「だから、ちがうにゃー! もっと空気を含ませるにゃ!」

 キッチンの出窓に座って、俺を見下ろす白猫が苛立ったように声を荒げる。興奮すると語尾に「にゃ」と付くのは猫だからだろうか。

「言われた通りやってんだろう!」

 俺は左手にボウルを持ち、右手のハンドミキサーでボウルの中の卵と砂糖を混ぜている所だ。この生地は父の誕生日ケーキになる予定だが、白猫に幾度もダメ出しをされて、もうキレそうだ。なんだって俺がケーキを作らなきゃいけないんだ。

「そんなに文句言うなら自分で作れよ!」
(あきら)、言っちゃいけないこと言ったにゃ! 私だって自分で作りたいにゃ。でも、もう私には……」

 声を詰まらせると、白猫が悲しそうに俯く。その姿はまるで人間のようだ。未だに白猫の中に母さんが入っていると言われて信じられないが、口うるさい所や、こだわりが強い所がそっくりでうんざりする。

「わかったよ。空気を含ませる感じやればいいんだろ」

 俺は再びハンドミキサーの電源を入れ、中速で卵液をかき混ぜる。
 ブゥゥーンという騒がしい音にキッチンが包まれる。電気ドリルのようなこの音が子どもの頃は苦手で、母さんがケーキ作りを始めると、コタツに頭から潜って耳を塞いでいた。母さんがケーキを作るのは十一月の俺の誕生日と、十二月の父さんの誕生日とクリスマスだったから、コタツも必ず出ていて、いい避難場所だった。

 でも、ケーキ作りが嫌ではなかった。生地がふっくらと焼き上がっていく様子をオーブン越しに見たり、生地が焼ける甘い玉子の匂いを嗅ぐのが好きで、ケーキが焼き上がるのが楽しみだった。それは当たり前のことだと思っていたが、違うと知ったのは高校生になってからだった。

 俺の彼女――美咲(みさき)が誕生日ケーキはケーキ屋で予約して買うものだと教えてくれた。そして美咲と付き合い始めた18歳の誕生日に美咲にケーキ屋で買ってもらった苺のショートケーキを食べたが、母の作るケーキよりも甘くて、濃い味で衝撃を受けた。正直言って、あまり美味しくなかった。見映えはケーキ屋のケーキの方がいいのだが、味が全然好みじゃなかった。母のケーキは甘さ控えめだし、玉子のいい匂いがする。生クリームも滑らかだし、甘すぎない。

 俺の隣で「ケーキって幸せな味だよね」と嬉しそうに食べている美咲に、俺は、曖昧に微笑むくらいしかできなかった。美咲が言う幸せな味が不味く感じるのは、母のせいだと思った。子どもの頃からケーキ屋のケーキを出してくれれば、こんな気まずい想いはしなかった。何だか母が恨めしかった。

 その夜、帰宅すると当然のように母手作りの俺の誕生日ケーキが用意されていたが、俺はハッキリといらないと断った。そして母はその次の日、交通事故で亡くなった。冷蔵庫に残されたままの誕生日ケーキが俺への当てつけのように思えて仕方なかった。なんでこんなタイミングで死ぬんだよと怒りでいっぱいだった。そして一年が過ぎ、大学生になった俺の前に母だと名乗る白猫が現れた。

 白猫は家の門の前でちょこんと座っていた。夕方だった。洗濯物を取り込んで今日はちゃんと夕飯を作ろうと思いながら駅から自宅まで歩いて来た所だった。家は住宅街にある二階建ての一軒家だった。
 門の前に猫がいると思った時、白猫は金色の目で俺を見ると立ち上がり駆け寄って来た。毛足は短く、全身が真っ白で、小さいから子猫に見えた。

 白猫は俺の側までくると、「にゃー」と可愛らしい声でひと鳴きした。そして俺の足元に体をすりすりと擦らせてくる。その仕草が可愛くて、俺はつい白猫に気を許した。

 しゃがんで白猫の頭を撫でてやると、白猫は甘えるように小さな頭で俺の手をスリスリと擦ってくる。なんて可愛らしいんだと思った。すっかり心を掴まれた俺は白猫を抱き上げ、頭を撫でた。ゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らす姿に、白猫も俺に気を許しているのだと思った。抱っこしたら離れがたくなり、首輪もないことだし、家の中に連れて帰ることにした。

 正直に言うと誰もいない家に帰るのは少し寂しかった。父さんは単身赴任中でいないし、4LDKの家は一人で住むには広すぎる。
 俺は猫を胸に抱いたまま家の中に入った。すると白猫は玄関に入るなり、俺の腕からぴょんと飛び降りて、勝手に廊下を進む。

