翌朝、目が覚めると、枕元に子猫がいた。
丸くなって眠っている。
小さな体が、寝息に合わせてゆっくりと上下している。
そっと手を伸ばすと、柔らかい毛に触れた。
昨夜はあんなに濡れていたのに、今はふわふわとしている。
子猫が目を開けた。
「みゃあ」
小さく鳴いて、伸びをする。
その仕草があまりにも可愛くて、私は思わず笑ってしまった。
いつぶりだろう、朝起きて、何かを見て笑ったのは。
時計を見れば六時半。
いつもなら二度寝するか、ぼんやりとスマホを見ながら時間を潰すところだ。
でも今日は違った。子猫の世話をしなければならない。
起き上がると、子猫も一緒について来た。
よちよちと、私の後をついてくる。
「お腹空いたの?」
聞くと、「みゃあ」と返事が返ってきた。まるで会話しているみたいだ。
冷蔵庫を開けたが、やはり猫にあげられるものはない。
昨夜のツナももうない。
仕方なく、会社に電話をかけた。
「あの、佐々木ですが、今日、お休みをいただけないでしょうか」
電話に出た総務の方は、少し驚いたようだったが、すぐに
「わかりました。体調不良ですか?」
と聞いてきた。
「あ、はい。少し」
嘘をついてしまった。
でも、本当のことは言えない。
猫を拾ったなんて。
「お大事に。無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
電話を切ってから、スマホで近くの動物病院を検索した。
そうだ。保健所に連絡する前に、まず健康状態を確認してもらわなければ。
それから、引き取り先を探そう。
そう自分に言い聞かせながら、私は子猫をキャリーバッグ代わりの段ボール箱に入れた。
昨夜、コンビニからもらってきたものだ。
「ちょっと我慢してね」
子猫は少し不安そうに鳴いたが、大人しく箱の中に収まった。
一番近い動物病院は、駅から二つ先の商店街の中にあった。
「わんにゃんクリニック」という、小さな病院だった。
ドアを開けると、受付のカウンターに若い女性スタッフがいた。
「いらっしゃいませ」
明るい声で迎えてくれる。
「あの、この子を拾ったんですけど、診ていただけますか」
段ボール箱を見せると、スタッフの女性は優しい笑顔を浮かべた。
「まあ、可愛い。じゃあ、こちらの問診票に記入していただけますか」
手渡された用紙には、飼い主の情報と、ペットの状態を書く欄があった。
飼い主……。
私は飼い主じゃない。ただ拾っただけ。明日には、引き取り先を探すつもりで。
でも、欄には私の名前を書いた。
待合室には、他に二組の飼い主がいた。
一人は老夫婦で、膝の上に小さな犬を抱いている。
もう一人は若い男性で、大きなキャリーケースの中に猫を入れていた。
みんな、当たり前のように自分のペットと一緒にいる。
私もいつか、こんな風に当たり前に猫と暮らせるようになるんだろうか。
いや、違う。私は飼わない。飼えない。
そう思い直そうとしたとき、名前を呼ばれた。
「佐々木さん、どうぞ」
診察室に入ると、白衣を着た男性の獣医師が待っていた。
四十代くらいだろうか。優しそうな顔をしている。
「こんにちは。獣医師の田村です」
「佐々木です。よろしくお願いします」
箱から子猫を取り出すと、田村先生は慣れた手つきで抱き上げた。
「拾ったんですか?」
「はい、昨夜、コンビニの前で」
「そうですか。よく保護してくれましたね」
田村先生は子猫の体を丁寧に診察し始めた。
耳を見て、目を見て、口を開けて歯を確認する。
「生後二ヶ月くらいですね。女の子です」
「女の子、ですか」
「ええ。三毛猫はほとんどがメスなんですよ。オスの三毛猫は遺伝子の関係で非常に珍しくて」
へえ、知らなかった。
「栄養状態は良くないですが、命に別状はありません。ノミもいますね。駆虫薬を処方しておきます」
