五月雨の贈り物

引っ越しの日は、七月の初めだった。
梅雨が明けようとしている、そんな時期。
朝から、空は晴れていた。久しぶりに見る青空だった。
引っ越し業者の方が来て、荷物を運び出していく。
つゆはキャリーケースの中で、少し不安そうに鳴いていた。

「大丈夫だよ、つゆ。すぐ新しいおうちに着くからね」

優しく声をかけながら、私も最後の荷物をまとめた。
新しいアパートは、前のところよりずっと明るかった。
南向きの窓からは、たっぷりと日差しが入ってくる。
リビングも広く、つゆが走り回るのに十分なスペースがあった。

「ほら、つゆ。新しいおうちだよ」

キャリーケースを開けると、つゆは恐る恐る出てきた。
周りをきょろきょろと見回して、慎重に部屋を歩き始める。
窓際に行って、外を見る。カーテンの陰に隠れてみる。リビングを一周して、キッチンを覗いてみる。
その様子を見ながら、私は笑ってしまった。

「気に入った?」

つゆは、こちらを振り返って「みゃあ」と鳴いた。
それは、まるで「うん」と言っているようだった。
荷解きを始めると、つゆは段ボール箱に興味津々だった。
箱の中に入ったり、上に乗ったり。段ボールの破片で遊んだり。
その無邪気な姿を見ていると、心が温かくなった。
この子のために、引っ越しを決めた。
この子のために、貯金を使った。
でも、後悔なんて一つもない。
むしろ、誇らしい気持ちだった。
私は、つゆを選んだ。
つゆと一緒に生きることを、選んだ。

夕方、荷解きがひと段落したところで、インターホンが鳴った。
誰だろう。
モニターを見ると、田中先輩が立っていた。

「田中先輩!」

ドアを開けると、田中先輩は笑顔で手を振った。

「引っ越し、お疲れ様。これ、差し入れ」

手には、ケーキの箱と、猫用のおもちゃが入った袋。

「わざわざ、ありがとうございます」
「いいよいいよ。つゆちゃん、元気?」

部屋に入ると、つゆがタタタッと駆け寄ってきた。
田中先輩を見上げて、少し警戒したように後ずさりする。

「人見知りなんだね」
「はい。でも、すぐ慣れると思います」

田中先輩は、しゃがみ込んで手を差し出した。
つゆは、鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
そして、ゆっくりと頭を撫でさせた。

「可愛いな。本当に、よかったね。一緒に暮らせて」
「はい。田中先輩のおかげです」
「そんなことないよ。佐々木さんが頑張ったから」

そう言って、田中先輩は立ち上がった。

「これからは、堂々と猫飼いって言えるね」
「はい!」

心から、そう答えた。
田中先輩が帰った後、私はケーキを開けた。
いちごのショートケーキ。久しぶりの甘いもの。
一口食べると、甘さが口の中に広がった。
幸せだ……そう思った。
つゆは足元で、新しいおもちゃで遊んでいる。
ネズミの形をしたおもちゃを、前足で叩いたり、追いかけたり。
その姿を見ながら、ケーキを食べる。
こんな普通の瞬間が、こんなに幸せだなんて。
数ヶ月前の私には、想像もできなかった。

夜、つゆと一緒に新しいベッドに入った。
つゆは、枕元で丸くなっている。

「おやすみ、つゆ」

優しく頭を撫でると、つゆは小さく鳴いた。

「みゃあ」

照明を消すと、部屋は暗くなった。
でも、怖くなかった。
つゆがいるから。
小さな寝息が、すぐそばで聞こえるから。
私は、一人じゃない。
そう思いながら、目を閉じた。
翌朝、目が覚めると、つゆが顔を舐めていた。

「くすぐったい」

笑いながら起き上がる。
窓の外は、また晴れていた。
梅雨が明けたんだ。
長い雨の季節が、ようやく終わった。
カーテンを開けると、明るい日差しが部屋に入ってきた。
つゆは、窓際に座って外を見ている。
その横顔を見ながら、私は思った。
あの雨の夜。
コンビニの前で、小さく鳴いていたつゆ。
あの時、通り過ぎていたら。
今の私は、ここにいなかった。
今の幸せも、なかった。