「おい、勝手にあちこち行くなよ」

 白猫に声を掛けるが、俺の言葉を無視するように奥の和室に入り、仏壇の前で立ち止まった。仏壇には母の写真と位牌が置いてあった。白猫は何だか悲しそうに仏壇を見上げていた。

「こっちの部屋はダメだ」

 仏壇の部屋は父の部屋だった。
 父は母が亡くなってから一階の和室で寝るようになった。

「ほら、行くぞ」
 
 白猫を抱き上げようとすると、サッと俺の手を避けた。そして、白猫は小さくため息をつくと、「なんでこの写真なのよ」と不満そうに言った。

 人間の言葉を話したように聞こえ、我が耳を疑った。

「これって、彰の高校の入学式の時の写真じゃない。私、この写真あまり好きじゃないのよね。もっと美人に写っているのにしてよ」

 白猫はそう言うと、金色の目で不満そうに俺を見た。
 驚き過ぎて俺の体が固まる。

 気のせいじゃない。やっぱり人間の言葉を話している。ちょっと待て。猫は人間の言葉が話せるのか? いや、それよりも、こいつ、俺の名前を口にしたよな?

「ちょっと、彰聞いてる?」

 黙ったままの俺に白猫がさらに言ってくる。
 また俺の名前を言った。なんで知っているんだ!

「お前、人間の言葉が喋れるのか?」

 白猫が俺を見上げ、先端が曲がったカギ尻尾を得意げに揺らす。

「お前じゃないわよ。彰のお母さんよ」

 俺は両目を大きく見開いた。

「何言ってんだよ。母さんは一年前に亡くなったんだ」
「そんなこと言われても、お母さんだもん」

 このムカつく感じは母さんぽいが、はいそうですかと、簡単には信じられない。

「じゃあ、証拠は?」
「あんた面倒くさいこと言うのね。証拠ね……結婚記念日は12月1日、お父さんの誕生日は12月2日。彰の誕生日は11月25日。私の誕生日は5月15日」

 全部当たっているが、それぐらい調べればわかる。

「他に証拠は?」
「えーまだやるの? ここは感動してお母さん!って涙目で抱き着く所じゃないの?」
「なんでだよ」
「だってこんなに可愛らしい姿になって戻って来たのよ。お父さんだったらすぐに抱きしめてくれると思うけどな」

 白猫は小首を傾げ、自分の可愛らしさを自慢するように左前脚を顔の横でくいっと振ってみせる。中身が母さんだと思うと微妙だ。しかし、父さんなら喜んで白猫になった母さんを受け入れそうだ。単身赴任先まで連れて行く可能性もある。それぐらい二人は仲が良かった。

「彰はお母さんが帰って来て嬉しくないの?」
「えっ」
「さっきから迷惑そうに見えるから」

 不安そうに視線を落とした白猫を見て、忘れていた複雑な気持ちが込み上げてくる。

「勝手に俺の誕生日の翌日に交通事故で亡くなっといてよく言うよ。なんだよ、冷蔵庫の誕生日ケーキは? いらないって言った俺への当てつけか? この一年、俺がどんな想いでいたかわかるか?」
「ふにゃー」

 睨むと、白猫が小さな口を開けて、あくびをした。いきなり仏壇の前の座布団の上で寝転がる。

「おい。聞いてるのか?」
「眠い」

 白猫は金色の目を閉じた。すぐにスースーという寝息が聞こえてくる。
 あまりの自由さに苦笑いが浮かんだ。

「人の話を最後まで聞かない所は母さんにそっくりだな」

 座布団の近くに腰を下ろし、白猫を見た。右側を下にして横向きの姿勢で前脚と後ろ脚を伸ばして眠る緩い姿はどう見ても猫だ。いきなり人間の言葉を喋って母さんだと言われても簡単には納得できない。それに死者が蘇るなんて……。一年経って猫に生まれ変わったのか? いや、ありえない。そんなの空想の世界の出来事だ。これは現実だぞ。それになんで猫なんだ? 人間が猫になるなんて変だろう。そんなことを考えながら、無意識に猫の背中に手が伸びる。撫でるとふわふわで柔らかな背中が心地良かった。それに温かい。触れているのが心地よくて何度も撫でた。中身は口うるさい母さんだとしても寝ている姿は可愛い。

 白猫に触れていると、だんだん眠くなる。洗濯物を取り込んで夕飯の準備をしなきゃいけないと思うのに、白猫の側から離れられない。ゴロンと畳に寝転がり目を閉じると俺はあっという間に意識を失った。