六月の雨は、いつまでも降り続いた。
傘を差して駅から会社まで歩く十五分間、私は毎朝同じことを考えていた。
今日も一日、どうやって乗り切ろうか。誰とも目を合わせずに、誰にも話しかけられずに、ただ静かに仕事を終えて帰ること。
それが私の唯一の願いだった。
入社三年目の六月。佐々木美月、二十四歳。
新卒で入った広告代理店の営業部で、私は今、完全に行き詰まっていた。

オフィスに着くと、すでに先輩たちが席についていた。
私は小さく「おはようございます」と言って、隅の自分の席に向かう。

「佐々木さん、おはよう」

隣の席の田中先輩が声をかけてくれたが、私は軽く会釈するだけで精一杯だった。
田中先輩は優しい人だけれど、今の私には誰の優しさも受け取る余裕がなかった。
パソコンを立ち上げ、メールを確認する。昨日送った企画書への返信はまだない。
クライアントからの連絡もない。
ただ社内の定例会議の案内だけが、無機質に受信トレイに並んでいる。
コーヒーを淹れに給湯室へ向かうと、同期の沙理と鉢合わせた。

「美月、最近元気ないね。大丈夫?」

心配そうに声をかけてくれる沙理に、私は「大丈夫」と答えた。
嘘だった。
全然大丈夫じゃなかった。
でも「大丈夫じゃない」と言ったら、きっと色々聞かれる。説明しなければならない。
それが面倒で、怖くて、私はいつも「大丈夫」と答えてしまう。

午後、部長に呼ばれた。

「佐々木、例の企画だけど」

 
部長の声は、いつも通り淡々としていた。

「クライアントから再提出を求められている。もう少し具体性を持たせてくれないか。明後日までに」
「はい、わかりました」

私は頭を下げた。
また修正…三回目の修正だ。
何が足りないのか、もうよくわからなくなっていた。
席に戻ると、隣の田中先輩が小声で「頑張って」と言ってくれた。
その言葉すら、今の私には重かった。

定時は六時だったが、誰も帰らない。
先輩たちは当たり前のように残業を続けている。
私も席を立てなかった。
企画書の修正をしなければならない。
でも、パソコンの画面を見つめていても、何も思いつかなかった。

時計を見れば八時を回っている。
お腹が空いたけれど、食欲はない。
九時、十時。
ようやく企画書の修正案を形にして、上司にメールで送信した。
返事が来るまで帰れない。
でももう限界だった。

「お疲れ様です。お先に失礼します」

小さく声をかけて、オフィスを出た。

外はまだ雨だった。
梅雨に入ってから、晴れた日をほとんど見ていない気がする。
毎日毎日、灰色の空。湿った空気。
終わらない雨音。
同じ毎日の繰り返しで、ここから抜け出せる日は来るのだろうか……?

傘を差して駅に向かう。
終電まではまだ時間があったが、このまま帰っても何もすることはない。一人暮らしのアパートには、誰も待っていない。冷蔵庫にはろくな食材もない。
コンビニに立ち寄ることにした。
自動ドアが開くと、冷房の効いた店内に入る。
棚を眺めながら、適当にカップスープとサラダを手に取った。
本当はもっとちゃんとした食事を取るべきなのはわかっている。でも、料理をする気力がない。

「お疲れ様です」

レジの店員さんが言った。
私より年下かもしれない。
この時間までコンビニで働いて、それでも笑顔で「お疲れ様です」と言える。
私には無理だ。

「ありがとうございます」

小さく返事をして、袋を受け取った。
外に出ると、雨が少し強くなっていた。
傘を差し直そうとしたとき、軒先から声が聞こえた。

「みゃあ、みゃあ」

小さな、か細い声だった。
見れば、コンビニの入り口脇、段ボール箱の陰に何かがいた。近づいてみると、それは子猫だった。
三毛猫だろうか。茶色と黒と白の毛が、雨に濡れてぺったりと体にくっついている。小さな体を震わせながら、必死に鳴いていた。

