婚礼の朝だというのに、東雛(ひがしびな)家の門前には、重い曇天が垂れ込めていた。

 花嫁衣装を身にまとった東雛月子(つきこ)は、ひとり静かに馬車の前へ進み出る。

 手を取ってくれる者は誰もいない。
 子爵家の娘が伯爵家へ嫁ぐというのに、華族なら備えてしかるべき嫁入り道具の箱すら並んでいなかった。

 華族らしい生活は送ったことがない。出ていくときでさえ、形ばかりも整えてくれないのだと知り、胸の奥底が失望で震えた。

 底冷えする石畳を踏みしめ、重たい白無垢を引きずるように持ち上げ、馬車に乗り込む。
 そのとき、静寂を裂くような甲高い声が響いた。

「お姉さまに花嫁衣装が似合うだなんて、奇跡みたいだわ」

 妹、天音(あまね)の嘲笑まじりの声だった。その横で、継母の梅乃(うめの)が扇子で口元を隠しながら、いやらしい目つきをした。

西街(にしまち)最大の名家、大原(おおはら)様へ嫁ぐなんて、月子には分不相応だこと。せいぜい足を引っ張らないようにねぇ」

 月子はうつむいたまま唇を噛む。言い返す力は、とうに失っていた。

 ずっとそうやって生きてきた。
 思いやりのない妹に、意地悪な継母。彼女たちの言いなりで、月子をないがしろにしてきた実父との生活に、生きた心地などなかった。

「月子」

 声をかけてきた父、正一(しょういち)の冷たい目に、月子はおびえた。

「大原家での粗相は、東雛家の恥となる。お前は東雛家の名を汚さぬよう務めよ。それだけだ」
「……はい、お父様」

 月子に対する信用のない父のあきれたまなざしから目をそらすと、天音のとびきり明るい声が追いうちをかける。

「もう帰ってこなくていいからね? お姉さま」

 その言葉を最後に、馬車はゆっくりと東雛家を離れていく。

 生まれ育った屋敷が小さくなり、やがて見えなくなった。誰からも温もりが感じられない見送り。何を期待するでもなかったからか、涙の一つも出なかった。

 しかし、不安は付きまとった。
 夫となる相手の顔も知らない。
 安住の地が月子を迎えてくれる確証は何ひとつない。

(……それでもきっと、あの家にいるよりは、ずっとマシなはず)

 わずかな希望に、今はすがるしかなかった。



 月子が暮らす鏡華都(きょうかと)では、夜な夜な妖魔と呼ばれる怪異が徘徊し、それに対抗するため、異能を持つ華族の力が不可欠とされていた。

 鏡華都は東街(ひがしまち)と西街に分かれており、西街に屋敷をかまえる大原伯爵家は、妖魔討伐で名をあげ、急速に権勢を拡大していた。

 鏡華都を治める侯爵家、百鬼(なきり)家に次ぐ実力を持つとも言われ、その存在感は日に日に増している。

 その大原家への嫁入りが決まったのは、三月(みつき)ほど前だった。

 東雛家に受け継がれる雷の異能、雷華(らいか)を操る天音に対し、姉の月子は無能であった。
 東雛家にとって、価値のない出来損ない。
 長女でありながら、後継になれない彼女は、大原家の急な申し入れに困惑する余地すら与えれないまま、今日を迎えた。

 月子はゆっくりと馬車を降りると、門の中へと進んだ。

 東雛家は子爵家ながら格式が高く、鏡華都でも立派な邸宅を有していたが、大原家はそれ以上の威容(いよう)(ほこ)っていた。

 しかし、月子の胸は不安でいっぱいだった。
 霧が立ち込めているかのように、どこか湿った空気が屋敷を漂っている。

「ようこそ、月子さん」

 扉が開き、男の人が姿を見せた。

 紋付きの羽織袴を身につけている。彼が、夫となる大原鈴彦(すずひこ)だろう。

「お初にお目にかかります」

 びくびくとしながら、月子はゆっくりと頭をさげた。

「あなたは大原家にとって大切な花嫁です。……歓迎しますよ」

 青白い顔に浮かんだ微笑みは、どこか粘りついてくるような不気味さがあった。

 おずおずと月子は小さく頭を下げ、彼に続いて屋敷の中へと足を踏み入れた。

 朝の日差しが差し込んでいるのに薄暗く感じられる廊下の、重厚な床がぎしりと音を立てる。よく手入れが行き届いているのに、黒いしみに濡れているように見える柱……。

 胸の奥がざわりとする。

(……何かしら、この感じ)