田村先生は優しく子猫を診察台に戻した。
「飼うんですか?」
その質問に、私は言葉に詰まった。
「まだ、決めてなくて」
「そうですか」
田村先生は少し考えるような表情を浮かべた。
「もし飼うなら、ワクチン接種が必要です。生後二ヶ月なら、そろそろ一回目を打つ時期ですね」
「はい」
「それから、この子はまだ小さいので、一日に三、四回は食事を与えてください。子猫用のフードとミルクがいいでしょう」
田村先生は丁寧に説明してくれた。
トイレのしつけのこと、爪とぎのこと、遊ばせ方のこと。
聞きながら、私は思った。
こんなに手がかかるんだ。やっぱり無理かもしれない。
「でも」
田村先生が言った。
「この子、佐々木さんに懐いてますよ」
「え?」
「ほら」
見れば、子猫は診察台の上から私の方をじっと見ていた。
そして、小さく鳴いた。
「みゃあ」
その声は、私を呼んでいるようだった。
「猫は、信頼できる相手を本能的に見分けるんです。この子は、あなたを選んだんですよ」
田村先生の言葉が、胸に響いた。
この子が、選んだ……私を。
病院を出る頃には、もう昼近くになっていた。
処方された駆虫薬と、購入した子猫用のフードとミルク、それからトイレ砂を持って、私は商店街を歩いた。
子猫は箱の中で、大人しくしている。
時々、「みゃあ」と鳴く。
その声を聞くたびに、胸が温かくなった。
ペットショップに立ち寄った。
猫用のトイレと、小さな爪とぎ、それからおもちゃをいくつか選んだ。
レジで会計をしながら、店員さんに「可愛い猫ちゃんですね」と言われた。
「ありがとうございます」
自然に、そう答えていた。
家に帰ると、すぐに子猫を箱から出した。
部屋の隅にトイレを設置し、リビングに爪とぎを置く。フードと水を用意して、小皿に入れた。
子猫はよちよちと部屋を歩き回り、新しい環境を確認しているようだった。
やがてフードの皿を見つけると、一目散に駆け寄ってきた。
そして、夢中で食べ始める。
その姿を見ながら、私はソファに座った。
明日、引き取り先を探そう。
そう思っていたはずなのに、今はその気持ちが揺らいでいた。
この子を、手放せるだろうか。
たった一晩しか一緒にいないのに、もうこんなに愛おしい。
食事を終えた子猫は、部屋中を探索し始めた。
カーテンに飛びつき、よじ登ろうとする。
失敗して落ちて、また挑戦する。
ソファの下に潜り込んで、何かを見つけたように「みゃあ」と鳴く。
テーブルの上に飛び乗ろうとして、ジャンプが足りずにずり落ちる。
その一つ一つの仕草が可愛くて、私は笑ってしまった。
こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。
最近、笑うことなんてほとんどなかった。職場でも、家でも。
笑顔を作ることはあっても、心から笑うことはなかった。
でも今、自然に笑っている。
子猫が、笑わせてくれている。
やがて子猫は疲れたのか、私のそばに来た。
膝の上に飛び乗ると、くるんと丸くなった。
「眠いの?」
優しく撫でると、小さな喉を鳴らし始めた。
ゴロゴロゴロ。
これが、猫の喉鳴らしか。
初めて聞いた。
こんなに可愛い音だとは知らなかった。
「ねえ」
子猫に話しかけた。
「あなたの名前、何にしようか」
子猫は目を閉じたまま、小さく鳴いた。
「みゃあ」
「そうだね。考えないとね」
外を見れば、また雨が降っていた。
梅雨。
五月雨。
この子と出会ったのは、雨の夜だった。
「つゆ、って、どう?」
子猫に聞いてみた。
「梅雨に出会ったから、つゆ。可愛いでしょ?」
子猫は答えない。
ただ、気持ち良さそうに喉を鳴らしているだけ。
「じゃあ、つゆね。よろしくね、つゆ」
そう言って、優しく頭を撫でた。
