*
「彰、三歳の誕生日おめでとう」
母さんが俺の前に置いたのは苺のホールケーキだった。真ん中にはチョコレートのネームプレートがあり、母さんの字で【あきら3才おめでとう!】と書いてある。
「さあ、お誕生日の歌、歌いましょう」
母さんが父さんに言う。それから二人が手拍子を始め、「ハッピーバースデートゥーユー♪」と歌い始めた。いつもの誕生日の光景だった。
歌い終わると俺はローソクの火を吹き消す。上手く吹き消せると父さんも母さんも喜んでくれるから、その瞬間が好きだ。
「わー上手に消せたねー」
母さんがはしゃいだ声で言った。
「あきら、一つお兄ちゃんになったな」
父が誇らしげな顔で俺を見る。
俺は嬉しくて「うん」と頷いた。それから、母さんがケーキを切り分けてくれて、玉子の味がしっかりするふわふわのケーキを食べた。母さんのケーキには苺と白桃と蜜柑が挟まっていて、その組み合せが好きだったとケーキを食べながら思い出した。
「あきら、美味しい?」
母さんに聞かれて、俺は笑顔で頷いた。
「うん、ママのケーキおいしい!」
声変わり前の幼い声がそう言った。
こんなに素直に感情を表現できる自分に驚いた。
「じゃあ、来年もあきらの誕生日に作るね」
「うん、ずっとずっとママのケーキがいい」
自分の言葉にハッとした。
俺は自分で誕生日ケーキのリクエストをしていたのか。だから母さんはずっとケーキを作り続けたのか?
「あきらが大人になるまで作るね」
母さんの言葉を聞いて、不覚にも泣きそうになる。なんだこの胸が締め付けられるような感情は。俺は18歳になったあの日、誕生日ケーキはもういらないと言ったことを後悔しているのか?
思えば高三の受験生だった俺は心に余裕がなかった。だから、母さんの言葉がいちいち癪に障った。『いつ帰ってくるの?』『勉強しているの?』『模試の結果はどう?』それらの言葉にいつも必要以上に腹を立てていた。今思うと母さんは当たり前のことを聞いていたのに。ケーキのことだって、腹を立てる程のことじゃなかった。ケーキ屋のケーキを食べる機会がなかったことくらい大したことじゃない。なのに俺はあの日……。
「遅かったわね。遅くなるなら連絡ぐらいしてよ」
普段より二時間遅く帰宅した俺に母さんは苛立ったように言った。もうその態度からして嫌だった。それから母さんは二階の自室に行こうとする俺を呼び止め、ダイニングテーブル前に座らせた。
母さんが冷蔵庫から取り出したのは誕生日ケーキだった。
「じゃーん! 今年も作ったわよ!」
そう言ってテーブルの上に母さんはケーキを置いた。いつもの苺のホールケーキでチョコレートのネームプレートには【あきら18才おめでとう!】と書いてあった。
ケーキにはしゃぐ母さんがうざかったし、いつまでも子ども扱いをされているようで腹が立った。
「あのさ、俺もう18なんだよ。そういうの、もういいんだけど」
ローソクに火をつけようとした母さんが「えっ」と驚いたように顔を上げ、俺を見た。
「もういいって何?」
「だから、それ」
俺は忌まわしいものでも見るような視線を誕生日ケーキに向けた。
「手作りの誕生日ケーキとかって、うざいし。なんか愛情の押し売りって感じがする」
「はあ?」
母さんの声も眉も険しくなった。
言い過ぎたと少しだけ思ったが、日ごろの鬱憤が溜まっていたので、止まらなかった。
「俺、18だよ。もうケーキで喜ぶ年じゃないし。いい加減子離れしたら?」
いつもはやかましく言い返してくる母さんはその時は珍しく黙っていた。きっと何か反論してくるだろうと身構えていたら、洟を啜る音がしてドキリとした。まさか泣いているのか? そう思ったら、母さんは怒った声で言い返した。
「わかったわ。もう作らないから」