 閉め切った窓。風など吹き込んでいないのに、まるで屋敷そのものが呼吸しているような、湿った空気が月子の肌をなでていく。

「月子さん、どうぞここで待っていてください。花嫁衣装は重たいでしょう? すぐに楽になれますよ」
「私は……何も負担には……」

 小さく否定するが、鈴彦は目をさらに細めて、部屋の奥を指差す。

「さあ、中へ。私は婚礼の準備が滞りなくできているのか見てきます」
「あの……、私ひとりで、ここに?」
「ええ。すぐに戻りますよ」

 そう言い残し、彼は立ち去った。

 部屋の中へと進み入り、ろうそくの灯りがゆらめく天井を見上げた。ギシギシと(はり)がきしむたび、影が不自然に揺れる。

 その不気味さに背筋がぞくりとした瞬間、カサリ……と背後から音が聞こえた。

 月子はゆっくり振り向いた。

 天井の角……薄暗いそこに、巨大な蜘蛛が張りついていた。
 それはぎょろりとした目を光らせ、月子をのぞき込んでいる。

「ひっ……!」

 声にならない悲鳴をあげ、月子は後ずさった。

(逃げなきゃ……!)

 とっさに着物のすそを握りしめ、月子は部屋を飛び出した。
 廊下は、まるで真夜中かのように暗くなっている。

「誰か……っ!」

 叫んでも、屋敷内はシンと静まり返っていた。
 カサカサという音だけが背後から聞こえ、月子は思わず振り返る。

 開いた障子戸の奥で長い手足がうごめき、青い煙がゆらゆらと漏れ出てくる。

(あれは……、なにっ?)

 鳥肌の立つ腕をさすった月子は、手のひらに張り付く小さな蜘蛛に気づき、我が目を疑った。

「いやぁ……っ!」

 白無垢にむらがる無数の黒い蜘蛛。
 月子は帯を乱暴にほどき、打掛を脱ぎ捨てた。

(とにかく、外に……)

 わき目もふらずに走り出す。
 廊下の先に、薄明かりの漏れる戸があった。思い切り引っ張ると、目の前に庭が広がる。

 庭に転がり出て、振り返ると、屋敷そのものがうねって見えた。
 空も見えない。ここだけが、隔離されているかのように暗雲が垂れ込め、深い霧に覆い尽くされている。

(これは……妖魔のしわざなの……?)

 大原家は妖魔討伐に長けている。
 妖魔に屋敷ごと飲み込まれているなんて考えられない。

(どうして……こんなことに……)

 飛び出してきたばかりの戸から、大きな蜘蛛が頭を現す。同時に、小さな蜘蛛が無数に広がり出て、月子の足もとへと集まってくる。

「ひ……っ、来ないで……っ!」

 足をじたばたさせ、腕をこする。
 はらってもはらっても、蜘蛛はいくらでも這い上がってくる。

 次第に、月子の全身が黒いかたまりに飲み込まれていく。

「もう……だめ……」

 絶望に身を落とした瞬間、頭上に現れた火の玉が、大きな蜘蛛にまっすぐ向かって飛んでいく。

 轟音とともに火の玉がはじける。
 漂う焦げくさい匂い……。
 奇声のような、金切り声をあげた大きな蜘蛛が、悶えながら長い手足を縮める。

(なに……、なにが起きたの?)

 目を見開く月子の前に、黒い影が降り立つ。

「そこまでだ、絡新婦(じょろうぐも)。この百鬼が来た以上、好きにはさせないっ」

 低く鋭い声が響いた瞬間、濃い霧が引き、黒衣の男が目の前に立っていた。
 背が高く、若々しい男だった。

(百鬼って……まさか……)

 月子ののどが、かすかに鳴る。

(この方が、百鬼家の、侯爵さま……)

 黒い装束は、妖魔討伐を許された異能を持つものだけが着用を許される軍衣。
 そして、赤黒い炎を放つかのようにきらめく刀は、退妖魔用の軍刀。

 それを手にする彼が……あの、百鬼市哉(いちや)

 鏡華院の退妖(たいよう)司令官にして、大佐。
 鏡華都で彼の名を知らぬ者はいない、若き最強の異能者。

 その黒い目が絡新婦をにらむ。

「この地に巣食う妖魔よ、我が鬼嘆(きたん)の刀で、その(けが)れを浄化するっ!」

 叫んだ瞬間、市哉の前髪が揺れ、ひたいに赤黒い紋様が浮かびあがる。

(あれは……なに……?)