つゆは、小さく一回鳴いた。
それは、返事のように聞こえた。
次の日。
つゆをケージ代わりの段ボール箱に入れて、「すぐ帰ってくるからね」と声をかける。
つゆは不安そうに鳴いたが、私は後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
会社に着くと、田中先輩が心配そうに声をかけてくれた。
「佐々木さん、大丈夫?体調悪かったんでしょ」
「あ、はい。もう大丈夫です。ご心配おかけしました」
「無理しないでね」
優しい言葉が、少し胸に染みた。
席に着いて仕事を始めようとしたが、頭の中はつゆのことでいっぱいだった。
一人で大丈夫かな、寂しがっていないかな、トイレはちゃんと使えているのかな……。
気づけば、スマホでペットカメラを検索していた。
帰りに買っていこう。
定時になった。
いつもなら、周りの様子を伺いながら、帰るタイミングを逃していた。
誰も帰らない中で、一人だけ帰るのが怖かった。
でも今日は違った。
パソコンをシャットダウンし、荷物をまとめる。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
はっきりとした声で言った。
田中先輩が少し驚いたような顔をした。
「お、佐々木さん定時で帰るの?珍しいね」
「あ、はい。ちょっと、用事があって」
「そっか。お疲れ様」
あっさりと送り出してくれた。
こんなに簡単だったんだ。
今まで、どうして言えなかったんだろう。
家に急いで帰ると、玄関を開けた瞬間、つゆの鳴き声が聞こえた。
「みゃあ!みゃあ!」
段ボール箱の中から、必死に鳴いている。
「ただいま、つゆ」
箱を開けると、つゆが飛び出してきた。
私の足元にすり寄って、何度も鳴く。
「寂しかった?ごめんね」
抱き上げると、つゆは私の胸に顔を埋めた。小さな体が、温かい。
心が、満たされていくのを感じた。
誰かが、私を待っていてくれる。
誰かが、私の帰りを喜んでくれる。
それだけで、こんなに嬉しいなんて。
それから、生活が変わり始めた。
毎日定時で帰るようになった。
「猫がいるので」とは言えなかったが、用事がある事を伝えると、「気を付けて、お疲れ様」とすんなり答えが返ってきた。
今まで、残業を断ることがこんなに簡単だとは思わなかった。
理由があれば、ちゃんと帰れるんだ。
家に帰ると、つゆがいつも玄関で待っていた。
「みゃあ」と鳴いて、足元にすり寄ってくる。
その瞬間、一日の疲れが少しずつ溶けていく気がした。
つゆのためにご飯を用意して、トイレを掃除して、一緒に遊ぶ。
猫じゃらしを振ると、つゆは全力で追いかけてくる。
小さな体で精一杯ジャンプして、必死に捕まえようとする。
その姿があまりにも可愛くて、私は何度も笑ってしまった。
遊び疲れたつゆは、私の膝の上で眠る。小さな寝息を立てて、安心しきった様子で。
その温かさが、私の心も温めてくれた。
一週間が過ぎた頃、職場で変化があった。
給湯室でコーヒーを淹れていると、沙理が話しかけてきた。
「美月、最近元気になったね」
「え、そう?」
「うん。なんか、表情が明るくなった気がする」
そう言われて、少し驚いた。
自分では気づかなかったけれど、変わったのかもしれない。
「実は、猫を飼い始めたんだ」
「え!本当に?見せて見せて!」
沙理は目を輝かせた。
スマホを取り出して、つゆの写真を見せる。
遊んでいるところ、眠っているところ、ご飯を食べているところ。
気づけば、たくさん撮っていた。
「めちゃくちゃ可愛い!名前は?」
「つゆ。梅雨に出会ったから」
「素敵な名前。どこで出会ったの?」
私は、あの雨の夜のことを話した。
コンビニの前で鳴いていて、放っておけなくて連れて帰ったこと。
