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「だから、ちがうにゃー! もっと空気を含ませるにゃ!」

 キッチンの出窓に座って、俺を見下ろす白猫が苛立ったように声を荒げた。

「言われた通りやってんだろう!」

 エプロン姿の俺は左手にボウルを持ち、右手のハンドミキサーでボウルの中の卵と砂糖を混ぜている所だ。
 母さんのレシピノートを見ながらケーキを作り始めたが、白猫の指示が細かくて、苛々が募る。それに言い方が癪に障る。

「彰は全然わかってない!」

 カチンと来た。

「はあ? 教え方が悪いんだろ。だいたい俺は初めて作るんだぞ。母さんみたいに手際よく出来る訳ないだろう。少し妥協しろよ」
「彰にちゃんと伝えたいのよ。あのね、空気を入れるって言うのは」

 母さんが身振り手振りで説明を始める。小さな体が人間のように動く姿を見て、母さんが必死になっている気がした。なぜそこまで必死になるのだろう? そんなにケーキ作りには想いが深かったのか?

 母さんの説明を聞きながら、ハンドミキサーを使う母さんの姿を何とか記憶から呼び起こす。いつもコタツに頭を突っ込んでいたから、混ぜている時は見ていなかったが、生地がどんな風になったら完成かは見ていた。もったりとしたあの状態になるように混ぜればいいのか。

 完成形が見え、俺は母さんの説明の途中で再びハンドミキサーの電源を入れ、中速で生地を混ぜ始める。
 母さんが教えてくれた向きで泡立てると、さっきよりも空気が入り、生地の全体が白っぽくもったりしていく。

「そうにゃ、そうにゃ」

 ボウルの中を覗く白猫が嬉しそうに頷いた。
 どうやら正解の混ぜ方のようだ。

「これで、8の字を書いて、生地が沈まなければいいんだよな」
「そうにゃ」

 十分ほど泡立て、ハンドミキサーを止める。
 そして、泡立て部でボウルの中の生地をすくって、生地の上で8の字を書くと、ちゃんと跡が残る。

「これでいいのか?」
「いいにゃ」

 次にあらかじめふるっておいた小麦粉を三回に分けてゴムベラで生地に混ぜる。

「泡を潰さないように、ボウルの底からすくい上げるように混ぜるんだよな」

 レシピノートにそう書いてあった。

「そうにゃ」

 白猫が頷き、俺は小麦粉を慎重に入れながら、ゴムベラで混ぜた。

「もっと手早くにゃ!」

 慣れない動作にノロノロと作業をしていたら、白猫の注意が入った。

「ボウルは回すにゃ、あーだから」

 また白猫が口うるさくいろいろ言ってくる。

「やってるだろ! 黙って見てろ。生地を混ぜる所は見てたから知ってるんだ」

 ハンドミキサーが終わった後の作業は全部見ていた。ボウルをくるくると回しながら、小麦粉と生地を混ぜ合わせる鮮やかな母さんの手つきを見て、子どもだった俺は凄いと思っていた。
 だから頭の中にちゃんと生地を混ぜ合わせるイメージがある。
 白猫はぴたりと黙り、俺の作業を見ていた。

「よし、出来た」

 最後に溶かしバターを全体に混ぜて生地が完成した。そして完成した生地をボウルから型に流し込み、180度の予熱にしておいたオーブンに入れて三十分焼く。そこまでの作業が終わり、ほっと息をつくと、白猫が泣いていた。
 それを見てぎょっとする。
 俺は強く言い過ぎたのか。高三のあの夜のように。

『俺、18だよ。もうケーキで喜ぶ年じゃないし。いい加減子離れしたら?』

 鳩尾の辺りがひんやりと冷たくなる。傷つけたのなら早く謝らなければ。同じことを繰り返したくない。

「母さん、あの」
「彰、すごいね。一人でケーキ作れるんだね」

 鼻をズズーッと啜った白猫が前脚で涙を拭いながら言った。

「お母さん、感動した」

 そっちの涙だったか。

「これぐらい出来るよ。俺、もう十九だよ」
「そうだね。お母さん、いい加減、子離れしないとだね」

 返って来た言葉に喉が締め付けられた。

「母さん、気にしてたの?」
「ちょっとはね。でも、彰の言う通りよ。お母さん、ずっと彰のことを子ども扱いしてて、いろいろうるさかったわよね。彰に言われて反省したのよ」

 まさか母さんがそんな風に思っているとは思わず戸惑う。でも、ここは素直にならないといけない所だ。

「俺もごめん。せっかく作ってくれたのにケーキいらないだなんて酷いこと言って。母さんのケーキが食べられなくなって、どんなに自分が恵まれた環境にいたか思い知ったよ。彼女にも言われたんだ。誕生日ケーキを毎年焼くなんて、いいお母さんねって。俺のことを大切に育てたんだねって」

 言葉にしながら涙が零れた。
 母さんが亡くなった後に大事に想われていたことに気づくなんて、俺は大バカだ。

「俺、いつも母さんに反発してばかりで、いい息子じゃなかったけど、母さんのこと、大好きだから」

 また涙が零れた。

「彰……泣かせないでよ……」

 母さんも泣いていた。

「ところで彰、彼女いたのね」

 前脚で涙を拭うと、白猫が興味深そうに尻尾を振る。
 しまった。勢いでつい余計なことを……。

「まあ」
「どんな子? 写真は? 可愛い?」

 キラキラと輝いた金色の目を見て笑いそうになった。そんなに食いつかなくてもいいのに。でも、母さんらしい。
 俺はケーキが焼き上がるまで、美咲の話をした。同じ高校で、今は違う大学に通っていて、母さんが亡くなってから美咲に支えてもらったことなどをポツリポツリと話した。

「いい子ね」

 白猫がそう言った時、ピーという音がオーブンからした。ケーキが焼き上がったんだ。
 俺は少し緊張しながらオーブンの扉を開けた。甘い玉子の匂いが溢れていた。両手にミトンをつけて、角皿の上のケーキの型を取り出した。

「嘘だろ」

 キッチンカウンターの上に置いたケーキを見て、愕然とする。あんなに頑張って泡立てたのに、全然ケーキが膨らんでいない。型から取り出すとペチャンコだった。

「最初はこんなもんよ」

 落ち込んでいる俺の肩を慰めるようにキッチンカウンターに乗った白猫が前脚でポンポンと叩く。

「でも、彰が初めて作ったケーキだから、お父さんも喜んでくれるにゃ」

 その言葉を聞いて闘志が湧く。冗談じゃない。こんなペチャンコのケーキを出すものか。母さんのケーキのようにふっくらしたのを焼くんだ。
 俺は無言で冷蔵庫から卵三つと、バターを取り出した。
 そして、ケーキの型に新しいクッキングシートを敷く。オーブンは予熱180度。後は小麦粉とグラニュー糖とバターを計り、ふるいで小麦粉をふるう。これで準備万端だ。

「彰、また作るにゃ?」

 俺の様子を見ていた白猫が金色の目をパチパチと瞬きさせながら聞く。

「当たり前だ。こんな失敗作出せるか」

 俺はもう一度ケーキを作り直した。