 三日月を合わせたような奇妙な形をした模様とともに、彼の瞳は赤黒く染まり、呼吸が獣のように荒くなる。

 市哉は向かってくる無数の蜘蛛たちを、手のひらから発する火の玉で蹴散らしながら、絡新婦に向かって駆けていく。

「大人しく、祓われろっ」

 炎をまとった刀が、一陣の風のごとく振り下ろされ、絡新婦を真っ二つに断ち切る。
 すさまじい断末魔の叫び声をあげた絡新婦は、悶え苦しむ間もなく黒い霧となって消えた。

(助かったの……?)

 すっかり霧は晴れ、屋敷全体を柔らかな陽射しが覆う。まがまがしい空気も消え去り、月子は息をつく。

 そのとき、市哉が崩れ落ちるようにひざをついた。

「……くっ」
「だ、大丈夫ですか……っ?」

 月子が近づこうとすると、市哉が腕をまっすぐに突き出した。

「来るな……。俺に触れると、おまえまで……穢れる」
「でも……」

 肩で息をし、胸もとをつかむ彼はとても苦しそうだった。
 
(助けなきゃ……)

 気づけば、月子の足は勝手に動いていた。

 市哉の肩へそっと触れたその瞬間、手のひらに、ほわっと小さな光が灯る。
 その光は、まるで春のひだまりのような、やさしい温もりがあった。

(……なに、この光)

 思わず両手のひらを見つめる月子の手首を、市哉が荒々しくつかんだ。

「いま、何をした」

 赤黒い瞳が、大きく見開かれている。

「な、何も……。わかりません」

 戸惑いながら否定する月子の手を、市哉は乱暴とも取れる仕草で自らのひたいへ押し当てた。

「あっ……な、何を……」

 驚きで手を引こうとした。しかし、市哉から目が離せなかった。

 彼のひたいに浮かんでいた赤黒い紋様が、音もなく薄れていく。
 瞳もまた赤黒さを失い、静かな黒へ戻っていった。

「……(しず)まった? 鬼性(きしょう)が、これだけで……?」

 信じられない、と低くつぶやきながら、市哉は月子をまっすぐに見つめる。

「おまえは……いったい何者だ」
「私は……東雛、月子と申します」
「名を聞いているんじゃない」

 緊迫した空気が一気にゆるむ。
 あきれたように小さく笑った市哉は、月子の手を取って立ち上がらせた。
 その所作には、先ほどの荒々しさとは違う丁寧さがあった。

「東雛の屋敷まで送ろう」
「あの……でも私は、今日から大原家に……」

 のこのこと帰宅したら、どんな仕打ちが待っているだろう。想像するだけで、月子の心はどんよりと沈む。
 しかし、東雛家での彼女の処遇を知らない市哉は、厳しい顔つきをする。

「東雛へは俺から話す。この有様では、とても婚礼どころではない」

 着崩れた白無垢に目を落とした市哉は表情を曇らせ、自身の黒いマントを外して月子の肩にそっとかけた。

 まだ彼のぬくもりが残るそれをかき寄せると、こわばっていた体から力が抜けるのを感じた。



 市哉の手配した御者によって東雛家へ戻された月子は、三日が過ぎたある日、応接間へ呼び出されていた。

 怒りを押し殺した父と、いまいましげに言葉を並べ立てる大原鈴彦の前で、月子は三十分ものあいだ、息をひそめて座っていた。

(どうしよう……。鈴彦さんは、私をどうするおつもりかしら……)

 絡新婦という妖魔はたしかに恐ろしい魔物だった。
 けれど、鈴彦の冷ややかなまなざしには、それと同等の、いや、それ以上の恐怖を感じていた。

「……実に、東雛さんには失望しました。先ほど申し上げたように、世間では、妖魔に花嫁を襲われた上、私では太刀打ちできず、百鬼大佐に助けを乞うた……と不名誉なうわさが立っております」