沙理は真剣に聞いてくれて、最後に言った。
「美月、優しいね。つゆちゃん、幸せだと思うよ」
その言葉が、嬉しかった。
「私の方が、幸せをもらってるよ」
本心から、そう答えた。
その日の午後、田中先輩が席に来た。
「佐々木さん、猫飼ってるんだって?」
「あ、はい」
「実は俺も猫飼っててさ。茶トラのオスなんだけど」
そこから、猫の話で盛り上がった。
田中先輩の猫は五歳で、すごくやんちゃなんだという。
家具をガリガリ引っ掻いて、よく怒られるらしい。
「でも可愛いんだよね。猫って不思議だよ。どんなに悪さしても、許しちゃう」
田中先輩は嬉しそうに笑った。
「つゆちゃんは、おとなしい?」
「いえ、結構やんちゃです。カーテンによじ登ったり、夜中に走り回ったり」
「ああ、子猫だもんね。元気が一番だよ」
そんな会話をしながら、私は思った。
こんな風に、誰かと笑いながら話せるなんて。
最近、職場で誰かと話すことすら怖かった。
何を話せばいいのかわからなくて、話しかけられても適当に返事をして、早く会話を終わらせたいと思っていた。
でも今は、楽しい。
つゆのことを話すのが、楽しい。
二週間が過ぎた頃、つゆは随分と大きくなった。
最初はよちよち歩いていたのに、今では部屋中を駆け回る。
ジャンプも上手になって、テーブルの上にも簡単に飛び乗れるようになった。
毎朝、私が起きると、つゆは枕元で待っている。
目が合うと「みゃあ」と鳴いて、顔を舐めてくる。
その感触がくすぐったくて、私は笑いながら起き上がる。
朝の準備をしていると、つゆはずっと後をついてくる。
洗面所、キッチン、クローゼット。どこに行っても、ちょこちょことついてくる。
「つゆは寂しがり屋さんだね」
そう話しかけると、「みゃあ」と返事が返ってくる。
出勤前、つゆに「行ってくるね」と声をかける。
つゆは玄関まで見送りに来て、寂しそうに鳴く。
「夜には帰ってくるから。いい子で待っててね」
頭を撫でてから、家を出る。
後ろ髪を引かれる思いだけれど、でも嬉しくもある。
帰りを待っていてくれる存在がいる。
それが、どれほど心強いか。
ある日、会社の休憩時間に、先輩たちの会話が聞こえてきた。
「最近、佐々木さん変わったよね」
田中先輩の声だ。
「うん。前はすごく暗い感じだったけど、最近は表情が明るい」
他の先輩の声。
私は、自分のことを話されているとは思わず、無意識に聞いていた。
「猫飼い始めたんだって。それで変わったのかな」
「かもね。ペットって癒されるもんな」
「定時で帰るようになったのも、猫のためなんだろ?前は遅くまで残ってたのにね」
「でも、仕事の質は落ちてないよ。むしろ、前より効率よくなってる気がする」
「そうそう。集中力が増したっていうか」
その会話を聞いて、私は少し驚いた。
そんな風に見られていたんだ。
そして、嬉しかった。
変わった。私は、変わったんだ。
つゆが、私を変えてくれた。
その夜、家に帰ると、つゆがいつものように玄関で待っていた。
「ただいま、つゆ」
抱き上げると、つゆは嬉しそうに喉を鳴らした。
ご飯を用意して、一緒に食事をする。
私は簡単に作ったパスタ、つゆは子猫用のフード。
食後、ソファに座ってテレビを見ていると、つゆが膝の上に乗ってきた。
丸くなって、目を閉じる。
その温かさを感じながら、私は思った。
もう、手放せない。
この子がいない生活なんて、考えられない。
つゆは、私の家族になった。
いつの間にか、そうなっていた。
でも、一つ問題があった。
アパートの管理会社だ。
私の住んでいるアパートは、ペット不可。規約に明記されている。
いつかバレる……そう思うと、不安だった。
でも、つゆを手放すことは考えられなかった。
どうしよう。