母さんは勢いよくケーキを掴むと、冷蔵庫に仕舞い、怒りをぶつけるように冷蔵庫の扉を強く締めた。パタンっと閉まった音が怒っていることを宣言しているようだった。それからドスドスと足音を立てて母さんはキッチンを出て行った。その態度にやっぱり腹が立った。
翌日は母さんと顔を合わせるのが気まずくて、普段より一時間早く家を出た。
母さんはいつものようにキッチンで俺の弁当を作っていたようだったが、俺は何も言わず家を出た。
【早く出るなら前日に伝えてよ。お弁当間に合わなかったじゃない】
電車に乗っている時に母さんからメッセージが送られて来たが、無視した。
しかし、今思うと幼稚な態度だった。どうして俺は素直にごめんが言えなかったんだろう。母さんは俺の為にケーキを作ってくれて、弁当まで作ってくれていたのに。
母さんがいない一年を過ごして、家事がどんなに大変か身に沁みた。毎日当たり前のように食事が用意されていたこと、洗濯された清潔な服があること、冷蔵庫の中に食料があること。それがどんなにありがたいことだったか俺はようやくわかった。それに誕生日ケーキも……。あの味は母さんじゃないと出せない。市販のケーキじゃダメなんだ。
俺は母さんのケーキが食べたかったんだ。三歳になった体でケーキを食べながらそう思った。
「ママ、ケーキ美味しいよ」
三歳の俺はそう言って、涙を流した。
「あきら、どうして泣いているの」
母さんが心配そうに俺を見る。優しい目だ。その目を見て、白猫が俺を見る目と似ていると思った。今日会ったばかりの白猫を家にいれたのは、優しい目で俺を見ていたからだ。猫の目と人間の目は違うのに、なぜか目の前の母さんの目と重なる。
「ママ、ボクを置いていかないで。どこにもいかないで」
三歳の俺は母さんに抱き着いた。
これが夢だとわかるから離れたくない。
目が覚めたら母さんはいない。誕生日ケーキもない。一人でいる現実が待っているだけだ。そんなの寂し過ぎる。
「あきらの側にずっといるわよ」
母さんが俺の頭を優しく撫でる。俺は甘えるように母さんにぎゅっとくっついた。幸せな夢だ。しかし、なんで俺は三歳の頃の夢を見ているのだろう。そう思った時、大きな物音がして、目を覚ました。
「彰、三歳の誕生日おめでとう」
母さんが俺の前に置いたのは苺のホールケーキだった。真ん中にはチョコレートのネームプレートがあり、母さんの字で【あきら3才おめでとう!】と書いてある。
「さあ、お誕生日の歌、歌いましょう」
母さんが父さんに言う。それから二人が手拍子を始め、「ハッピーバースデートゥーユー♪」と歌い始めた。いつもの誕生日の光景だった。
歌い終わると俺はローソクの火を吹き消す。上手く吹き消せると父さんも母さんも喜んでくれるから、その瞬間が好きだ。
「わー上手に消せたねー」
母さんがはしゃいだ声で言った。
「あきら、一つお兄ちゃんになったな」
父が誇らしげな顔で俺を見る。
俺は嬉しくて「うん」と頷いた。それから、母さんがケーキを切り分けてくれて、玉子の味がしっかりするふわふわのケーキを食べた。母さんのケーキには苺と白桃と蜜柑が挟まっていて、その組み合せが好きだったとケーキを食べながら思い出した。
「あきら、美味しい?」
母さんに聞かれて、俺は笑顔で頷いた。
「うん、ママのケーキおいしい!」
声変わり前の幼い声がそう言った。
こんなに素直に感情を表現できる自分に驚いた。
「じゃあ、来年もあきらの誕生日に作るね」
「うん、ずっとずっとママのケーキがいい」
自分の言葉にハッとした。
俺は自分で誕生日ケーキのリクエストをしていたのか。だから母さんはずっとケーキを作り続けたのか?
「あきらが大人になるまで作るね」
母さんの言葉を聞いて、不覚にも泣きそうになる。なんだこの胸が締め付けられるような感情は。俺は18歳になったあの日、誕生日ケーキはもういらないと言ったことを後悔しているのか?