 悔しさをにじませ、鈴彦の声は震えていた。

「事実無根は言うまでもありません。しかしなぜ、あれほど折よく大佐がやってこれたのか……」

 鈴彦が首をひねってこちらへ目を向ける。

 かろうじて冷静を保っていたはずの目には、すでに、明確な敵意が浮かんでいた。

「婚礼前に百鬼大佐と通じていたとはな。幼い顔に似合わぬ末恐ろしい娘だ。おまえのせいで、大原家の面子は丸潰れ。婚約破棄されても何も言えないぞっ」

 月子はごくりとつばを飲み込む。

(婚約、破棄……)

 覚悟していたはずなのに、その事実を突きつけられると、奈落の底に突き落とされるような恐怖が芽生えてくる。

「で、ですが……」

 月子がのどの奥から声を絞り出すと、鈴彦は勢いよく立ち上がり、ぴしゃりと決めつけるように強い声を放った。

「口答えは許さない。その卑しい気性が妖魔を呼び寄せたのだっ。我が家に穢れを持ち込む女とわかっていたら、婚約などするはずもなかったっ」
「そんな……。決して、決して私は……」
「うるさいっ、黙れ! この穢れた女めっ」

 月子は絶句した。

 数日前は、この人の妻になるはずだった。
 夫となる人がどんな人かは知らなかったけれど、大原家といえば名門で、身に余る婚約話を受けたときは、少しは幸せになれると信じていた。

 それなのに、そんな幸せは期待するだけ無駄だったと、今ならわかる。
 あのまま蜘蛛に喰われていれば、こんなふうに傷つけられることはなかったのだろうか。

 月子はとっさに父を見た。
 ぴくりとほおを引きつらせた父にすぐさま目をそらされ、ひゅっと息を飲む。

 助からなければ、非業の死を遂げた花嫁として、東雛家は喜んだのかもしれない。
 そんな暗い考えがよぎったが、すぐに月子は首を振った。

(……生きてるほうが、きっとマシ。……大丈夫よ。生きる手立てはこれから考えればいいわ)

「それでは東雛さん、月子さんとの婚約はなかったことに。いいですね?」

 スッと冷静を取り戻した鈴彦が、有無を言わせない様子で、父へと視線を移す。

「大原さま、まことに申し訳ございませんでした。ですが、今一度、私の話を聞いてくださいませんか」
「いいでしょう」

 すがるように腰を浮かせた父を見下した鈴彦は、ゆっくりとソファーに座り直す。

「月子、ここからはふたりで話す。おまえは部屋へ戻っていなさい」

 血走ったぎょろりとした目の父ににらまれて、月子は深く頭を下げると、無言で部屋を出た。

 重い足取りで廊下を歩いていると、鮮やかな着物のすそが目についた。
 思わず足を止めると、天音が柱のかげから、無邪気にひょこっと顔を出す。

「なんてかわいそうなお姉さま。婚約破棄されちゃったんですって?」

 わざとらしい哀れみの表情で、芝居がかった大声をあげた天音は、すぐに白い歯を見せてにやにやと笑った。

 何も言い返せずに黙っていると、天音は真珠のような白い指で、月子の肩をなぞる。

「婚約破棄された娘をもらってくれる物好きなんて……いるのかしらねぇ?」

 月子は唇をかんだ。

(どうして……。どうして、私ばっかりこんな目に……)

 つぶれるように痛む胸を押さえたとき、目の前を母の梅乃が小走りでよこぎっていく。

「お母さま、どうなさったの?」

 天音が引き留めると、珍しく梅乃が焦るように駆け寄ってくる。

「どうもこうもないわよ、天音。百鬼の侯爵さまがいらしたと聞いて……」
「あの、市哉さまが?」

 きらりと天音の目が光る。
 彼女は以前から、鏡華都を治める侯爵家に興味津々だった。

 眉目秀麗でうわさの市哉は、貴族の娘たちの間でも人気の貴公子。
 月子も女学院時代、彼の心を射止めるのは誰か……そんなふうにはしゃぐ若い娘の姿を何度か見かけたものだった。

「私もお出迎えしますわ」

 何やら魂胆めいた目をした天音がすぐさま玄関へ向かう。
 そのあとを、梅乃もあわてて追いかけていく。

 月子は迷ったが、ふたりのあとについていった。

(お話できるのなら、先日のお礼を……)