そう悩んでいた矢先、それは起きた。
丸くなって眠っている。
小さな体が、寝息に合わせてゆっくりと上下している。
そっと手を伸ばすと、柔らかい毛に触れた。
昨夜はあんなに濡れていたのに、今はふわふわとしている。
子猫が目を開けた。
「みゃあ」
小さく鳴いて、伸びをする。
その仕草があまりにも可愛くて、私は思わず笑ってしまった。
いつぶりだろう、朝起きて、何かを見て笑ったのは。
時計を見れば六時半。
いつもなら二度寝するか、ぼんやりとスマホを見ながら時間を潰すところだ。
でも今日は違った。子猫の世話をしなければならない。
起き上がると、子猫も一緒について来た。
よちよちと、私の後をついてくる。
「お腹空いたの?」
聞くと、「みゃあ」と返事が返ってきた。まるで会話しているみたいだ。
冷蔵庫を開けたが、やはり猫にあげられるものはない。
昨夜のツナももうない。
仕方なく、会社に電話をかけた。
「あの、佐々木ですが、今日、お休みをいただけないでしょうか」
電話に出た総務の方は、少し驚いたようだったが、すぐに
「わかりました。体調不良ですか?」
と聞いてきた。
「あ、はい。少し」
嘘をついてしまった。
でも、本当のことは言えない。
猫を拾ったなんて。
「お大事に。無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
電話を切ってから、スマホで近くの動物病院を検索した。
そうだ。保健所に連絡する前に、まず健康状態を確認してもらわなければ。
それから、引き取り先を探そう。
そう自分に言い聞かせながら、私は子猫をキャリーバッグ代わりの段ボール箱に入れた。
昨夜、コンビニからもらってきたものだ。
「ちょっと我慢してね」
子猫は少し不安そうに鳴いたが、大人しく箱の中に収まった。
一番近い動物病院は、駅から二つ先の商店街の中にあった。
「わんにゃんクリニック」という、小さな病院だった。
ドアを開けると、受付のカウンターに若い女性スタッフがいた。
「いらっしゃいませ」
明るい声で迎えてくれる。
「あの、この子を拾ったんですけど、診ていただけますか」
段ボール箱を見せると、スタッフの女性は優しい笑顔を浮かべた。
「まあ、可愛い。じゃあ、こちらの問診票に記入していただけますか」
手渡された用紙には、飼い主の情報と、ペットの状態を書く欄があった。
飼い主……。
私は飼い主じゃない。ただ拾っただけ。明日には、引き取り先を探すつもりで。
でも、欄には私の名前を書いた。
待合室には、他に二組の飼い主がいた。
一人は老夫婦で、膝の上に小さな犬を抱いている。
もう一人は若い男性で、大きなキャリーケースの中に猫を入れていた。
みんな、当たり前のように自分のペットと一緒にいる。
私もいつか、こんな風に当たり前に猫と暮らせるようになるんだろうか。
いや、違う。私は飼わない。飼えない。
そう思い直そうとしたとき、名前を呼ばれた。
「佐々木さん、どうぞ」
診察室に入ると、白衣を着た男性の獣医師が待っていた。
四十代くらいだろうか。優しそうな顔をしている。
「こんにちは。獣医師の田村です」
「佐々木です。よろしくお願いします」
箱から子猫を取り出すと、田村先生は慣れた手つきで抱き上げた。
「拾ったんですか?」
「はい、昨夜、コンビニの前で」
「そうですか。よく保護してくれましたね」
田村先生は子猫の体を丁寧に診察し始めた。
耳を見て、目を見て、口を開けて歯を確認する。
「生後二ヶ月くらいですね。女の子です」
「女の子、ですか」
「ええ。三毛猫はほとんどがメスなんですよ。オスの三毛猫は遺伝子の関係で非常に珍しくて」
へえ、知らなかった。
「栄養状態は良くないですが、命に別状はありません。ノミもいますね。駆虫薬を処方しておきます」
