香りの記憶、人生の処方箋

結衣さんの件があってから、三日後のことだった。
その日の朝は、いつもより冷え込んでいて、商店街を歩く人々は、マフラーを巻き、手をポケットに突っ込んで、足早に歩いている。
空は灰色の雲に覆われていて、今にも雨が降り出しそうな空気だった。
私は店の扉を開けて、冷たい空気を肺に吸い込んだ。
少しひんやりとした感触が、頭をすっきりさせてくれる。

「おはようございます」

店の奥から、誠一郎さんの声が聞こえた。

「おはようございます」

私は店内に入って、コートを脱いだ。
店の中は、外よりもずっと温かい。
木の温もりが、優しく体を包んでくれる。

「今日は冷えるね」

誠一郎さんがカウンターから顔を出した。

「そうですね。もうすぐ11月ですもんね」

私はカウンターに向かいながら答えた。
誠一郎さんは今日もいつものように、穏やかな表情をしている。
彼の存在が、この店に安心感を与えているのだと、最近よく思う。

「和花、今日は蓮が来るよ」
「蓮さんが?」
「ああ。棚の修理を頼まれててね。午後には来るだろう」

誠一郎さんは精油の瓶を並べながら言った。

「そうなんですね」

私は少しだけ、胸が高鳴るのを感じた。
蓮さんが来る……というだけで、なぜか心が落ち着かなくなる。
それが何なのか、まだよく分からない。



午前中は、比較的静かだった。
数人のお客さんが来て、精油やアロマグッズを買っていった。
私は一人一人に丁寧に対応しながら、心の中で少しずつ自信を積み重ねていた。
お客さんと話すことが、以前ほど怖くない。
それが、嬉しかった。

昼過ぎ、雨が降り始めた。
窓を叩く雨音が、静かな店内に響く。その音を聞きながら、私はカウンターで在庫の整理をしていた。
カランカラン。
ドアベルが鳴って、二人の女性が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

私は顔を上げて、笑顔で迎えた。
一人は50代くらいの女性。
落ち着いた雰囲気で、上品なコートを着ている。
もう一人は20代半ばくらいの若い女性。
ショートカットで、少しピリピリとした空気を纏っている。
二人は似ている。顔立ちが。
親子……だろうか。
でも、二人の間には、どこか微妙な空気が流れていた。

「あの……」

年配の女性が声をかけてきた。

「リラックスできる香りを探しているんですが……」
「はい、かしこまりました」

私はカウンターから出て、彼女たちに近づいた。

「どのような場面でお使いになりたいですか?」
「家で、夜寝る前に」

年配の女性が答えた。
若い女性は、何も言わずに店内を見回している。
どこか、そっけない態度だった。

「でしたら、ラベンダーがおすすめです」

私は棚からラベンダーの瓶を取り出した。

「心を落ち着かせて、リラックスさせてくれる香りです」

年配の女性が香りを嗅ぐ。

「いい香りですね」

彼女は柔らかく微笑んだ。
でも、若い女性は興味なさそうに、窓の外を見ている。
私は少し気になった。

「よかったら、お二人ともお試しになりますか?」

私は若い女性にも瓶を差し出した。
彼女は少し戸惑った様子で、瓶を受け取った。

「……いい香りですね」

彼女は小さく呟いたけれど、表情は硬いままだった。

「ありがとうございます」

年配の女性が言った。

「これ、いただきます」

「かしこまりました」

私はレジに向かった。
会計を済ませながら、私は二人の様子を横目で見ていた。
二人は並んで立っているけれど、視線を合わせない。
何かあるのだろうか。
でも、聞く事はできない。。
お客さんのプライベートに、どこまで踏み込んでいいのか分からない。

「ありがとうございました」

私が袋を差し出すと、年配の女性が袋を受け取り、若い女性に視線を向けた。

「未央奈、行くわよ」
「……はい」

若い女性――未央奈さんは、小さく返事をした。
二人が店を出ようとした時、未央奈さんが振り返った。

「あの……すみません」
「はい?」

私は彼女を見た。
未央奈さんは少し迷った様子で、それから小さく言った。

「母娘で、一緒に使える香りって、ありますか?」

その言葉に、年配の女性――お母さんが驚いた表情を見せた。

「未央奈……」
「いえ、やっぱりいいです」

未央奈さんは慌てて首を振った。

「すみません、失礼します」

二人は足早に店を出ていった。
私は、彼女たちの背中を見送った。

母娘で、一緒に使える香り……。
その言葉が、心に引っかかった。