香りの記憶、人生の処方箋



私たちは香りの棚の前に並んで立った。
窓から差し込む冷たい光が、精油の瓶を照らしている。
透明な瓶の中で、琥珀色や淡い黄色の液体が、静かに光を受けている。

「岡本さんには、シダーウッドをおすすめします」

私はシダーウッドの瓶を手に取った。

「シダーウッドは、決断を助けてくれる香りです」

瓶の蓋を開けると、深く落ち着いた木の香りが広がった。

「この香りは、心を落ち着かせて、冷静に物事を考える力をくれるんです」

私は岡本さんに瓶を差し出した。
岡本さんが香りを嗅ぐ。
彼の表情が、少しだけ和らいだ。

「…いい香りですね。落ち着きます」
「そうでしょう?」

私は微笑んだ。

「シダーウッドは、古くから『勇気の木』と呼ばれてきました。実は、古代エジプトでは、ファラオの棺をシダーウッドで作ったそうです。永遠に腐らない、揺るぎない強さを持つ木として。大きな決断をする時、人々はこの木の香りを嗅いで、心を整えたそうです」

岡本さんは目を閉じて、もう一度深く香りを嗅いだ。

「では次は、これを」

私はベルガモットの瓶を開けた。
柑橘系の明るい香りが、シダーウッドの深い香りと混ざり合う。

「ベルガモットは、希望を与えてくれる香りです。どんなに暗い道でも、必ず光はある。そう思わせてくれる」

岡本さんが香りを嗅いで、少し笑顔を見せた。

「明るい香りですね。なんだか、前向きな気持ちになります」
「そうなんです」

私は頷いた。

「そして最後に、これ」

私はフランキンセンスの瓶を開けた。
神秘的で、深みのある香りが広がる。

「フランキンセンスは、古代から『聖なる香り』として使われてきました。別名だと乳香と呼ばれているものです。心を鎮めて、自分の内側と向き合う力をくれる香りです」

岡本さんが香りを嗅ぐ。
彼は目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
やがて、彼がゆっくりと目を開けた。

「…この香り、なんだか、自分が自分に戻れる感じがします」

その言葉を聞いて、私は嬉しくなった。

「じゃあ、この3つでブレンドを作りますね」

私は言った。

「岡本さんが、ご自身で答えを見つけられるように」



カウンターで、私はブレンドを作った。
小さなガラス瓶に、キャリアオイルをゆっくりと注ぐ。
透明なオイルが、瓶の中で静かに揺れる。
そして、一滴ずつ、丁寧に精油を垂らしていく。
岡本さんの決断を、この香りが支えてくれますように。
そんな願いを込めて。

「シダーウッドを3滴」

決断の勇気を。

「ベルガモットを2滴」

希望の光を。

「フランキンセンスを1滴」

自分と向き合う力を。

瓶を優しく振って、香りを混ぜ合わせる。
三つの香りが一つになって、新しい香りが生まれる。
深くて、でも温かい。
落ち着いていて、でも前向きな。
そんな香りだった。

「できました」

私は岡本さんに瓶を渡した。
岡本さんが香りを嗅ぐ。
数秒の沈黙。
そして、彼は深く息を吐いた。

「…ありがとうございます」

その声は、さっきよりもずっと落ち着いていた。

「この香り、すごくいいです」
「気に入っていただけて、嬉しいです」

私は微笑んだ。

「悩んだ時、この香りを嗅いでください。きっと、岡本さんご自身の答えが見えてくると思います」

岡本さんは瓶を大切そうに両手で包んだ。

「はい。これで、もう一度ちゃんと考えてみます」

その表情には、もう迷いはなかった。
代わりに、静かな決意のようなものが浮かんでいた。



岡本さんが店を出た後、私はしばらくカウンターに立っていた。
彼の背中は、来た時よりも少しだけ真っ直ぐになっているように見えた。

「和花」

誠一郎さんが声をかけてきた。

「今の話、聞こえてたよ」

私は振り返った。

「…すみません」
「謝ることはない」

誠一郎さんは首を振った。

「君は、とてもいいアドバイスをした」
「でも…私、彼に答えを出してあげられませんでした」

私は少し不安になって言った。

「転職したほうがいいのか、今の会社に残ったほうがいいのか」
「そんなの、君が決めることじゃないよ」

誠一郎さんは優しく言った。

「人生の選択は、本人がするもの。君の役割は、その選択を支えることだ」
「支える…」
「そう。答えを出すことじゃない。相手が自分で答えを見つけるのを、手伝うこと」

誠一郎さんは続けた。

「今日の君は、それができていた」

その言葉を聞いて、私の胸が少し軽くなった。

「ありがとうございます」
「これからも、自信を持って」

誠一郎さんは私の肩に手を置いた。

「君は、ちゃんと成長してるよ」

私は小さく頷いた。