引っ越しの日は、七月の初めだった。
梅雨が明けようとしている、そんな時期。
朝から、空は晴れていた。久しぶりに見る青空だった。
引っ越し業者の方が来て、荷物を運び出していく。
つゆはキャリーケースの中で、少し不安そうに鳴いていた。
「大丈夫だよ、つゆ。すぐ新しいおうちに着くからね」
優しく声をかけながら、私も最後の荷物をまとめた。
新しいアパートは、前のところよりずっと明るかった。
南向きの窓からは、たっぷりと日差しが入ってくる。
リビングも広く、つゆが走り回るのに十分なスペースがあった。
「ほら、つゆ。新しいおうちだよ」
キャリーケースを開けると、つゆは恐る恐る出てきた。
周りをきょろきょろと見回して、慎重に部屋を歩き始める。
窓際に行って、外を見る。カーテンの陰に隠れてみる。リビングを一周して、キッチンを覗いてみる。
その様子を見ながら、私は笑ってしまった。
「気に入った?」
つゆは、こちらを振り返って「みゃあ」と鳴いた。
それは、まるで「うん」と言っているようだった。
荷解きを始めると、つゆは段ボール箱に興味津々だった。
箱の中に入ったり、上に乗ったり。段ボールの破片で遊んだり。
その無邪気な姿を見ていると、心が温かくなった。
この子のために、引っ越しを決めた。
この子のために、貯金を使った。
でも、後悔なんて一つもない。
むしろ、誇らしい気持ちだった。
私は、つゆを選んだ。
つゆと一緒に生きることを、選んだ。
夕方、荷解きがひと段落したところで、インターホンが鳴った。
誰だろう。
モニターを見ると、田中先輩が立っていた。
「田中先輩!」
ドアを開けると、田中先輩は笑顔で手を振った。
「引っ越し、お疲れ様。これ、差し入れ」
手には、ケーキの箱と、猫用のおもちゃが入った袋。
「わざわざ、ありがとうございます」
「いいよいいよ。つゆちゃん、元気?」
部屋に入ると、つゆがタタタッと駆け寄ってきた。
田中先輩を見上げて、少し警戒したように後ずさりする。
「人見知りなんだね」
「はい。でも、すぐ慣れると思います」
田中先輩は、しゃがみ込んで手を差し出した。
つゆは、鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
そして、ゆっくりと頭を撫でさせた。
「可愛いな。本当に、よかったね。一緒に暮らせて」
「はい。田中先輩のおかげです」
「そんなことないよ。佐々木さんが頑張ったから」
そう言って、田中先輩は立ち上がった。
「これからは、堂々と猫飼いって言えるね」
「はい!」
心から、そう答えた。
田中先輩が帰った後、私はケーキを開けた。
いちごのショートケーキ。久しぶりの甘いもの。
一口食べると、甘さが口の中に広がった。
幸せだ……そう思った。
つゆは足元で、新しいおもちゃで遊んでいる。
ネズミの形をしたおもちゃを、前足で叩いたり、追いかけたり。
その姿を見ながら、ケーキを食べる。
こんな普通の瞬間が、こんなに幸せだなんて。
数ヶ月前の私には、想像もできなかった。
夜、つゆと一緒に新しいベッドに入った。
つゆは、枕元で丸くなっている。
「おやすみ、つゆ」
優しく頭を撫でると、つゆは小さく鳴いた。
「みゃあ」
照明を消すと、部屋は暗くなった。
でも、怖くなかった。
つゆがいるから。
小さな寝息が、すぐそばで聞こえるから。
私は、一人じゃない。
そう思いながら、目を閉じた。
翌朝、目が覚めると、つゆが顔を舐めていた。
「くすぐったい」
笑いながら起き上がる。
窓の外は、また晴れていた。
梅雨が明けたんだ。
長い雨の季節が、ようやく終わった。
カーテンを開けると、明るい日差しが部屋に入ってきた。
つゆは、窓際に座って外を見ている。
その横顔を見ながら、私は思った。
あの雨の夜。
コンビニの前で、小さく鳴いていたつゆ。
あの時、通り過ぎていたら。
今の私は、ここにいなかった。
今の幸せも、なかった。
