*
父さんは次の日の午後に帰って来た。
「なんか甘い匂いがするな」
リビングに入って来た父さんが言った。
ケーキが完成したのは二時間前だ。甘い匂いがするのも当然だった。あれから何度も作り直しやっと満足のいくものが出来た。デコレーションも生クリームを塗ってした。ケーキの間に挟んだのはもちろん苺、桃、蜜柑だ。
母さんにコツを教えてもらいながら、何とか誕生日ケーキが出来た。
「ケーキ焼いたんだよ。父さん、もうすぐ誕生日だろ?」
父さんの眼鏡の奥の瞳が驚いたように見開かれた。
「彰が作ったのか?」
「ああ。母さんのレシピノートを見ながら作ったんだ」
「レシピ?……残っていたのか?」
「うん」
父さんに差し出すと、眼鏡越しの目が潤んだ。
「美和の字だ」
レシピノートの表紙に書かれた文字を大事そうに撫でてから、父さんはノートを開き、最初のページから丁寧に見始める。
「そうか、ハンバーグのつなぎには豆腐を使っていたのか。シチューにはニンニクが入っていたんだ。肉じゃがは醤油が多めに入っていたんだな」
父さんはノートに視線を向けたまま呟いた。その言葉を聞いて胸が熱くなる。父さんも母さんに会いたくて堪らないんだ。
「父さん、あの」
白猫のことを話そうと思った。
「うん?」
レシピから父さんが顔を上げる。
「昨日、猫が家の前にいて……それで、その」
いざ口にしようとしたら、人間の言葉を話して、中身が母さんだなんて、信じてもらえるか自信が持てなくなった。
「猫が飼いたいのか? 彰が世話をするなら別に構わないぞ」
「いや、そうじゃなくて……あの」
説明しながら白猫の姿を探す。さっきまで俺の側にいたのに見当たらない。肝心な時にどこにいったのだ。
「彰、どうした?」
「父さん、白猫見なかった?」
コタツの布団をめくって、中を見るが白猫はいない。
「いや、見てないが……でも、白猫の夢は見たな」
「夢?」
「昨日、会社でうっかりうたた寝をしてしまってな。それで、夢の中に白猫が出て来て、家に帰って来てと言われたんだ」
ハッとした。
「それで父さん、帰って来たの?」
「うん。上手く説明できないんだが、美和に言われた気がして」
父さんを呼んだって白猫が言っていたのは、こういうことだったのか。人間の言葉を喋るんだ。それ以外の能力があっても不思議じゃない。
「父さん、ちょっと待ってて」
なんとしても父さんと白猫を会わせたい。説明するよりも会わせる方がきっと速い。
俺はリビングを出て、キッチン、和室、お風呂、トイレと白猫を探し、二階に駆け上がった。そして俺の部屋、父さんと母さんの寝室、父さんの書斎、トイレ、ベランダを見て回るが白猫はどこにもいない。
まさか外に出たのか?
嫌な予感がした。もう二度と白猫に会えないような気がして、胸が苦しくなる。母さんが事故に遭ったあの日と同じように。
せっかく会えたのに、また母さんはいなくなるのか。そんなの嫌だ。
俺は転びそうになりながら、階段を下りて、外に出た。
「母さん! 母さん!」
叫びながら門を出て、住宅街を走った。そして坂道を駆け下りて、母さんが事故に遭った大通りまで出た。
交差点の電柱には新しい花が供えられていた。きっと父さんだ。家に帰る途中に事故現場に立ち寄ったんだ。
母さんは道路を渡ろうとして、車に轢かれて亡くなった。
歩行者信号が赤だったと聞いた時、俺が誕生日ケーキをいらないと言ったから、母さんは自棄になってそんな行動に出たのかと思った。
ずっと母さんが亡くなったのは俺のせいだと思っていた。
「母さん! どこだよ! 母さん!」
俺の叫び声に通りを歩いていた人たちがこっちを見たが、構わなかった。
「母さん! 母さん!」
力の限り叫んだ。
このまま会えなくなるなんて嫌だ。
「もう、恥ずかしいわね」
母さんの声にハッとした。
振り向くと白猫がいた。
「母さん!」
俺は屈んで、白猫を抱きしめた。
「いなくならないよな。ずっとそばにいてくれるよな?」
母さんは何も言わず寂しそうに微笑んだ。
「ごめんね。彰。そろろそ迎え猫様に体を返さないといけないの」
「迎え猫様?」
母さんがぴょんと俺の体から飛び降りた。
「時間だ。小野原美和をあの世に連れて行く」
白猫の表情がガラリと変わった。そして、白猫の隣に母さんが生前のままの姿で立っていた。