会社に行くと、沙理が駆け寄ってきた。

「美月!引っ越し、無事に終わった?」
「うん。田中先輩に教えてもらって、いい物件見つかったの」
「よかったね!つゆちゃんも喜んでる?」
「すごく元気。新しい部屋、気に入ったみたい」

そんな会話をしていると、他の同僚も集まってきた。

「佐々木さん、猫飼ってるんだって?」
「写真見せてよ」

気づけば、私の周りに輪ができていた。
スマホを取り出して、つゆの写真を見せる。

「可愛い!」
「三毛猫って、女の子が多いんだよね」
「うちも猫飼ってるんだ。今度、猫話しようよ」

みんな、笑顔で話しかけてくれる。
こんなに、たくさんの人と話すなんて。
こんなに、笑い合うなんて。
数ヶ月前の私には、考えられなかった。

昼休み、一人で外に出た。
近くの公園のベンチに座って、空を見上げる。
青空が、どこまでも広がっていた。
雲一つない、真っ青な空。
ふと、あの日のことを思い出した。
入社三年目の六月。
毎日が灰色で、何のために生きているのかわからなかった。
会社に行くのが辛くて、人と話すのが怖くて、ただ時間が過ぎるのを待っているだけだった。
帰る場所は、誰もいない部屋。
冷蔵庫には、ろくな食材もない。
笑うことも、泣くことも、忘れてしまっていた。
そんな私が、今。
こうして空を見上げて、幸せを感じている。
帰る場所には、つゆがいる。
私を待っていてくれる、小さな家族がいる。
職場には、笑い合える仲間がいる。
何が変わったんだろう。
そう考えて、すぐに答えが出た。
つゆだ。
つゆが、私を変えてくれた。
いや、違う。
つゆが、私に気づかせてくれたんだ。
生きる理由を。
笑う理由を。
帰る理由を。
夕方、定時で会社を出た。
もう、誰の顔色も伺わない。
「お先に失礼します」と、はっきり言える。

駅までの道を歩きながら、スマホを取り出した。
ペットカメラのアプリを開くと、つゆが映っていた。
キャットタワーの上で、気持ちよさそうに眠っている。
その姿を見ているだけで、笑みがこぼれた。
早く帰りたい。
つゆに会いたい。
そう思いながら、足を速めた。
家に着くと、玄関を開ける前につゆの鳴き声が聞こえた。

「みゃあ!」

ドアを開けると、つゆが飛び出してきた。
私の足元にすり寄って、何度も何度も鳴く。

「ただいま、つゆ」

抱き上げると、つゆは私の首に顔を埋めた。
温かい。
柔らかい。
生きている。
この小さな命が、私の腕の中にいる。
それが、たまらなく愛おしかった。

夕食の準備をしながら、つゆに話しかけた。

「今日ね、会社でこんなことがあってね」

つゆは、足元でおもちゃで遊んでいる。

「沙理がね、つゆの写真見て、すごく可愛いって言ってくれたの」
「みゃあ」

返事をするように、つゆが鳴く。

「それでね、今度、猫を飼ってる人たちで集まろうって話になって」

独り言じゃない。
つゆに話しかけている。
つゆは、ちゃんと聞いてくれている。
そんな気がした。
食事を終えて、ソファに座る。
つゆが膝の上に乗ってきて、丸くなる。
テレビをつけたが、内容はあまり入ってこなかった。
ただ、つゆの温かさを感じながら、ぼんやりと時間を過ごす。
こんな時間が、一番幸せだ。
特別なことは、何もない。
ただ、つゆと一緒にいる。
それだけで、心が満たされる。

ふと、窓の外を見ると、星が瞬いていた。
梅雨の間は見えなかった、たくさんの星。
梅雨明けの夜空は、こんなにも美しい。
立ち上がって、窓に近づく。
つゆも一緒について来て、窓際に座った。
二人で、空を見上げる。

「綺麗だね、つゆ」

つゆは、何も言わない。
ただ、じっと空を見ている。
その横顔を見ながら、私は思った。
あの雨の夜から、どれくらい経ったんだろう。
二ヶ月。
たった二ヶ月で、私の人生は変わった。
灰色だった世界が、色づき始めた。
閉ざしていた心が、少しずつ開いていった。
それは、つゆがくれたもの。
いや、つゆが教えてくれたもの。
生きることの、温かさ。
誰かを愛することの、喜び。
帰る場所があることの、幸せ。