田村先生は優しく子猫を診察台に戻した。
「飼うんですか?」
その質問に、私は言葉に詰まった。
「まだ、決めてなくて」
「そうですか」
田村先生は少し考えるような表情を浮かべた。
「もし飼うなら、ワクチン接種が必要です。生後二ヶ月なら、そろそろ一回目を打つ時期ですね」
「はい」
「それから、この子はまだ小さいので、一日に三、四回は食事を与えてください。子猫用のフードとミルクがいいでしょう」
田村先生は丁寧に説明してくれた。
トイレのしつけのこと、爪とぎのこと、遊ばせ方のこと。
聞きながら、私は思った。
こんなに手がかかるんだ。やっぱり無理かもしれない。
「でも」
田村先生が言った。
「この子、佐々木さんに懐いてますよ」
「え?」
「ほら」
見れば、子猫は診察台の上から私の方をじっと見ていた。
そして、小さく鳴いた。
「みゃあ」
その声は、私を呼んでいるようだった。
「猫は、信頼できる相手を本能的に見分けるんです。この子は、あなたを選んだんですよ」
田村先生の言葉が、胸に響いた。
この子が、選んだ……私を。
病院を出る頃には、もう昼近くになっていた。
処方された駆虫薬と、購入した子猫用のフードとミルク、それからトイレ砂を持って、私は商店街を歩いた。
子猫は箱の中で、大人しくしている。
時々、「みゃあ」と鳴く。
その声を聞くたびに、胸が温かくなった。
ペットショップに立ち寄った。
猫用のトイレと、小さな爪とぎ、それからおもちゃをいくつか選んだ。
レジで会計をしながら、店員さんに「可愛い猫ちゃんですね」と言われた。
「ありがとうございます」
自然に、そう答えていた。
家に帰ると、すぐに子猫を箱から出した。
部屋の隅にトイレを設置し、リビングに爪とぎを置く。フードと水を用意して、小皿に入れた。
子猫はよちよちと部屋を歩き回り、新しい環境を確認しているようだった。
やがてフードの皿を見つけると、一目散に駆け寄ってきた。
そして、夢中で食べ始める。
その姿を見ながら、私はソファに座った。
明日、引き取り先を探そう。
そう思っていたはずなのに、今はその気持ちが揺らいでいた。
この子を、手放せるだろうか。
たった一晩しか一緒にいないのに、もうこんなに愛おしい。
食事を終えた子猫は、部屋中を探索し始めた。
カーテンに飛びつき、よじ登ろうとする。
失敗して落ちて、また挑戦する。
ソファの下に潜り込んで、何かを見つけたように「みゃあ」と鳴く。
テーブルの上に飛び乗ろうとして、ジャンプが足りずにずり落ちる。
その一つ一つの仕草が可愛くて、私は笑ってしまった。
こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。
最近、笑うことなんてほとんどなかった。職場でも、家でも。
笑顔を作ることはあっても、心から笑うことはなかった。
でも今、自然に笑っている。
子猫が、笑わせてくれている。
やがて子猫は疲れたのか、私のそばに来た。
膝の上に飛び乗ると、くるんと丸くなった。
「眠いの?」
優しく撫でると、小さな喉を鳴らし始めた。
ゴロゴロゴロ。
これが、猫の喉鳴らしか。
初めて聞いた。
こんなに可愛い音だとは知らなかった。
「ねえ」
子猫に話しかけた。
「あなたの名前、何にしようか」
子猫は目を閉じたまま、小さく鳴いた。
「みゃあ」
「そうだね。考えないとね」
外を見れば、また雨が降っていた。
梅雨。
五月雨。
この子と出会ったのは、雨の夜だった。
「つゆ、って、どう?」
子猫に聞いてみた。
「梅雨に出会ったから、つゆ。可愛いでしょ?」
子猫は答えない。
ただ、気持ち良さそうに喉を鳴らしているだけ。
「じゃあ、つゆね。よろしくね、つゆ」
そう言って、優しく頭を撫でた。