「あの、迎え猫様、もう少しだけ彰と話しをさせて下さい。彰の罪悪感を無くさないと私はこの場所を離れられません」
母さんが白猫に向かって言った。
「小野原美和、時間だと言っているだろう」
「ちょっとくらいいいじゃないですか。私、今度こそ地縛霊になりますよ」
白猫がため息をつき、困ったような表情を浮かべた。
「少しだぞ」
そう言って、白猫は俺と母さんに背を向けた。
「彰、ごめんね。事故に遭ったのは彰のせいじゃないから」
母さんは俺と向き合った。
「さっき彰の心の声が聞こえたの。私、自棄になって赤信号を渡ったんじゃないの。あの日ね、道路の真ん中に子猫がいて、轢かれそうになっていたのを見過ごせなくて、道路に飛び出たの」
それを聞いてやるせなくなる。
「猫の為に命を捨てたのかよ!」
「ごめん、彰。思ったよりも車の速度が速くて避けられなかった。でも、死ぬつもりはなかったのよ。彰とお父さんを置いていくのが心残りで、お母さん、死んだあともずっとこの場所に立っていたんだから。彰とお父さんがお花を供えに来てくれていたのを見ていたのよ。でも、こんな姿になっちゃったから話しかけることもできず、ここから動くこともできなくて。それで、迎え猫様が私を迎えに来てくれたの」
この場所に母さんがずっといたなんて知らなかった。
「強い後悔があると、あの世にはいけないんですって。それで迎え猫様の体をお借りして、彰に会いに行ったの。お母さん安心したわ。彰はもう一人で大丈夫ね。大人になったのね」
母さんが穏やかな顔で微笑んだ。
「勝手に子離れするなよ。父さんはどうするんだよ。母さんのこと今でも想っているんだぞ」
「お父さんには、さっきさよならを言ったから大丈夫よ。彰をよろしくねって頼んでおいたから」
供えられた新しい花を見てハッとした。
「ここで父さんに会ったのか?」
「うん。彰が誕生日ケーキ用意しているって伝えたら、嬉しそうな顔をしてたよ」
なんだよ。父さん。母さんから先に聞いていたのかよ。知らないふりしやがって。
「彰、いい子に育ってくれてありがとう」
目頭が熱くなる。泣くものかと思っていたが、涙が滲んだ。
これで本当に最後なのか?
「私、口うるさくて、あまりいいお母さんじゃなくてごめんね」
「何言ってんだよ。毎年誕生日ケーキを焼いてくれる母さんがいいお母さんじゃないわけないだろ。俺が小四でいじめられていた時も、庇ってくれたじゃないか。彰のお母さんスゲーって友達に言われたんだから。俺も母さんのこと凄いと思ったよ」
「……彰」
母さんの目が涙ぐむ。
小さい頃から今までのことが蘇る。幼稚園の運動会で母さんが作ってくれた豪華な弁当が美味かった。小学校の授業参観に母さんが来てくれるのが嬉しかった。中学生になった頃からよくケンカするようになったけど、どんなに怒っていても母さんは次の日はケロッとしていて、ほっとした。高校生になってからはあまり口をきかなかったけど、毎朝持たせてくれる母さんの弁当がありがたかった。
「母さん、俺、俺……」
伝えたいことは沢山さんあるのに、気持ちが溢れて声が詰まる。
「うん。彰、わかってるよ」
涙をぬぐった母さんが微笑んだ。
「最後に彰に誕生日ケーキの作り方を教えられて良かった。彰、食べたかったんでしょ?」
「父さんの為に作ったんじゃないのかよ」
「それもあるけど、一番は彰が食べたがっていたから。これで私の味を継承出来たわね。彰も大切な人に作ってあげなさい」
「うん」
「じゃあ、そろそろ行くね」
母さんが白猫の方に歩き出す。
思わず母さんの手を掴もうとしたら、俺の手は素通りした。母さんがもうこの世の人ではないことを実感して胸がつまる。
「母さん……」
母さんが寂しそうに微笑んだ。
「私、彰のお母さんで幸せだったよ」
「俺も、母さんの息子で幸せだった」
俺の言葉を聞くと母さんは泣きながら笑った。
母さんの体がどんどん透明になっていく。そしてあっという間に消えた。
「母さん!」
母さんがいた場所に向かって叫ぶがもう母さんの声は返って来なかった。
「心配するな。小野原美和はちゃんと旅立った」
白猫が俺に言った。
いつの間にか空が茜色に染まっていた。綺麗な夕焼けを見て、母さんがそこにいる気がした。
