商店街の一角にある小さなアロマショップ「桐の香」。
私、柚木和花(ゆずきわか)は今日もここで、淡々と働いている。

カウンターで精油の在庫をチェックしながら、時折顔を上げて店内を見渡す。
木の温もりを感じさせる棚に並ぶ、色とりどりの小瓶たち。
ラベンダー、ローズ、レモン、ペパーミント――どれも優しい香りを秘めている。
窓から差し込む秋の午後の光が、店内を柔らかく照らしていた。
カランカラン、とドアベルが鳴り、お客さんが入ってくる。

「いらっしゃいませ」

私は顔を上げて、来店した方に声をかけた。
でも、ただそれだけ。接客はそこまで。
あとは客が自分で香りを選ぶのを、遠くから見守るだけだ。

「和花、今日は元気がないね」

奥から声がして、店主の桐野誠一郎(きりのせいいちろう)さんが姿を現した。
60代の穏やかな男性で、私の師匠でもある。

「そんなことないですよ」

私は曖昧に笑って答えた。
でも、誠一郎さんは鋭い。

「客と向き合うには、まず自分の心と向き合わないとね」

その言葉に、私は少しだけ胸が痛んだ。

向き合う……か。
私は、自分の心とちゃんと向き合えているのだろうか。
香りと、客と、そして自分自身と。

――四年前のことが、頭をよぎる。

大学の研究室。片思いの相手である瀬川先輩の誕生日。
私が自作した香水を贈った時の、先輩の凍りついた表情。

「ごめん……この香り、俺には……」

その日から、先輩は私を避けるようになった。
もちろん、私は何も聞けなかったし、何も言えなかった。
ただ、分かったのは、私がひとりよがりで、相手のことを何も考えていなかったということ。
自分がこの香りを気に入っているからという理由で、両想いならまだしも、片想いの相手に送るべきではなかったのだ。

――あの失敗の後、私は香りから離れようとした。
でも、香りそのものは、好きだったから、どう向き合えばいいのか、分からなかった。

そんな時、偶然この店に立ち寄った。
そして、誠一郎さんに出会った。

「香りは人を傷つけるものじゃない。使う人の心次第だ」

その言葉に、救われた。
もう一度、ちゃんと向き合おう。
そう思って、私はこの店で働くことを決めた。

でも――。

「ご自由にどうぞ」

それでも、これが今の私の限界だった。



その日の午後、一人の女性が店に入ってきた。
カランカランとドアベルが鳴り、私は振り返る。

「いらっしゃいませ」

私はいつものようにお客さんに声をかけた。
女性は30代くらいだろうか。
スーツ姿で、少し疲れた様子。
ショートカットの髪が、彼女の表情をより鋭く見せている。でも、どこか脆さも感じられた。
彼女はふらふらと店内を歩き、棚の前で立ち止まり、精油の瓶を一つ一つ、じっと見つめている。
何かを探しているようで、でも見つからない様子。
私は少し迷った。声をかけるべきだろうか。
でも、下手に勧めて、またあの時みたいに――。

その時、女性がある瓶を手に取った。
小さなガラス瓶。
ラベルには「ローズ」と書かれている。
彼女はそれをじっと見つめた。
そして、手が震え始めた。
……え?
次の瞬間、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。

「……っ」

声にならない声。
彼女は慌てて涙を拭おうとするが、止まらない。
私は、もう放っておけなかった。

「あの……」

私は彼女に近づいた。

「大丈夫ですか?」

声をかけられて、女性は顔を上げた。
涙で潤んだ瞳が、私を見つめる。

「すみません……その、私……」

彼女は言葉に詰まった。
私は少し考えて、言った。

「よかったら、あちらで座りませんか?」

私はカフェスペースを指した。
店の奥にある、小さなテーブルと椅子。
女性は少し迷った後、小さく頷いた。

私は彼女にハーブティーを出した。
カモミールティー。心を落ち着かせる香り。

「ありがとうございます」

女性は小さな声で言って、カップを両手で包んだ。
しばらく沈黙が続いた。
私はどう声をかけていいか分からず、彼女が話し始めるのを、ただ待っていた。
やがて、女性がゆっくりと口を開いた。

「……あの香り、昔の彼が使っていた香水に似ていて」

私は静かに頷いた。

「私、三年付き合った彼氏に、二ヶ月前に振られたんです」

彼女の声は、どこか諦めたような、それでいて苦しげな響きを帯びていた。

「別れたこと自体は…もう、仕方ないって思えるんです。お互い、合わなかったんだって。……でも」

彼女はカップを見つめた。

「街中で、誰かがあの香水の匂いをつけて通り過ぎる瞬間、全部が戻ってくるんです。彼の声、笑顔一緒に過ごした時間……電車の中で、急に涙が出てきて。周りの人に変な目で見られて」

彼女は自嘲気味に笑った。

「もう忘れたいのに。前に進みたいのに。香りが、全部引き戻すんです」

私は、その言葉に深く共感した。
香りと記憶。
それは、私がずっと向き合ってきたテーマだった。

「……香りって」

私はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。

「記憶と、すごく強く結びついているんです」

女性が顔を上げた。

「嗅覚っていうのは、脳の中で記憶を司る部分と直接繋がっているんです。だから、香りを嗅ぐと、その時の記憶が一瞬で蘇る。……プルースト効果、って言います」

女性は静かに聞いていた。

「だから、あなたが苦しいのは、当然なんです。香りは、他のどの感覚よりも強く、記憶を呼び起こす。あなたが忘れたくても、身体が覚えている」

女性は小さく頷いた。

「そうなんですね……だから、あんなに鮮明に思い出すんだ」

私はカップに視線を落とした。
次の言葉を、言っていいのだろうか。
でも、彼女は苦しんでいる。
私に何かできることがあるなら――。

「あの……もしよかったら」

私は顔を上げた。

「古い香りを、新しい香りで上書きしませんか?」

女性は目を丸くした。

「上書き……?」
「はい」

私は少しだけ、勇気を出して言った。

「新しい香りを見つけて、それを毎日嗅ぐんです。朝起きた時、出かける前、帰ってきた時……。そうすれば、少しずつ、その香りが『あなたの今』になっていきます。過去じゃなくて、今を生きるための香り」

女性はじっと私を見つめた。

「そんなこと……できるんでしょうか」
「できますよ。無理にとは言いませんが、よろしければやってみませんか?」

私は笑顔で言った。

「一緒に、あなたの香りを探しましょう」

女性は少し迷った後、小さく頷いた。

「……お願いします」

その言葉を聞いて、私の胸に温かいものが広がった。