会社に行くと、沙理が駆け寄ってきた。
「美月!引っ越し、無事に終わった?」
「うん。田中先輩に教えてもらって、いい物件見つかったの」
「よかったね!つゆちゃんも喜んでる?」
「すごく元気。新しい部屋、気に入ったみたい」
そんな会話をしていると、他の同僚も集まってきた。
「佐々木さん、猫飼ってるんだって?」
「写真見せてよ」
気づけば、私の周りに輪ができていた。
スマホを取り出して、つゆの写真を見せる。
「可愛い!」
「三毛猫って、女の子が多いんだよね」
「うちも猫飼ってるんだ。今度、猫話しようよ」
みんな、笑顔で話しかけてくれる。
こんなに、たくさんの人と話すなんて。
こんなに、笑い合うなんて。
数ヶ月前の私には、考えられなかった。
昼休み、一人で外に出た。
近くの公園のベンチに座って、空を見上げる。
青空が、どこまでも広がっていた。
雲一つない、真っ青な空。
ふと、あの日のことを思い出した。
入社三年目の六月。
毎日が灰色で、何のために生きているのかわからなかった。
会社に行くのが辛くて、人と話すのが怖くて、ただ時間が過ぎるのを待っているだけだった。
帰る場所は、誰もいない部屋。
冷蔵庫には、ろくな食材もない。
笑うことも、泣くことも、忘れてしまっていた。
そんな私が、今。
こうして空を見上げて、幸せを感じている。
帰る場所には、つゆがいる。
私を待っていてくれる、小さな家族がいる。
職場には、笑い合える仲間がいる。
何が変わったんだろう。
そう考えて、すぐに答えが出た。
つゆだ。
つゆが、私を変えてくれた。
いや、違う。
つゆが、私に気づかせてくれたんだ。
生きる理由を。
笑う理由を。
帰る理由を。
夕方、定時で会社を出た。
もう、誰の顔色も伺わない。
「お先に失礼します」と、はっきり言える。
駅までの道を歩きながら、スマホを取り出した。
ペットカメラのアプリを開くと、つゆが映っていた。
キャットタワーの上で、気持ちよさそうに眠っている。
その姿を見ているだけで、笑みがこぼれた。
早く帰りたい。
つゆに会いたい。
そう思いながら、足を速めた。
家に着くと、玄関を開ける前につゆの鳴き声が聞こえた。
「みゃあ!」
ドアを開けると、つゆが飛び出してきた。
私の足元にすり寄って、何度も何度も鳴く。
「ただいま、つゆ」
抱き上げると、つゆは私の首に顔を埋めた。
温かい。
柔らかい。
生きている。
この小さな命が、私の腕の中にいる。
それが、たまらなく愛おしかった。
夕食の準備をしながら、つゆに話しかけた。
「今日ね、会社でこんなことがあってね」
つゆは、足元でおもちゃで遊んでいる。
「沙理がね、つゆの写真見て、すごく可愛いって言ってくれたの」
「みゃあ」
返事をするように、つゆが鳴く。
「それでね、今度、猫を飼ってる人たちで集まろうって話になって」
独り言じゃない。
つゆに話しかけている。
つゆは、ちゃんと聞いてくれている。
そんな気がした。
食事を終えて、ソファに座る。
つゆが膝の上に乗ってきて、丸くなる。
テレビをつけたが、内容はあまり入ってこなかった。
ただ、つゆの温かさを感じながら、ぼんやりと時間を過ごす。
こんな時間が、一番幸せだ。
特別なことは、何もない。
ただ、つゆと一緒にいる。
それだけで、心が満たされる。
ふと、窓の外を見ると、星が瞬いていた。
梅雨の間は見えなかった、たくさんの星。
梅雨明けの夜空は、こんなにも美しい。
立ち上がって、窓に近づく。
つゆも一緒について来て、窓際に座った。
二人で、空を見上げる。
「綺麗だね、つゆ」
つゆは、何も言わない。
ただ、じっと空を見ている。
その横顔を見ながら、私は思った。
あの雨の夜から、どれくらい経ったんだろう。
二ヶ月。
たった二ヶ月で、私の人生は変わった。
灰色だった世界が、色づき始めた。
閉ざしていた心が、少しずつ開いていった。
それは、つゆがくれたもの。
いや、つゆが教えてくれたもの。
生きることの、温かさ。