父さんは次の日の午後に帰って来た。
「なんか甘い匂いがするな」
リビングに入って来た父さんが言った。
ケーキが完成したのは二時間前だ。甘い匂いがするのも当然だった。あれから何度も作り直しやっと満足のいくものが出来た。デコレーションも生クリームを塗ってした。ケーキの間に挟んだのはもちろん苺、桃、蜜柑だ。
母さんにコツを教えてもらいながら、何とか誕生日ケーキが出来た。
「ケーキ焼いたんだよ。父さん、もうすぐ誕生日だろ?」
父さんの眼鏡の奥の瞳が驚いたように見開かれた。
「彰が作ったのか?」
「ああ。母さんのレシピノートを見ながら作ったんだ」
「レシピ?……残っていたのか?」
「うん」
父さんに差し出すと、眼鏡越しの目が潤んだ。
「美和の字だ」
レシピノートの表紙に書かれた文字を大事そうに撫でてから、父さんはノートを開き、最初のページから丁寧に見始める。
「そうか、ハンバーグのつなぎには豆腐を使っていたのか。シチューにはニンニクが入っていたんだ。肉じゃがは醤油が多めに入っていたんだな」
父さんはノートに視線を向けたまま呟いた。その言葉を聞いて胸が熱くなる。父さんも母さんに会いたくて堪らないんだ。
「父さん、あの」
白猫のことを話そうと思った。
「うん?」
レシピから父さんが顔を上げる。
「昨日、猫が家の前にいて……それで、その」
いざ口にしようとしたら、人間の言葉を話して、中身が母さんだなんて、信じてもらえるか自信が持てなくなった。
「猫が飼いたいのか? 彰が世話をするなら別に構わないぞ」
「いや、そうじゃなくて……あの」
説明しながら白猫の姿を探す。さっきまで俺の側にいたのに見当たらない。肝心な時にどこにいったのだ。
「彰、どうした?」
「父さん、白猫見なかった?」
コタツの布団をめくって、中を見るが白猫はいない。
「いや、見てないが……でも、白猫の夢は見たな」
「夢?」
「昨日、会社でうっかりうたた寝をしてしまってな。それで、夢の中に白猫が出て来て、家に帰って来てと言われたんだ」
ハッとした。
「それで父さん、帰って来たの?」
「うん。上手く説明できないんだが、美和に言われた気がして」
父さんを呼んだって白猫が言っていたのは、こういうことだったのか。人間の言葉を喋るんだ。それ以外の能力があっても不思議じゃない。
「父さん、ちょっと待ってて」
なんとしても父さんと白猫を会わせたい。説明するよりも会わせる方がきっと速い。
俺はリビングを出て、キッチン、和室、お風呂、トイレと白猫を探し、二階に駆け上がった。そして俺の部屋、父さんと母さんの寝室、父さんの書斎、トイレ、ベランダを見て回るが白猫はどこにもいない。
まさか外に出たのか?
嫌な予感がした。もう二度と白猫に会えないような気がして、胸が苦しくなる。母さんが事故に遭ったあの日と同じように。
せっかく会えたのに、また母さんはいなくなるのか。そんなの嫌だ。
俺は転びそうになりながら、階段を下りて、外に出た。
「母さん! 母さん!」
叫びながら門を出て、住宅街を走った。そして坂道を駆け下りて、母さんが事故に遭った大通りまで出た。
交差点の電柱には新しい花が供えられていた。きっと父さんだ。家に帰る途中に事故現場に立ち寄ったんだ。
母さんは道路を渡ろうとして、車に轢かれて亡くなった。
歩行者信号が赤だったと聞いた時、俺が誕生日ケーキをいらないと言ったから、母さんは自棄になってそんな行動に出たのかと思った。
ずっと母さんが亡くなったのは俺のせいだと思っていた。
「母さん! どこだよ! 母さん!」
俺の叫び声に通りを歩いていた人たちがこっちを見たが、構わなかった。
「母さん! 母さん!」
力の限り叫んだ。
このまま会えなくなるなんて嫌だ。
「もう、恥ずかしいわね」
母さんの声にハッとした。
振り向くと白猫がいた。
「母さん!」
俺は屈んで、白猫を抱きしめた。
「いなくならないよな。ずっとそばにいてくれるよな?」
母さんは何も言わず寂しそうに微笑んだ。
「ごめんね。彰。そろろそ迎え猫様に体を返さないといけないの」
「迎え猫様?」
母さんがぴょんと俺の体から飛び降りた。
「時間だ。小野原美和をあの世に連れて行く」
白猫の表情がガラリと変わった。そして、白猫の隣に母さんが生前のままの姿で立っていた。
