく輝いている。
風が吹いて、裸の街路樹が揺れている。
私は瓶を棚に戻して、コートを羽織った。
さあ、帰ろう。
また明日、新しい一日が始まる。