つゆは、小さく一回鳴いた。
それは、返事のように聞こえた。
次の日。
つゆをケージ代わりの段ボール箱に入れて、「すぐ帰ってくるからね」と声をかける。
つゆは不安そうに鳴いたが、私は後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
会社に着くと、田中先輩が心配そうに声をかけてくれた。
「佐々木さん、大丈夫?体調悪かったんでしょ」
「あ、はい。もう大丈夫です。ご心配おかけしました」
「無理しないでね」
優しい言葉が、少し胸に染みた。
席に着いて仕事を始めようとしたが、頭の中はつゆのことでいっぱいだった。
一人で大丈夫かな、寂しがっていないかな、トイレはちゃんと使えているのかな……。
気づけば、スマホでペットカメラを検索していた。
帰りに買っていこう。
定時になった。
いつもなら、周りの様子を伺いながら、帰るタイミングを逃していた。
誰も帰らない中で、一人だけ帰るのが怖かった。
でも今日は違った。
パソコンをシャットダウンし、荷物をまとめる。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
はっきりとした声で言った。
田中先輩が少し驚いたような顔をした。
「お、佐々木さん定時で帰るの?珍しいね」
「あ、はい。ちょっと、用事があって」
「そっか。お疲れ様」
あっさりと送り出してくれた。
こんなに簡単だったんだ。
今まで、どうして言えなかったんだろう。
家に急いで帰ると、玄関を開けた瞬間、つゆの鳴き声が聞こえた。
「みゃあ!みゃあ!」
段ボール箱の中から、必死に鳴いている。
「ただいま、つゆ」
箱を開けると、つゆが飛び出してきた。
私の足元にすり寄って、何度も鳴く。
「寂しかった?ごめんね」
抱き上げると、つゆは私の胸に顔を埋めた。小さな体が、温かい。
心が、満たされていくのを感じた。
誰かが、私を待っていてくれる。
誰かが、私の帰りを喜んでくれる。
それだけで、こんなに嬉しいなんて。
それから、生活が変わり始めた。
毎日定時で帰るようになった。
「猫がいるので」とは言えなかったが、用事がある事を伝えると、「気を付けて、お疲れ様」とすんなり答えが返ってきた。
今まで、残業を断ることがこんなに簡単だとは思わなかった。
理由があれば、ちゃんと帰れるんだ。
家に帰ると、つゆがいつも玄関で待っていた。
「みゃあ」と鳴いて、足元にすり寄ってくる。
その瞬間、一日の疲れが少しずつ溶けていく気がした。
つゆのためにご飯を用意して、トイレを掃除して、一緒に遊ぶ。
猫じゃらしを振ると、つゆは全力で追いかけてくる。
小さな体で精一杯ジャンプして、必死に捕まえようとする。
その姿があまりにも可愛くて、私は何度も笑ってしまった。
遊び疲れたつゆは、私の膝の上で眠る。小さな寝息を立てて、安心しきった様子で。
その温かさが、私の心も温めてくれた。
一週間が過ぎた頃、職場で変化があった。
給湯室でコーヒーを淹れていると、沙理が話しかけてきた。
「美月、最近元気になったね」
「え、そう?」
「うん。なんか、表情が明るくなった気がする」
そう言われて、少し驚いた。
自分では気づかなかったけれど、変わったのかもしれない。
「実は、猫を飼い始めたんだ」
「え!本当に?見せて見せて!」
沙理は目を輝かせた。
スマホを取り出して、つゆの写真を見せる。
遊んでいるところ、眠っているところ、ご飯を食べているところ。
気づけば、たくさん撮っていた。
「めちゃくちゃ可愛い!名前は?」
「つゆ。梅雨に出会ったから」
「素敵な名前。どこで出会ったの?」
私は、あの雨の夜のことを話した。
コンビニの前で鳴いていて、放っておけなくて連れて帰ったこと。