「あの、迎え猫様、もう少しだけ彰と話しをさせて下さい。彰の罪悪感を無くさないと私はこの場所を離れられません」
母さんが白猫に向かって言った。
「小野原美和、時間だと言っているだろう」
「ちょっとくらいいいじゃないですか。私、今度こそ地縛霊になりますよ」
白猫がため息をつき、困ったような表情を浮かべた。
「少しだぞ」
そう言って、白猫は俺と母さんに背を向けた。
「彰、ごめんね。事故に遭ったのは彰のせいじゃないから」
母さんは俺と向き合った。
「さっき彰の心の声が聞こえたの。私、自棄になって赤信号を渡ったんじゃないの。あの日ね、道路の真ん中に子猫がいて、轢かれそうになっていたのを見過ごせなくて、道路に飛び出たの」
それを聞いてやるせなくなる。
「猫の為に命を捨てたのかよ!」
「ごめん、彰。思ったよりも車の速度が速くて避けられなかった。でも、死ぬつもりはなかったのよ。彰とお父さんを置いていくのが心残りで、お母さん、死んだあともずっとこの場所に立っていたんだから。彰とお父さんがお花を供えに来てくれていたのを見ていたのよ。でも、こんな姿になっちゃったから話しかけることもできず、ここから動くこともできなくて。それで、迎え猫様が私を迎えに来てくれたの」
この場所に母さんがずっといたなんて知らなかった。
「強い後悔があると、あの世にはいけないんですって。それで迎え猫様の体をお借りして、彰に会いに行ったの。お母さん安心したわ。彰はもう一人で大丈夫ね。大人になったのね」
母さんが穏やかな顔で微笑んだ。
「勝手に子離れするなよ。父さんはどうするんだよ。母さんのこと今でも想っているんだぞ」
「お父さんには、さっきさよならを言ったから大丈夫よ。彰をよろしくねって頼んでおいたから」
供えられた新しい花を見てハッとした。
「ここで父さんに会ったのか?」
「うん。彰が誕生日ケーキ用意しているって伝えたら、嬉しそうな顔をしてたよ」
なんだよ。父さん。母さんから先に聞いていたのかよ。知らないふりしやがって。
「彰、いい子に育ってくれてありがとう」
目頭が熱くなる。泣くものかと思っていたが、涙が滲んだ。
これで本当に最後なのか?
「私、口うるさくて、あまりいいお母さんじゃなくてごめんね」
「何言ってんだよ。毎年誕生日ケーキを焼いてくれる母さんがいいお母さんじゃないわけないだろ。俺が小四でいじめられていた時も、庇ってくれたじゃないか。彰のお母さんスゲーって友達に言われたんだから。俺も母さんのこと凄いと思ったよ」
「……彰」
母さんの目が涙ぐむ。
小さい頃から今までのことが蘇る。幼稚園の運動会で母さんが作ってくれた豪華な弁当が美味かった。小学校の授業参観に母さんが来てくれるのが嬉しかった。中学生になった頃からよくケンカするようになったけど、どんなに怒っていても母さんは次の日はケロッとしていて、ほっとした。高校生になってからはあまり口をきかなかったけど、毎朝持たせてくれる母さんの弁当がありがたかった。
「母さん、俺、俺……」
伝えたいことは沢山さんあるのに、気持ちが溢れて声が詰まる。
「うん。彰、わかってるよ」
涙をぬぐった母さんが微笑んだ。
「最後に彰に誕生日ケーキの作り方を教えられて良かった。彰、食べたかったんでしょ?」
「父さんの為に作ったんじゃないのかよ」
「それもあるけど、一番は彰が食べたがっていたから。これで私の味を継承出来たわね。彰も大切な人に作ってあげなさい」
「うん」
「じゃあ、そろそろ行くね」
母さんが白猫の方に歩き出す。
思わず母さんの手を掴もうとしたら、俺の手は素通りした。母さんがもうこの世の人ではないことを実感して胸がつまる。
「母さん……」
母さんが寂しそうに微笑んだ。
「私、彰のお母さんで幸せだったよ」
「俺も、母さんの息子で幸せだった」
俺の言葉を聞くと母さんは泣きながら笑った。
母さんの体がどんどん透明になっていく。そしてあっという間に消えた。
「母さん!」
母さんがいた場所に向かって叫ぶがもう母さんの声は返って来なかった。
「心配するな。小野原美和はちゃんと旅立った」
白猫が俺に言った。
いつの間にか空が茜色に染まっていた。綺麗な夕焼けを見て、母さんがそこにいる気がした。