誰かを愛することの、喜び。
帰る場所があることの、幸せ。
その夜、ベッドに入る前に、私はつゆを抱きしめた。
「ありがとう、つゆ」
つゆは、きょとんとした顔でこちらを見ている。
「あなたが、私を救ってくれた」
つゆは、小さく鳴いた。
「みゃあ」
その声は、まるで「どういたしまして」と言っているようだった。
「これからも、ずっと一緒にいようね」
優しく頭を撫でると、つゆは目を細めた。
気持ちよさそうに、喉を鳴らす。
ゴロゴロゴロ。
その音を聞きながら、私は思った。
あの日、雨の中で鳴いていたつゆ。
もし、私が通り過ぎていたら。
つゆは、どうなっていたんだろう。
誰かに拾われていたかもしれない。
でも、もしかしたら。
そう考えると、胸が苦しくなった。
でも、違う。
つゆは、私のところに来た。
私を選んでくれた。
そして、私も、つゆを選んだ。
これは、運命だったのかもしれない。
雨が繋いでくれた、奇跡なのかもしれない。
週末、私は久しぶりにあのコンビニの前を通った。
特に用事があったわけじゃない。
ただ、何となく、行きたかった。
つゆと出会った場所。
全ての始まりの場所。
コンビニは、変わらずそこにあった。
軒先も、あの時と同じ。
でも、段ボール箱はもうない。
当たり前だ。
あれから、もう二ヶ月以上経っている。
私は、その場所に立った。
あの夜のことを、思い出す。
雨の音。
小さな鳴き声。
濡れて震えていた、つゆ。
助けを求めるような、あの目。
「ありがとう」
誰に言うともなく、呟いた。
あの雨に。
つゆを、ここに連れてきてくれた雨に。
私と、つゆを出会わせてくれた雨に。
五月雨……それは、贈り物だった。
私への、最高の贈り物。
空を見上げると、青空が広がっていた。
雲一つない、真っ青な空。
梅雨は、完全に明けた。
長い雨の季節は、終わった。
そして、私の心の雨も、きっと。
いや、確かに、終わったんだ。
つゆが、私の心を晴れにしてくれた。
小さな温かさが、灰色の雲を吹き飛ばしてくれた。
今、私は幸せだ。
毎日、笑っている。
帰る場所がある。
待っていてくれる家族がいる。
それが、どれほど素晴らしいことか。
つゆが、教えてくれた。
家に帰ると、つゆがいつものように玄関で待っていた。
「ただいま、つゆ」
抱き上げると、つゆは嬉しそうに喉を鳴らした。
ゴロゴロゴロ。
その音が、私の心も、優しく震わせる。
「ずっと、一緒にいようね」
つゆは、小さく鳴いた。
「みゃあ」
それは、約束のように聞こえた。
窓の外では、夏の日差しが降り注いでいた。
梅雨明けの空は、どこまでも青く、明るく、希望に満ちていた。
私の心も、きっと、同じだ。
つゆと出会って、私は変わった。
生きることの意味を、見つけた。
笑ことの幸せを、知った。
愛することの喜びを、感じた。
これから、どんな困難があっても。
どんな辛いことがあっても。
つゆがいれば、大丈夫。
そう思えた。
小さな命。
小さな温かさ。
でも、私にとっては、何よりも大きな支えだった。
その夜、ベッドに入ると、つゆは枕元で丸くなった。
小さな寝息を立てて、安心しきった様子で。
その寝顔を見ながら、私は思った。
救ったのは、私じゃない。
救われたのは、私の方だった。
あの雨の夜、鳴いてくれて、ありがとう。
私を見つけてくれて、ありがとう。
私の人生に、光をくれて、ありがとう。
つゆ。
あなたは、私の家族。
私の希望。
私の、全てだ。
窓の外では、星が瞬いていた。
梅雨明けの夜空は、こんなにも美しい。
私は、目を閉じた。
つゆの温かさを感じながら。
幸せな気持ちで、眠りについた。
長い雨の季節は、終わった。
私の心の雨も、きっと。
そして、これから。
つゆと一緒に、たくさんの夏を、秋を、冬を、春を過ごしていく。
どんな季節も、つゆと一緒なら、きっと素敵だ。
そう信じながら。
私は、新しい日々を歩き始めた。
つゆと共に。
小さな家族と共に。
