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 目を開けると、和室の天井が見えた。そしてキッチンの方から「ギャー!」という悲鳴が聞こえた。
 何事かと思い、飛び起きて隣のリビングを通ってダイニングキッチンに行った。
 するとキッチンの床は銀色のボウルが転がっていた。それだけではなく割れた卵が三個冷蔵庫の前で落ちている。隣の食品棚の前では小麦粉の袋が破けて中身のほとんどが床に散乱していた。

 昨日買ったばかりの卵と小麦粉が台無しだ。今夜お好み焼きを作ろうと思っていたのに。あーもう、こんな状態じゃ、夕食の準備もできやしない。全く余計なことをしやがって。
 俺はキッチンカウンターの上に四つ脚で立つ白猫を睨んだ。犯人はどう考えてもあいつだ。

「お前、何やってんだよ!」

 白猫が両耳を伏せ、ビクッと体を後ろに引く。

「……彰、ごめんなさい」

 白猫はまた人間の言葉を話している。
 頭が痛くなりそうだ。

「あのね、ケーキを作ろうと思って……」

 白い体をびくびくさせて白猫は俺を見た。

「ケーキ?」
「もうすぐお父さんの誕生日でしょ?」

 父の誕生日は来週だが、家に帰ってくる予定はない。

「父さんは単身赴任中だから、ここには帰って来ないよ」
「それは大丈夫。呼んだから」
「呼んだ?」

 訳が分からず眉を寄せた時、ジーンズのポケットに入れたままだったスマホが鳴った。
 父さんからのメッセージだ。

【明日帰るからよろしく】

「はあ?」

 急な展開に眉が上がる。
 父は母の一周忌法要の為に一昨日帰って来て、昨日の朝、単身赴任中の仙台に戻ったばかりで、当分帰ってくる予定はなかった。なぜ急に帰って来ることになったのだろう? まさか本当に母さんが呼んだのか? でも、どうやって?

 白猫をじっと見ると、「お父さん帰って来るの?」と嬉しそうに聞かれた。
 スマホを見せると、白猫が金色の目をキラキラと輝かせ俺に向かってダイブした。そして俺の肩に乗り、カギ尻尾をぶんぶん揺らす。顔の前でしっぽを振るので鬱陶しい。

「お父さんに会える! お父さんに会える!」

 肩の上ではしゃぐ白猫が邪魔くさい。しかし、その姿が生前の母さんを思い出させる。母さんはいつも父さんが帰って来ると玄関まで出迎えて、大はしゃぎだった。小学生くらいまでは俺も母さんと一緒に父さんが帰ってくると玄関まで走って出迎えたが、中学生でやめた。俺がやめた後も母さんは父さんが帰ってくるといつも玄関に走って行って、ぴょんぴょん飛び跳ねながら父さんに抱き着いていた。新婚かよってツッコミを何度入れたことか。だから俺が高三の時に決まった父さんの転勤に母さんも付いていくかと思っていた。母さんがこの家に俺と残ったのは意外だった。

「彰、お父さんの誕生日ケーキを作るにゃ!」

 白猫が前脚で俺の頭を叩きながら言った。

「はあ? ケーキ?」
「ケーキにゃ。レシピはあそこにゃ」

 白猫がポンと俺の肩から食器棚に飛び移り、引き出しを前脚でガシガシと引っかき始める。

「彰、開けるにゃ」

 どうやら前脚では引き出しを開けられないらしい。
 しかし、その前にこの惨状を何とかしなければ。

「その前に片付けだろ。どうすんだこれ!」

 卵と小麦粉で汚れた床を見てため息が出る。

「……ごめんにゃ」

 白猫が申し訳なさそうに小さな頭をコクリと下げる。

「反省している?」
「はい」

 白猫が頷く。
 素直な白猫に笑いそうになった。母さんは俺に簡単に謝る人じゃなかった。

「わかった。じゃあ、もう勝手にキッチンは荒らすなよ」
「はい」
「片付けるか」
「手伝うにゃ」

 食器棚からキッチンカウンターに飛び乗った白猫がキッチンペーパーを咥えて運び、俺に差し出す。それを受け取り、俺は床掃除を始めた。白猫も前脚を手のようしてキッチンペーパーで床を拭き始めた。その光景がかわいいので、噴き出しそうになった。絶対に普通の猫はこんなことをしない。本当に白猫は母さんかもしれない。

「卵、よく冷蔵庫から出せたな」

 砕けた卵の殻と、潰れた卵黄と卵白を見て改めて思った。

「そこは何とか頑張って」

 隣から小さな声が返ってくる。

「小麦粉はなんで破れているんだよ」
「爪が引っかかって。まだ猫の体に慣れてないから」
「ボウルもよく吊戸棚から出したな」
「口で咥えたんだけど、予想以上に重くて」

 白猫の話を聞きながら、大体想像出来た。まずは冷蔵庫の隣のシンクに飛び乗って、隣の冷蔵庫の扉の隙間に前脚か顔でも突っ込んで開けたのだろう。だが、猫の前脚では卵が掴めず、床に落とした。そして次に食品棚から取り出した小麦粉を爪で破き、床が小麦粉だらけになった。最後はボウルを吊戸棚から取り出して床に落とした。大きな音がしたのは、その時のだろう。

「卵三個無駄になったな」
「……ごめんなさい」

 卵を拭きとった後の床をウェットティッシュで拭きながら白猫がしょんぼりする。その姿がやっぱり可愛いから困る。母さんの姿だったら絶対にそんなこと思わないのに。

「後は俺が掃除するから、とりあえず邪魔にならない所に行ってろ」

 そう指示を出すと、「ごめんにゃ」と言って、白猫はキッチンから出て行く。尻尾をしょんぼりと下げた後ろ姿にちょっと笑いながら俺は散乱した小麦粉を掃除機で吸い取ってから、最後に雑巾でキッチンの床を拭いた。作業に一時間近くかかったが、何とか綺麗になった。

 さっき白猫が前脚で引っかいていた食器棚の引き出しを開けると、そこにはB5サイズのノートが仕舞ってあった。表紙には母さんの字で【レシピ】と書いてあり、中はびっしりと料理のレシピが書いてある。

 生活に必要な所以外は全く触れなかったので、母さんのレシピノートがあったことは知らなかった。一年以上このノートは引き出しに仕舞ってあったのかと思ったら、妙に寂しくなった。

「彰!」

 急に白猫に話しかけられ、俺は咄嗟にレシピを後ろ手に隠した。

「何だよ」
「洗濯物入れた?」

 白猫の質問にハッとした。そうだった。まだ洗濯物を取り込んでいない。
 外を見ると真っ暗だ。もうすぐ七時になる所だった。きっと洗濯物は冷たくなっているだろう。
 俺は白猫には何も言わずレシピノートをキッチンカウンターに置いて、二階に向かった。俺の後を小さな足音が追いかけてくる。

 窓を開けると、白猫がベランダに勢いよく飛び出すが、洗濯物を取り込むのに特に役に立たなかった。猫の体では仕方ないと思うが、本人は何も出来なかったことに落ち込んでいるようだった。そんな白猫を見てふと思ったが、何だか猫の体に慣れてないような気がした。