思えば高三の受験生だった俺は心に余裕がなかった。だから、母さんの言葉がいちいち癪に障った。『いつ帰ってくるの?』『勉強しているの?』『模試の結果はどう?』それらの言葉にいつも必要以上に腹を立てていた。今思うと母さんは当たり前のことを聞いていたのに。ケーキのことだって、腹を立てる程のことじゃなかった。ケーキ屋のケーキを食べる機会がなかったことくらい大したことじゃない。なのに俺はあの日……。
「遅かったわね。遅くなるなら連絡ぐらいしてよ」
普段より二時間遅く帰宅した俺に母さんは苛立ったように言った。もうその態度からして嫌だった。それから母さんは二階の自室に行こうとする俺を呼び止め、ダイニングテーブル前に座らせた。
母さんが冷蔵庫から取り出したのは誕生日ケーキだった。
「じゃーん! 今年も作ったわよ!」
そう言ってテーブルの上に母さんはケーキを置いた。いつもの苺のホールケーキでチョコレートのネームプレートには【あきら18才おめでとう!】と書いてあった。
ケーキにはしゃぐ母さんがうざかったし、いつまでも子ども扱いをされているようで腹が立った。
「あのさ、俺もう18なんだよ。そういうの、もういいんだけど」
ローソクに火をつけようとした母さんが「えっ」と驚いたように顔を上げ、俺を見た。
「もういいって何?」
「だから、それ」
俺は忌まわしいものでも見るような視線を誕生日ケーキに向けた。
「手作りの誕生日ケーキとかって、うざいし。なんか愛情の押し売りって感じがする」
「はあ?」
母さんの声も眉も険しくなった。
言い過ぎたと少しだけ思ったが、日ごろの鬱憤が溜まっていたので、止まらなかった。
「俺、18だよ。もうケーキで喜ぶ年じゃないし。いい加減子離れしたら?」
いつもはやかましく言い返してくる母さんはその時は珍しく黙っていた。きっと何か反論してくるだろうと身構えていたら、洟を啜る音がしてドキリとした。まさか泣いているのか? そう思ったら、母さんは怒った声で言い返した。
「わかったわ。もう作らないから」
母さんは勢いよくケーキを掴むと、冷蔵庫に仕舞い、怒りをぶつけるように冷蔵庫の扉を強く締めた。パタンっと閉まった音が怒っていることを宣言しているようだった。それからドスドスと足音を立てて母さんはキッチンを出て行った。その態度にやっぱり腹が立った。
翌日は母さんと顔を合わせるのが気まずくて、普段より一時間早く家を出た。
母さんはいつものようにキッチンで俺の弁当を作っていたようだったが、俺は何も言わず家を出た。
【早く出るなら前日に伝えてよ。お弁当間に合わなかったじゃない】
電車に乗っている時に母さんからメッセージが送られて来たが、無視した。
しかし、今思うと幼稚な態度だった。どうして俺は素直にごめんが言えなかったんだろう。母さんは俺の為にケーキを作ってくれて、弁当まで作ってくれていたのに。
母さんがいない一年を過ごして、家事がどんなに大変か身に沁みた。毎日当たり前のように食事が用意されていたこと、洗濯された清潔な服があること、冷蔵庫の中に食料があること。それがどんなにありがたいことだったか俺はようやくわかった。それに誕生日ケーキも……。あの味は母さんじゃないと出せない。市販のケーキじゃダメなんだ。
俺は母さんのケーキが食べたかったんだ。三歳になった体でケーキを食べながらそう思った。
「ママ、ケーキ美味しいよ」
三歳の俺はそう言って、涙を流した。
「あきら、どうして泣いているの」
母さんが心配そうに俺を見る。優しい目だ。その目を見て、白猫が俺を見る目と似ていると思った。今日会ったばかりの白猫を家にいれたのは、優しい目で俺を見ていたからだ。猫の目と人間の目は違うのに、なぜか目の前の母さんの目と重なる。
「ママ、ボクを置いていかないで。どこにもいかないで」
三歳の俺は母さんに抱き着いた。
これが夢だとわかるから離れたくない。
目が覚めたら母さんはいない。誕生日ケーキもない。一人でいる現実が待っているだけだ。そんなの寂し過ぎる。
「あきらの側にずっといるわよ」
母さんが俺の頭を優しく撫でる。俺は甘えるように母さんにぎゅっとくっついた。幸せな夢だ。しかし、なんで俺は三歳の頃の夢を見ているのだろう。そう思った時、大きな物音がして、目を覚ました。