「みゃあ、みゃあ」

私を見上げて、また鳴く。
その目が、私の足を止めた。
飼えない……すぐにそう思った。
私のアパートはペット不可だ。
大家さんが厳しい人で、規約違反には容赦がないと聞いている。
それに、自分の世話だけで精一杯なのに、猫の世話なんてできるわけがない。
朝は七時に家を出て、帰りは毎日十時過ぎ。休日も疲れ果てて寝ているだけ。
猫に必要な愛情も時間も、私には与えられない。
通り過ぎよう。
そう思って、一歩足を踏み出した。
でも、また子猫が鳴いた。

「みゃあ」

その声は、雨音に消えてしまいそうなほど小さくて、弱々しくて、それでも必死に何かを訴えかけているようで、私は立ち止まる。
振り返ると、子猫はまだこちらを見ていた。じっと、動かずに。
その目に、私は何かを見た。
助けを求める目。信じようとする目。諦めていない目。
それは、私が失ってしまったものだった。
気づけば、私はしゃがみ込んでいた。
コンビニ袋を地面に置き、手を伸ばす。
子猫は少し警戒したように後ずさりしたが、逃げはしなかった。

「大丈夫だよ」

自分でも驚くほど優しい声が出た。
いつ以来だろう、誰かにこんな声で話しかけたのは。
ゆっくりと手を伸ばすと、子猫は鼻を近づけてきた。
小さな鼻で、私の指先の匂いを嗅ぐ。
そして、小さく鳴いた。

「みゃあ」

今度は、さっきまでとは違う声だった。
少しだけ、安心したような声。

「ごめんね、濡れちゃったね」

そっと体に触れると、びっしょりと濡れていた。
こんな小さな体で、どれくらいここにいたんだろう。
胸が締め付けられた。
この子を、このまま置いていけない。
明日、保健所に連絡しよう。
それまでの一晩だけ、せめて温かい場所で休ませてあげよう。
そう自分に言い聞かせながら、私は上着を脱いだ。
雨に濡れるのも構わず、子猫を優しく包む。
子猫は少し抵抗したが、すぐに大人しくなった。
私の腕の中で、小さく震えながら、それでも安心したように体を預けてくる。

「帰ろうか」

誰に言うともなく呟き、コンビニの袋を持つと私は立ち上がった。

アパートに着くと、そっと部屋に入った。
隣の部屋に気づかれないように、静かに。
照明をつけ、子猫を床に下ろす。濡れた体を拭かなければ。
バスルームからタオルを持ってきて、優しく体を拭いた。
子猫は大人しく、されるがままになっている。
疲れているのかもしれない。
拭き終えると、子猫は一回り小さく見えた。
それでも、濡れていた時よりはずっとましだ。

「お腹空いてるよね」

冷蔵庫を開けたが、猫にあげられるようなものは何もなかった。牛乳はあったが、猫に牛乳は良くないと聞いたことがある。
仕方なく、さっき買ったサラダのツナを少しだけ取り分けて、小皿に乗せた。
床に置くと、子猫はよろよろと近づいてきて、匂いを嗅いだ。そして、がつがつと食べ始めた。
よほどお腹が空いていたんだ。
その姿を見ながら、私は床に座り込んだ。
なんでこんなことをしているんだろう。
明日、保健所に連絡して、引き取ってもらう、それだけのことなのに。
でも、小さな命が目の前で必死に食べている姿を見ていると、胸の奥が温かくなるのを感じた。
いつぶりだろう、こんな気持ちになったのは。

ツナを食べ終えた子猫は、部屋の中を少し歩き回った。
警戒しながらも、少しずつ探索している。
やがて、私のそばにやってきた。
膝の上に、ぽんと飛び乗る。

「え」

驚いて声が出た。
子猫は膝の上で丸くなると、小さく一回鳴いた。

「みゃあ」

そして、目を閉じた。
私は動けなくなった。
膝の上の小さな温かさ、かすかに聞こえる寝息。
たったそれだけなのに、涙が出そうになった。
どうしてだろう。
ただの子猫なのに……明日には手放すつもりなのに。

でも、この温かさが、今の私にはたまらなく愛おしかった。