 市哉に会える機会は、これが最後かもしれない。

「ただいま、お客さまがおいででして、すぐに主人を呼んでまいります。どうぞ、中へお入りになってお待ちくださいませ」

 へこへこと頭を下げる梅乃の横で、天音がうっとりと背の高い青年を見上げている。

 あの日と同じ軍衣に身を包んだ市哉は、凛としたたたずまいで梅乃を微動だにせず見下ろしていたが、廊下の角からこっそり顔を出す月子に気づくと、ゆっくりとまばたきをした。

「東雛月子、探していた。おまえに話がある」

 彼がそう声を発した途端、梅乃も天音も、恐ろしい形相で振り返った。

 月子は驚いて肩をすくめる。
 しかし、市哉は彼女たちを一瞥するだけで通り過ぎ、まっすぐ月子の前へと立つと、低い声で問いかけてきた。

「……大原伯爵の子息との縁談はどうなっている?」
「え……あ、あの……」

 無神経な尋ねに、月子は目を泳がせたが、小さな声で答えた。

「たった今、大原さまから破談だと……」
「大原鈴彦が来ているんだな?」
「お父さまとお話をされています」
「案内してくれ」
「えっ、案内って……」

 月子はとっさに梅乃を見るが、彼女は天音と身を寄せ合い、いまいましげにこちらを眺めているだけだった。
 さすがに侯爵の前では、しゃしゃり出ることはないようだ。

 そうとわかると、月子はすぐさま、市哉を連れて応接間へ戻った。
 部屋の中からは、正一が熱心に話す声だけが聞こえている。

 おそらく、援助のお願いをしているのだろう。
 月子との縁談は最悪の形になったが、伯爵家とのつながりを絶たれたくない正一は、なんとしてでも鈴彦の機嫌を取り、東雛家を盛り立てていかねばならない。

 というのも、月子の実母である文子(あやこ)が亡くなり、梅乃と再婚したとき、文子の実家、渡会(わたらい)子爵家は、東雛家への一切の援助を断ち切ったのだ。
 そうすれば、困った正一が、月子を渡会家へ養女に出すと思っていたからにほかならないが、渡会家の祖父母はその翌年、流行病で相次いで亡くなり、月子は援助を絶たれたまま、後妻の梅乃のもとで育つこととなった。

 月子は扉を軽く叩いた。

「お父さま、百鬼大佐がお見えです。お通ししてよろしいでしょうか?」

 ほんの少しの沈黙のあと、内側から扉が開く。
 何ごとかと焦りを浮かべる正一の奥で、ソファーにふんぞり帰っていた鈴彦が、市哉を見るなり嫌悪感を浮かべた。

「これはこれは、百鬼大佐、ようこそいらっしゃいました。先日は、月子を妖魔からお助けくださり、ありがとうございました」

 愛想笑いを浮かべる正一を、冷淡な目で見下ろす市哉は、一つうなずく。

「退妖司令部として当然の働きをしたまでだ。礼には及ばぬ。それより、今日は急用があってきた。大原殿立ち会いのもと、話せるか?」
「大原さまもでございますか?」

 けげんそうに正一が振り返ると、鈴彦は皮肉げに唇をゆがめた。

「私も忙しいのですがね、百鬼大佐自らお越しになったとあれば、お断りはできませんよ」
「では、手短に告げよう。ここにいる東雛月子を、百鬼の後継である俺の妻として娶りたい。東雛殿にはその許しを得たい」

 室内の空気が、困惑でざわついた。

 鏡華都を治める百鬼侯爵家の嫡男である市哉自らの申し出を断る権限は、正一にはなかった。
 無論、月子も同じ。

「なんだって? なぜこんな娘を……! この娘は我が大原家に妖魔を呼び寄せた穢れですよっ!」

 耐えがたい苦痛の表情を浮かべる鈴彦を、市哉のまなざしが鋭く射抜く。

「本当に、そう考えているのか?」

 鈴彦はグッとのどを詰まらせ、押し黙る。
 市哉はそれ以上追求せず、愕然と驚く正一を見る。

「このまま、東雛月子は連れ帰らせてもらいたい。異論はないだろうな?」
「……な、百鬼大佐がそのようにおっしゃるのであれば」

 正一は言いたいことをすべてこらえたような表情で、苦々しくそう吐き出した。

 侯爵家に娘を嫁がせる。
 これほど東雛家にとって名誉なことはない。
 しかし、もろ手をあげて喜ばないのは、選ばれたのが天音だったらどんなに良かっただろうと思っているからではないだろうか。