幸せな未来へと。
梅雨が明けようとしている、そんな時期。
朝から、空は晴れていた。久しぶりに見る青空だった。
引っ越し業者の方が来て、荷物を運び出していく。
つゆはキャリーケースの中で、少し不安そうに鳴いていた。
「大丈夫だよ、つゆ。すぐ新しいおうちに着くからね」
優しく声をかけながら、私も最後の荷物をまとめた。
新しいアパートは、前のところよりずっと明るかった。
南向きの窓からは、たっぷりと日差しが入ってくる。
リビングも広く、つゆが走り回るのに十分なスペースがあった。
「ほら、つゆ。新しいおうちだよ」
キャリーケースを開けると、つゆは恐る恐る出てきた。
周りをきょろきょろと見回して、慎重に部屋を歩き始める。
窓際に行って、外を見る。カーテンの陰に隠れてみる。リビングを一周して、キッチンを覗いてみる。
その様子を見ながら、私は笑ってしまった。
「気に入った?」
つゆは、こちらを振り返って「みゃあ」と鳴いた。
それは、まるで「うん」と言っているようだった。
荷解きを始めると、つゆは段ボール箱に興味津々だった。
箱の中に入ったり、上に乗ったり。段ボールの破片で遊んだり。
その無邪気な姿を見ていると、心が温かくなった。
この子のために、引っ越しを決めた。
この子のために、貯金を使った。
でも、後悔なんて一つもない。
むしろ、誇らしい気持ちだった。
私は、つゆを選んだ。
つゆと一緒に生きることを、選んだ。
夕方、荷解きがひと段落したところで、インターホンが鳴った。
誰だろう。
モニターを見ると、田中先輩が立っていた。
「田中先輩!」
ドアを開けると、田中先輩は笑顔で手を振った。
「引っ越し、お疲れ様。これ、差し入れ」
手には、ケーキの箱と、猫用のおもちゃが入った袋。
「わざわざ、ありがとうございます」
「いいよいいよ。つゆちゃん、元気?」
部屋に入ると、つゆがタタタッと駆け寄ってきた。
田中先輩を見上げて、少し警戒したように後ずさりする。
「人見知りなんだね」
「はい。でも、すぐ慣れると思います」
田中先輩は、しゃがみ込んで手を差し出した。
つゆは、鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
そして、ゆっくりと頭を撫でさせた。
「可愛いな。本当に、よかったね。一緒に暮らせて」
「はい。田中先輩のおかげです」
「そんなことないよ。佐々木さんが頑張ったから」
そう言って、田中先輩は立ち上がった。
「これからは、堂々と猫飼いって言えるね」
「はい!」
心から、そう答えた。
田中先輩が帰った後、私はケーキを開けた。
いちごのショートケーキ。久しぶりの甘いもの。
一口食べると、甘さが口の中に広がった。
幸せだ……そう思った。
つゆは足元で、新しいおもちゃで遊んでいる。
ネズミの形をしたおもちゃを、前足で叩いたり、追いかけたり。
その姿を見ながら、ケーキを食べる。
こんな普通の瞬間が、こんなに幸せだなんて。
数ヶ月前の私には、想像もできなかった。
夜、つゆと一緒に新しいベッドに入った。
つゆは、枕元で丸くなっている。
「おやすみ、つゆ」
優しく頭を撫でると、つゆは小さく鳴いた。
「みゃあ」
照明を消すと、部屋は暗くなった。
でも、怖くなかった。
つゆがいるから。
小さな寝息が、すぐそばで聞こえるから。
私は、一人じゃない。
そう思いながら、目を閉じた。
翌朝、目が覚めると、つゆが顔を舐めていた。
「くすぐったい」
笑いながら起き上がる。
窓の外は、また晴れていた。
梅雨が明けたんだ。
長い雨の季節が、ようやく終わった。
カーテンを開けると、明るい日差しが部屋に入ってきた。
つゆは、窓際に座って外を見ている。
その横顔を見ながら、私は思った。
あの雨の夜。
コンビニの前で、小さく鳴いていたつゆ。
あの時、通り過ぎていたら。
今の私は、ここにいなかった。
今の幸せも、なかった。
会社に行くと、沙理が駆け寄ってきた。
