香りの記憶、人生の処方箋



香りの棚の前にお二人を案内し、香りを探す。
雨はまだ降り続いていて、窓を優しく叩いている。
その音が、心地よいBGMのように響いていた。

「お二人には、ラベンダーをおすすめします」

私はラベンダーの瓶を手に取った。

「ラベンダーは、心を落ち着かせてくれる香りです。でも、それだけじゃないんです」

私は瓶の蓋を開けた。

「ラベンダーは、『和解』の香りとも言われています」
「和解……」

恵子さんが呟いた。

「はい。実は、ラベンダーという名前は、ラテン語の『洗う』という言葉から来ていて、心の中の怒りや悲しみを洗い流して、相手を許す力をくれるんです。古くから、仲違いをした人たちが、ラベンダーの香りを共有することで、心を通わせてきたそうですよ」

私は二人に瓶を差し出した。
恵子さんが先に香りを嗅いで、それから未央奈さんに渡す。

「優しい香り」

未央奈さんが小さく言った。

「そうですね」

恵子さんも頷いた。

「次に、これを」

私はオレンジスイートの瓶を開けた。

「オレンジは、温かさと絆を象徴する香りです」

二人が香りを嗅ぐ。

「これ、いいですね」

未央奈さんが笑顔を見せた。

「温かくて、ほっとする」

恵子さんも柔らかく微笑んだ。

「最後に、これを」

私はカモミールの瓶を開けた。

「カモミールは、安心感を与えてくれる香りです。家族の絆を深めてくれるとも言われています」

二人が香りを嗅いで、顔を見合わせた。

「これ、いいね」
「うん、いい」

二人は笑い合った。
その笑顔が、とても穏やかで、私まで嬉しくなった。

「では、この3つでブレンドを作りますね。お二人の絆を深める香りを」



カウンターで、私はブレンドを作った。
二人分の小瓶に、それぞれキャリアオイルを注ぐ。
そして、一滴ずつ、丁寧に精油を垂らしていく。

「ラベンダーを3滴」

和解の香り。

「オレンジスイートを2滴」

温かさと絆の香り。

「カモミールを1滴」

安心感の香り。
瓶を優しく振って、香りを混ぜ合わせる。

「できました」

私は二人に瓶を渡した。
恵子さんと未央奈さんが、同時に香りを嗅ぐ。
数秒の沈黙。
そして、二人は顔を見合わせて、微笑んだ。

「いい香り」
「うん、すごくいい」

二人は手を繋いだ。
その手の温もりが、私にも伝わってくる気がした。

「これ、毎日一緒に嗅ごうね」

未央奈さんの提案に恵子さんが頷く。

「ええ。そうしましょう」

二人の顔には、もう険しさはなかった。
ただ、温かな笑顔があるだけだった。



二人が店を出る時、恵子さんが私に言った。

「本当にありがとうございました」
「いえ、お二人が向き合う勇気を出されたんです」

私は微笑んだ。

「私は、少しお手伝いをしただけです」
「でも、あなたがいなかったら、私たち、このまますれ違っていたかもしれない」

未央奈さんも笑顔で言う。
そして二人揃って私に向き直る。

「ありがとうございました」

二人は深々と頭を下げた。
私も、頭を下げた。

「また、いつでもいらしてくださいね」
「はい」

二人は笑顔で、店を出ていった。
雨の中、傘を差して歩く二人の背中が、寄り添っているように見えた。
私は、その背中をいつまでも見送った。



夕方、雨が上がった。
空には虹がかかっていた。
淡い七色の橋が、商店街の上に弧を描いている。

「綺麗ですね」

私は窓の外を見ながら呟いた。

「ああ、綺麗だね」

誠一郎さんも窓に近づいてきた。

「和花、今日もいい仕事をしたね」
「ありがとうございます」

私は少し照れながら答えた。

「親子の関係って、難しいんだね。近すぎるから、かえって傷つけ合ってしまう」
「そうですね。……でも、お互いを大切に思っているからこそ、向き合えるのかなと思います」
「そうだね」

私の言葉に誠一郎さんは優しく笑った。

「香りが、その橋渡しをしてくれることもある」

その言葉を聞いて、私は改めて思った。
香りには、不思議な力がある。
記憶を呼び起こし、感情を癒し、人と人を繋ぐ。
私は、そんな香りの力を、もっと学びたい。
もっと、誰かの役に立ちたい。

カランカランとドアベルが鳴った。

「おじいちゃん、ただいま」

蓮さんだった。
工具箱を持って、少し濡れた髪をしている。

「蓮、遅かったね」
「ごめん、雨がひどくて」

蓮さんは苦笑した。

「和花さんも、お疲れさま」
「お疲れさまです」

私は笑顔で答えた。

「じゃあ、棚の修理、始めるね」

蓮さんは店の奥に向かった。
私は、彼の背中を見ながら思った。

蓮さんがいると、なぜか心が落ち着く。
それが何なのか、まだよく分からないけれど。
でも、悪い気はしない。



その夜、店を閉めた後。
私は一人、ラベンダーの瓶を手に取った。

和解の香り。
家族の絆の香り。
蓋を開けて、深く香りを嗅ぐ。
優しい香りが、心を包んでくれる。
――和解、か。
私にも、和解しなければならない相手がいる。
瀬川さん。
あの日から、何も話せていない。
でも、いつか――。
いつか、向き合える日が来るだろうか。

窓の外を見る。
虹は消えていたけれど、空には星が輝き始めていた。
雨上がりの夜空は、いつもより美しい。
私は瓶を棚に戻して、深呼吸した。
一歩ずつ、ゆっくりでいいから、確実に前に進もう。
失敗する事を恐れる事無く。