「市哉さま……、本当によろしいのですか?」

 問いかけるように視線を向けると、市哉は静かに告げる。

「詳しい話はふたりだけで。来い、月子」

 差し出される手のひらと市哉の顔を、月子は交互に眺めた。
 ほんの少し、市哉が優しく目尻を下げた。

(大丈夫。この方は、妖魔から救ってくださったのだから、大丈夫……)

 震える指先で、市哉の手に触れた瞬間、握り返された。
 その手は思いのほか熱く、月子の震えを包み込む。

 不思議な感覚だった。
 婚約破棄されたばかりの自身に降ってきた幸運が、どうしてもまだ信じられなかった。

「必要な荷物は後日、俺の屋敷へ運ぶがいい。では、……東雛殿、失礼する」

 市哉は一方的に言い放つと、月子の手を引いて歩き出す。

 玄関へ向かう途中、悔しげに唇をかむ天音の姿や、それを見て怒りをあらわにする梅乃を目にした。

 市哉がいなければ、どんな嫌味を言われるだろう。
 身体に染み込んだ恐怖心は簡単には消えることなく、月子はふたりの視線から逃げるように百鬼家の車紋がついた馬車へ乗り込んだ。



 馬車の車輪が石畳を軋ませ、ゆるやかに揺れた。向かいに座る市哉は、どこか覚悟を決めたようなまなざしで月子を見つめている。

「……月子に伝えておきたいことがある」

 低く落とされた声に、緊張で胸が跳ねた。
 しかし、何を言われても受け入れようと、月子はすでに心に決めていた。
 じっと見返すと、市哉は口を開く。

「我が百鬼家は、鬼嘆の異能を持つ一族。それは公に知られたことだが、なぜ、この力を得たかを知るものは限られている。妻となる月子には、知っていてもらいたい話だ」
「……はい、覚悟はできています」

 市哉は力強くうなずく。

「実はこの力、我が先祖が酒呑童子(しゅてんどうじ)の討伐で浴びた返り血によって得たものだ」

 思いもよらない話に、月子は息を飲む。

「では、その鬼嘆の力は、鬼の力……」
「その通りだ。そしてこの力は、使うたびに俺自身を鬼へと近づける。……今も、確実にこの身をむしばんでいる」

 市哉は目を閉じ、静かにそう言葉を絞り出した。

「力を使うと、鬼になってしまうのですか……?」
「鬼化が進めば、その力に耐えきれず、鬼となる前に死ぬ。百鬼家の当主たちが短命だったのは、それが理由だ。だからこそ、俺には月子が必要だ」
「何をおっしゃって……」
「鬼化を止める唯一の異能、封巫(ふうみ)の力は、実在しないと信じられてきた。しかし、俺はその力をこの目で見た」

 市哉は月子の手首をつかみ、その手のひらをじっと見下ろした。

「おまえの持つこの力がなければ、俺の穢れは鎮まらない。……俺は生きたいのだ、月子」
「そ、そんな……私は、なにも……! 私には力なんてありません」

 必死に否定する月子に、市哉は静かに首を振った。

「まだ気づいてないだけだ」
「でも本当に、私は何もできない娘なのです」

 期待されたことなど一度もなかった。
 だからこそ、市哉の思いを受け止めるのが怖い。

「おまえができないというなら、俺は……」

 頼りなく市哉を見つめる月子に向けられたまっすぐなまなざしは、恐ろしいほどに切実だった。

「……俺は死ぬ」

 短く落とされたその言葉は、月子の心臓を強く締めつけた。
 市哉は姿勢を正し、深く頭を垂れた。

「月子。俺と結婚してくれ。俺の命を、支えてほしい」

 胸の奥が熱く揺れた。
 あの夜、命を救ってくれた市哉に恩返しをしたい。
 そう思うと同時に、この人を失いたくないという思いが胸に灯る。

 怖い。できなければ、彼は死ぬ。
 けれど、何もしなければ、助けられない。

 月子は震える手で、市哉の手を握り返す。

「……私でよければ、お力になりたいです」

 安堵の息をついた市哉が、まぶたを震わせて喜びをにじませた。

 月子は不安の中に、かすかな光が芽生えていくのを感じていた。
 この決断は間違いではないと思えた。