「美月!引っ越し、無事に終わった?」
「うん。田中先輩に教えてもらって、いい物件見つかったの」
「よかったね!つゆちゃんも喜んでる?」
「すごく元気。新しい部屋、気に入ったみたい」
そんな会話をしていると、他の同僚も集まってきた。
「佐々木さん、猫飼ってるんだって?」
「写真見せてよ」
気づけば、私の周りに輪ができていた。
スマホを取り出して、つゆの写真を見せる。
「可愛い!」
「三毛猫って、女の子が多いんだよね」
「うちも猫飼ってるんだ。今度、猫話しようよ」
みんな、笑顔で話しかけてくれる。
こんなに、たくさんの人と話すなんて。
こんなに、笑い合うなんて。
数ヶ月前の私には、考えられなかった。
昼休み、一人で外に出た。
近くの公園のベンチに座って、空を見上げる。
青空が、どこまでも広がっていた。
雲一つない、真っ青な空。
ふと、あの日のことを思い出した。
入社三年目の六月。
毎日が灰色で、何のために生きているのかわからなかった。
会社に行くのが辛くて、人と話すのが怖くて、ただ時間が過ぎるのを待っているだけだった。
帰る場所は、誰もいない部屋。
冷蔵庫には、ろくな食材もない。
笑うことも、泣くことも、忘れてしまっていた。
そんな私が、今。
こうして空を見上げて、幸せを感じている。
帰る場所には、つゆがいる。
私を待っていてくれる、小さな家族がいる。
職場には、笑い合える仲間がいる。
何が変わったんだろう。
そう考えて、すぐに答えが出た。
つゆだ。
つゆが、私を変えてくれた。
いや、違う。
つゆが、私に気づかせてくれたんだ。
生きる理由を。
笑う理由を。
帰る理由を。
夕方、定時で会社を出た。
もう、誰の顔色も伺わない。
「お先に失礼します」と、はっきり言える。
駅までの道を歩きながら、スマホを取り出した。
ペットカメラのアプリを開くと、つゆが映っていた。
キャットタワーの上で、気持ちよさそうに眠っている。
その姿を見ているだけで、笑みがこぼれた。
早く帰りたい。
つゆに会いたい。
そう思いながら、足を速めた。
家に着くと、玄関を開ける前につゆの鳴き声が聞こえた。
「みゃあ!」
ドアを開けると、つゆが飛び出してきた。
私の足元にすり寄って、何度も何度も鳴く。
「ただいま、つゆ」
抱き上げると、つゆは私の首に顔を埋めた。
温かい。
柔らかい。
生きている。
この小さな命が、私の腕の中にいる。
それが、たまらなく愛おしかった。
夕食の準備をしながら、つゆに話しかけた。
「今日ね、会社でこんなことがあってね」
つゆは、足元でおもちゃで遊んでいる。
「沙理がね、つゆの写真見て、すごく可愛いって言ってくれたの」
「みゃあ」
返事をするように、つゆが鳴く。
「それでね、今度、猫を飼ってる人たちで集まろうって話になって」
独り言じゃない。
つゆに話しかけている。
つゆは、ちゃんと聞いてくれている。
そんな気がした。
食事を終えて、ソファに座る。
つゆが膝の上に乗ってきて、丸くなる。
テレビをつけたが、内容はあまり入ってこなかった。
ただ、つゆの温かさを感じながら、ぼんやりと時間を過ごす。
こんな時間が、一番幸せだ。
特別なことは、何もない。
ただ、つゆと一緒にいる。
それだけで、心が満たされる。
ふと、窓の外を見ると、星が瞬いていた。
梅雨の間は見えなかった、たくさんの星。
梅雨明けの夜空は、こんなにも美しい。
立ち上がって、窓に近づく。
つゆも一緒について来て、窓際に座った。
二人で、空を見上げる。
「綺麗だね、つゆ」
つゆは、何も言わない。
ただ、じっと空を見ている。
その横顔を見ながら、私は思った。
あの雨の夜から、どれくらい経ったんだろう。
二ヶ月。
たった二ヶ月で、私の人生は変わった。
灰色だった世界が、色づき始めた。
閉ざしていた心が、少しずつ開いていった。
それは、つゆがくれたもの。
いや、つゆが教えてくれたもの。
生きることの、温かさ。
誰かを愛することの、喜び。