沙理は真剣に聞いてくれて、最後に言った。
「美月、優しいね。つゆちゃん、幸せだと思うよ」
その言葉が、嬉しかった。
「私の方が、幸せをもらってるよ」
本心から、そう答えた。
その日の午後、田中先輩が席に来た。
「佐々木さん、猫飼ってるんだって?」
「あ、はい」
「実は俺も猫飼っててさ。茶トラのオスなんだけど」
そこから、猫の話で盛り上がった。
田中先輩の猫は五歳で、すごくやんちゃなんだという。
家具をガリガリ引っ掻いて、よく怒られるらしい。
「でも可愛いんだよね。猫って不思議だよ。どんなに悪さしても、許しちゃう」
田中先輩は嬉しそうに笑った。
「つゆちゃんは、おとなしい?」
「いえ、結構やんちゃです。カーテンによじ登ったり、夜中に走り回ったり」
「ああ、子猫だもんね。元気が一番だよ」
そんな会話をしながら、私は思った。
こんな風に、誰かと笑いながら話せるなんて。
最近、職場で誰かと話すことすら怖かった。
何を話せばいいのかわからなくて、話しかけられても適当に返事をして、早く会話を終わらせたいと思っていた。
でも今は、楽しい。
つゆのことを話すのが、楽しい。
二週間が過ぎた頃、つゆは随分と大きくなった。
最初はよちよち歩いていたのに、今では部屋中を駆け回る。
ジャンプも上手になって、テーブルの上にも簡単に飛び乗れるようになった。
毎朝、私が起きると、つゆは枕元で待っている。
目が合うと「みゃあ」と鳴いて、顔を舐めてくる。
その感触がくすぐったくて、私は笑いながら起き上がる。
朝の準備をしていると、つゆはずっと後をついてくる。
洗面所、キッチン、クローゼット。どこに行っても、ちょこちょことついてくる。
「つゆは寂しがり屋さんだね」
そう話しかけると、「みゃあ」と返事が返ってくる。
出勤前、つゆに「行ってくるね」と声をかける。
つゆは玄関まで見送りに来て、寂しそうに鳴く。
「夜には帰ってくるから。いい子で待っててね」
頭を撫でてから、家を出る。
後ろ髪を引かれる思いだけれど、でも嬉しくもある。
帰りを待っていてくれる存在がいる。
それが、どれほど心強いか。
ある日、会社の休憩時間に、先輩たちの会話が聞こえてきた。
「最近、佐々木さん変わったよね」
田中先輩の声だ。
「うん。前はすごく暗い感じだったけど、最近は表情が明るい」
他の先輩の声。
私は、自分のことを話されているとは思わず、無意識に聞いていた。
「猫飼い始めたんだって。それで変わったのかな」
「かもね。ペットって癒されるもんな」
「定時で帰るようになったのも、猫のためなんだろ?前は遅くまで残ってたのにね」
「でも、仕事の質は落ちてないよ。むしろ、前より効率よくなってる気がする」
「そうそう。集中力が増したっていうか」
その会話を聞いて、私は少し驚いた。
そんな風に見られていたんだ。
そして、嬉しかった。
変わった。私は、変わったんだ。
つゆが、私を変えてくれた。
その夜、家に帰ると、つゆがいつものように玄関で待っていた。
「ただいま、つゆ」
抱き上げると、つゆは嬉しそうに喉を鳴らした。
ご飯を用意して、一緒に食事をする。
私は簡単に作ったパスタ、つゆは子猫用のフード。
食後、ソファに座ってテレビを見ていると、つゆが膝の上に乗ってきた。
丸くなって、目を閉じる。
その温かさを感じながら、私は思った。
もう、手放せない。
この子がいない生活なんて、考えられない。
つゆは、私の家族になった。
いつの間にか、そうなっていた。
でも、一つ問題があった。
アパートの管理会社だ。
私の住んでいるアパートは、ペット不可。規約に明記されている。
いつかバレる……そう思うと、不安だった。
でも、つゆを手放すことは考えられなかった。
どうしよう。
そう悩んでいた矢先、それは起きた。

