香りの記憶、人生の処方箋

あかりさんとみなみさんが仲直りして店を出てから、3日が過ぎた。
11月に入り、朝晩の冷え込みが一段と厳しくなってきた。
商店街を歩く人々は、厚手のコートを羽織り、マフラーを首に巻いている。
吐く息が白く、秋から冬への移り変わりを実感させる。
店の窓ガラスには、時々薄く曇りができる。
私はそれを布で拭きながら、外の景色を眺めた。
街路樹の葉は、ほとんど落ちてしまっていた。
裸になった枝が、灰色の空に向かって伸びている。

「和花、寒いだろう。暖房を少し強くしようか」

誠一郎さんが、店の奥から声をかけてきた。

「いえ、大丈夫です。このくらいがちょうどいいです」

私は振り返って答えた。
確かに少し冷えるけれど、この店の温かみは、暖房の温度だけで作られているわけじゃない。
木の温もり、優しい光、そして香り。
それらが混ざり合って、心地よい空間を作り出している。

「そうか。でも、寒くなったら言ってね」
「はい、ありがとうございます」

誠一郎さんは優しく笑って、また作業に戻った。

私はカウンターに戻り、今日のスケジュールを確認した。午前中は比較的静かだろう。
午後には、蓮さんがSNSの撮影に来る予定だ。
蓮さん、か。
彼のことを考えると、少しだけ胸がざわつく。
それが何なのか、まだはっきりとは分からない。
ただ、彼がいると心が落ち着く。それだけは確かだった。

カランカラン。
ドアベルの音で、私は我に返った。

「いらっしゃいませ」

顔を上げると、一人の男性が入ってきた。
30代前半くらいだろうか。
紺色のスーツを着て、ビジネスバッグを手にしている。
髪は短く整えられていて、清潔感のある印象。
でも、その表情には、どこか疲れが滲んでいた。
彼は店内を見回した後、私のところに近づいてきた。

「あの、すみません」

その声は、少し掠れていた。

「はい、何かお探しですか?」

私は柔らかく笑いかけた。

「リラックスできる香りを探しているんですが」

彼は少し困ったように眉を寄せた。

「最近、仕事でストレスが溜まってて。何か、心を落ち着かせるものがあればと思って」

その言葉に、私は少し胸が痛んだ。
彼の表情には、明らかに疲労が見える。
目の下には薄いクマができていて、肩も少し丸まっている。
きっと、相当なプレッシャーを抱えているのだろう。

「かしこまりました。よかったら、少しお話を聞かせていただけますか?そのほうが、より合った香りをご提案できると思います」

彼は少し迷った様子だったが、やがて小さく頷いた。

「…はい、お願いします」



私は彼をカフェスペースに案内した。
今日はカモミールとラベンダーのブレンドティーを淹れた。
心を落ち着かせて、リラックスさせてくれる組み合わせ。
湯気が立ち上り、優しい香りが広がる。

「どうぞ」

私はカップを彼の前に置いた。

「ありがとうございます」

彼はカップを両手で包んで、小さく息を吐いた。
その仕草が、どこか無防備で、彼の疲れを物語っているようだった。

「私、柚木和花と申します。よろしければ、お名前を伺ってもよろしいですか?」

私は先に自分の名を名乗ってから尋ねた。

「岡本聡です」

彼は少し緊張した様子で答えた。

「岡本さん、よろしくお願いします」

私は柔らかく笑いかけた。
少し沈黙が流れた。彼はカップを見つめたまま、何かを考えているようだった。
私は焦らず、彼が話し始めるのを待った。
やがて、岡本さんがゆっくりと口を開いた。

「…僕、今の仕事に行き詰まってるんです」

その声は、どこか重かった。

「IT企業でエンジニアをしているんですが、最近、毎日がしんどくて」

彼はカップから視線を上げて、窓の外を見た。

「朝起きるのが辛い。会社に行くのが怖い。上司からのプレッシャーも強くて……それで、転職を考え始めたんです」

その言葉に、私は静かに頷いた。

「転職、ですか」
「はい」

岡本さんは再びカップに視線を落とした。

「でも、決断できないんです。今の会社は、給料もいいし、安定してる。辞めたら、次がうまくいくかも分からない」

彼の声が、少しずつ震え始めた。

「でも、このまま続けたら、僕は壊れてしまう気がする」

その言葉を聞いて、私の胸が締め付けられた。
彼は、今、とても苦しんでいる。
どちらを選んでも、リスクがある。
安定を取るか、自分の心を守るか。
その選択に、答えはあるのだろうか。

「岡本さん。転職を考え始めたきっかけは、何だったのでしょうか?」

私の問いかけに、岡本さんは少し考えてから、答えた。

「…先月、同僚が倒れたんです」

その声は、どこか痛々しかった。

「過労で。救急車で運ばれて。……それを見て、思ったんです。このままだと、次は僕かもしれないって」

彼は拳を握りしめた。

「でも、会社を辞めるのも怖い。次の仕事が見つからなかったら。家族を養えなくなったら……どうしたらいいのか、分からないんです」

その言葉を聞いて、私は少し考えた。
私に、彼の人生の答えを出すことはできない。
でも、寄り添うことはできる。
彼が自分で答えを見つけるのを、手伝うことはできる。

「岡本さん」

私はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。

「正解はない、と思うんです」

岡本さんが顔を上げた。

「どちらを選んでも、リスクはあります。でも、どちらを選んでも、得られるものもあります」

私は続けた。

「でも、大切なのは、岡本さんご自身が、何を一番大切にしたいか、じゃないでしょうか」

岡本さんは黙って聞いている。

「安定でしょうか?それとも、ご自身の心の健康でしょうか?……どちらが正しいとか、間違ってるとかじゃなくて。岡本さんが、今の自分にとって何が一番必要か」

岡本さんは目を閉じた。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、彼がゆっくりと目を開けた。

「…僕、本当は、もうとっくに答えは出てたんだと思います」

その声は、少し震えていた。

「転職したい。今の会社を辞めたい。でも、それを認めるのが怖くて、自分に言い訳をして、逃げてたんです」

彼は自嘲気味に笑った。

「情けないですよね」
「そんなことありません」

私は首を振った。

「怖いのは、当然です。人生を変える決断ですもの。でも、岡本さんは、ちゃんと自分の心と向き合おうとしている。それは、勇気があることだと思います」

岡本さんの目に、涙が浮かんだ。

「…ありがとうございます」

彼は小さく言った。

「誰かにそう言ってもらえて、少し楽になりました」

私は微笑んだ。

「岡本さんが、ご自身で決めたことなら、それがきっと正しい選択です」

岡本さんは涙を拭いて、深呼吸をした。

「…そうですね。もう一度、ちゃんと考えてみます」

その表情には、少しだけ、前を向く力が戻ってきているように見えた。