帰る場所があることの、幸せ。
その夜、ベッドに入る前に、私はつゆを抱きしめた。
「ありがとう、つゆ」
つゆは、きょとんとした顔でこちらを見ている。
「あなたが、私を救ってくれた」
つゆは、小さく鳴いた。
「みゃあ」
その声は、まるで「どういたしまして」と言っているようだった。
「これからも、ずっと一緒にいようね」
優しく頭を撫でると、つゆは目を細めた。
気持ちよさそうに、喉を鳴らす。
ゴロゴロゴロ。
その音を聞きながら、私は思った。
あの日、雨の中で鳴いていたつゆ。
もし、私が通り過ぎていたら。
つゆは、どうなっていたんだろう。
誰かに拾われていたかもしれない。
でも、もしかしたら。
そう考えると、胸が苦しくなった。
でも、違う。
つゆは、私のところに来た。
私を選んでくれた。
そして、私も、つゆを選んだ。
これは、運命だったのかもしれない。
雨が繋いでくれた、奇跡なのかもしれない。
週末、私は久しぶりにあのコンビニの前を通った。
特に用事があったわけじゃない。
ただ、何となく、行きたかった。
つゆと出会った場所。
全ての始まりの場所。
コンビニは、変わらずそこにあった。
軒先も、あの時と同じ。
でも、段ボール箱はもうない。
当たり前だ。
あれから、もう二ヶ月以上経っている。
私は、その場所に立った。
あの夜のことを、思い出す。
雨の音。
小さな鳴き声。
濡れて震えていた、つゆ。
助けを求めるような、あの目。
「ありがとう」
誰に言うともなく、呟いた。
あの雨に。
つゆを、ここに連れてきてくれた雨に。
私と、つゆを出会わせてくれた雨に。
五月雨……それは、贈り物だった。
私への、最高の贈り物。
空を見上げると、青空が広がっていた。
雲一つない、真っ青な空。
梅雨は、完全に明けた。
長い雨の季節は、終わった。
そして、私の心の雨も、きっと。
いや、確かに、終わったんだ。
つゆが、私の心を晴れにしてくれた。
小さな温かさが、灰色の雲を吹き飛ばしてくれた。
今、私は幸せだ。
毎日、笑っている。
帰る場所がある。
待っていてくれる家族がいる。
それが、どれほど素晴らしいことか。
つゆが、教えてくれた。
家に帰ると、つゆがいつものように玄関で待っていた。
「ただいま、つゆ」
抱き上げると、つゆは嬉しそうに喉を鳴らした。
ゴロゴロゴロ。
その音が、私の心も、優しく震わせる。
「ずっと、一緒にいようね」
つゆは、小さく鳴いた。
「みゃあ」
それは、約束のように聞こえた。
窓の外では、夏の日差しが降り注いでいた。
梅雨明けの空は、どこまでも青く、明るく、希望に満ちていた。
私の心も、きっと、同じだ。
つゆと出会って、私は変わった。
生きることの意味を、見つけた。
笑ことの幸せを、知った。
愛することの喜びを、感じた。
これから、どんな困難があっても。
どんな辛いことがあっても。
つゆがいれば、大丈夫。
そう思えた。
小さな命。
小さな温かさ。
でも、私にとっては、何よりも大きな支えだった。
その夜、ベッドに入ると、つゆは枕元で丸くなった。
小さな寝息を立てて、安心しきった様子で。
その寝顔を見ながら、私は思った。
救ったのは、私じゃない。
救われたのは、私の方だった。
あの雨の夜、鳴いてくれて、ありがとう。
私を見つけてくれて、ありがとう。
私の人生に、光をくれて、ありがとう。
つゆ。
あなたは、私の家族。
私の希望。
私の、全てだ。
窓の外では、星が瞬いていた。
梅雨明けの夜空は、こんなにも美しい。
私は、目を閉じた。
つゆの温かさを感じながら。
幸せな気持ちで、眠りについた。
長い雨の季節は、終わった。
私の心の雨も、きっと。
そして、これから。
つゆと一緒に、たくさんの夏を、秋を、冬を、春を過ごしていく。
どんな季節も、つゆと一緒なら、きっと素敵だ。
そう信じながら。
私は、新しい日々を歩き始めた。
つゆと共に。
小さな家族と共に。
幸せな未来へと。