その夜、ベッドに入る前に、私はつゆを抱きしめた。

「ありがとう、つゆ」

つゆは、きょとんとした顔でこちらを見ている。

「あなたが、私を救ってくれた」

つゆは、小さく鳴いた。

「みゃあ」

その声は、まるで「どういたしまして」と言っているようだった。

「これからも、ずっと一緒にいようね」

優しく頭を撫でると、つゆは目を細めた。
気持ちよさそうに、喉を鳴らす。
ゴロゴロゴロ。
その音を聞きながら、私は思った。
あの日、雨の中で鳴いていたつゆ。
もし、私が通り過ぎていたら。
つゆは、どうなっていたんだろう。
誰かに拾われていたかもしれない。
でも、もしかしたら。
そう考えると、胸が苦しくなった。
でも、違う。
つゆは、私のところに来た。
私を選んでくれた。
そして、私も、つゆを選んだ。
これは、運命だったのかもしれない。
雨が繋いでくれた、奇跡なのかもしれない。

週末、私は久しぶりにあのコンビニの前を通った。
特に用事があったわけじゃない。
ただ、何となく、行きたかった。
つゆと出会った場所。
全ての始まりの場所。
コンビニは、変わらずそこにあった。
軒先も、あの時と同じ。
でも、段ボール箱はもうない。
当たり前だ。
あれから、もう二ヶ月以上経っている。
私は、その場所に立った。
あの夜のことを、思い出す。
雨の音。
小さな鳴き声。
濡れて震えていた、つゆ。
助けを求めるような、あの目。

「ありがとう」

誰に言うともなく、呟いた。
あの雨に。
つゆを、ここに連れてきてくれた雨に。
私と、つゆを出会わせてくれた雨に。
五月雨……それは、贈り物だった。
私への、最高の贈り物。
空を見上げると、青空が広がっていた。
雲一つない、真っ青な空。
梅雨は、完全に明けた。
長い雨の季節は、終わった。
そして、私の心の雨も、きっと。
いや、確かに、終わったんだ。
つゆが、私の心を晴れにしてくれた。
小さな温かさが、灰色の雲を吹き飛ばしてくれた。
今、私は幸せだ。
毎日、笑っている。
帰る場所がある。
待っていてくれる家族がいる。
それが、どれほど素晴らしいことか。
つゆが、教えてくれた。

家に帰ると、つゆがいつものように玄関で待っていた。

「ただいま、つゆ」

抱き上げると、つゆは嬉しそうに喉を鳴らした。
ゴロゴロゴロ。
その音が、私の心も、優しく震わせる。

「ずっと、一緒にいようね」

つゆは、小さく鳴いた。

「みゃあ」

それは、約束のように聞こえた。

窓の外では、夏の日差しが降り注いでいた。
梅雨明けの空は、どこまでも青く、明るく、希望に満ちていた。
私の心も、きっと、同じだ。
つゆと出会って、私は変わった。
生きることの意味を、見つけた。
笑ことの幸せを、知った。
愛することの喜びを、感じた。
これから、どんな困難があっても。
どんな辛いことがあっても。
つゆがいれば、大丈夫。
そう思えた。
小さな命。
小さな温かさ。
でも、私にとっては、何よりも大きな支えだった。

その夜、ベッドに入ると、つゆは枕元で丸くなった。
小さな寝息を立てて、安心しきった様子で。
その寝顔を見ながら、私は思った。

救ったのは、私じゃない。
救われたのは、私の方だった。
あの雨の夜、鳴いてくれて、ありがとう。
私を見つけてくれて、ありがとう。
私の人生に、光をくれて、ありがとう。
つゆ。
あなたは、私の家族。
私の希望。
私の、全てだ。

窓の外では、星が瞬いていた。
梅雨明けの夜空は、こんなにも美しい。
私は、目を閉じた。
つゆの温かさを感じながら。
幸せな気持ちで、眠りについた。

長い雨の季節は、終わった。
私の心の雨も、きっと。
そして、これから。
つゆと一緒に、たくさんの夏を、秋を、冬を、春を過ごしていく。
どんな季節も、つゆと一緒なら、きっと素敵だ。
そう信じながら。
私は、新しい日々を歩き始めた。
つゆと共に。
小さな家族と共に。

幸せな未来へと。