当てのない旅をしようと家を出て東京駅にやって来たはずが、嫌みを言った黒猫に恨まれ白猫の姿になってしまった。しかも、一日猫のお仕事を手伝うというよく分からない夢を、私は今見ている。

「お悩みを解決するのは、猫の勤めよ。ジョージはあの麗しさと心地のいい低音の声で、お店にやって来た悩めるお客様の話を聞いてあげるの」
「え? ジョージは聞くだけ?」
「淀んだ気持ちを聞いてあげることはとっても労力が要るのよ。ジョージは上手くコーヒーにその苦しさや辛さ、悲しみや憂いを閉じ込めてあげるの」
「コーヒーに?」
「そう。コーヒーは心を繋ぐ入り口。カップを手にして話し始めたお客様の心の中に、私が入り込むのよ」

 ハートがあの女性の横で眠っているように見えていたのは、彼女の心の中に入り込んでいたからだと教えてくれた。誰もいない解放された世界に、彼女はゆっくり心を開き始め、焦っていた気持ちや、行き場のない怒りを、すべて吐き出して、ハートと穏やかな時間を過ごしたらしい。時間にしてたった数十分。だけど、彼女からしてみれば出産から今日までの数年。苦しいことばかりじゃなかったこと、これからの未来があること、しっかり見つめ直すための優しい時間を過ごせたようだ。だから、彼女は笑顔で晴れ晴れとしたオーラを纏って帰っていったことを知った。

「なんか、すごいね」

 夢とはいえ、実際にこんな癒しをくれるカフェがあるなら、私も行きたいよ。気がついた時には手遅れだったなんてことになる前に、なにか大切なことに気が付けるかもしれない。

「ここにたどり着けるのは、切実に悩みを持っている人だけ。他人のために悩んでいるお客様が導かれるの」
「他人のため? 自分が悩んでいたら駄目なの?」
「自分のことなら自分で考えて選択すればいいのよ。他人は動かせない。選択肢はその人のモノだから。強要なんて出来ないし、その悩みに寄り添うことはすごく難しいの。さっきの彼女は、旦那の選択肢にすごく悩んでいた。このまま何もしないで旦那の選択に従うのか、ちゃんと話をして真実を確かめるのか。自分のためでもあるけれど、旦那や子供たちのために彼女はすごく、苦しんでいた。だから、ここへ導いたの」

 ハートが彼女が座っていた席をじっと見つめながら話す。

「外を歩いているとね、ものすごい数のオーラが飛び交っているんだ。一〇〇色の絵の具を一つ一つバケツに溶かして、全部をぶちまけたような」

 ジョージがカウンターの椅子に座って、透明なカップに入っている透明な液体を口にしながら眉を下げて悲しげに話し始める。

「一つ一つはとても綺麗なのに、全部が混ざり合ってしまうと、とてもじゃないけど外なんて真っ暗で歩けない。だから、僕はハートの力を借りてここに住んでいる。マオリさん、これは夢じゃない。現実だよ」

 さっきまで透明だと思っていたジョージが手にしているカップの中で、様々な色が混ざり合うのが見える。

「次のお客様が来店されたら、ぜひ悩みを聞いてあげてほしい。時に大きな悩みもあるけれど、ほとんどがほんの些細なことだ。だから、仕事熱心なマオリさんには難しくはないはず」

 ふんわりと微笑んで、ジョージはカップの中身を飲み干した。空になったカップはやっぱり透明だ。

「人の心の内を聞くって、大変だけどやりがいもあるのよ。なんて言ったって、最後は笑ってありがとうって感謝されることがなによりも嬉しいから。だから、私はこの仕事を続けているの」

 ハートの言葉は、まるで人間みたいだ。猫なんて自由で考えなしに生きているんだなんて勝手に思っていたけど、ごめんなさいって言いたくなる。
 私のこれまでの仕事に対する思いだって、なんだか通じることがある気がする。
 少し経って、ベルを鳴らしながらドアが開いた。

「こんばんは」

 不安そうにゆっくり入ってきた中年男性のお客様。オーラはそこまで濃くないから顔がよく見える。
 ソファーに丸くなって寝そべっていた私は、驚いて体を起こしたまま固まってしまう。思わず、会社に引き戻されたんじゃないかと錯覚してしまった。だけど、鏡を確認すると私は猫のままだ。なのに、店の中には芝田部長がいる。
 部長が、誰になにを悩んでいるというのか。部長には子供はいないけれど、奥様とは夫婦円満だとよく社員の間では噂になっていたし、仕事もできるし人望も厚い。本人が悩むとして、強いて言うなら目つきの悪さと少し口数が足りないことだろうか? でも、ここへは自分の悩みでは導かれないはず。

「今日はどうされました?」

 ジョージが、前回の女性と同じように優しく尋ねる。

「仕事の出来る部下を一人、失くしそうで不安になっていて。私がしっかりしていれば、彼女を追い詰めることもなかったかもしれないのにと、後悔しているんです」

 ジョージは芝田部長をカウンターの椅子へ案内してコーヒーを淹れ始めた。今見える部長のオーラは、灰色のモヤがかかっていて輪郭がはっきりしない。

「お客様がコーヒーのカップを手に取ったら、心に入り込めるわ」

 ハートが隣に座って、私に行けと言う様に顎を芝田部長の方に動かす。

「え、いや、待って。あの人あたしの上司で」

 部下にこんな弱みを見られるとか、嫌じゃないだろうか? つい、部長の立場を考えてしまう。私だったら嫌だ。どんなに気心が知れた友達だったとしても、こんな弱い自分は見られたくないから。

「弱さは誰しも持っているの。大丈夫。みんな必ず乗り越えられるから。私たちはそっと背中を押してあげるだけ。あとはお客様が選択するの。自分の選んだ道を。だから、マオリは癒しになってあげるだけでいいのよ」

 私が、芝田部長の癒しに?
 そっとカップに部長が手を触れる。一気に、部長を取り囲んでいたモヤみたいなオーラがコーヒーカップの中に溶け込んでいくのが視えた。一歩足を踏み出して芝田部長の席の隣に降り立ち、座って目を閉じる。
 音が消えた。さっきまで聞こえていた静かなクラシック音楽はもうなっていない。代わりに、遠くから波の音が聞こえてくる。どこからか、心地いい風が吹きつけてくる。心が穏やかになる。
 浜辺に座って遠くを眺めている芝田部長を見つけた。砂を踏みながら近づき、そっと隣に座った。

「私には、毎日休まず残業も苦にしないで働く優秀な部下がいるんだけどね」

 猫に語り掛けているからだろうか、いつもの部長とは思えないほどに柔らかい口調で言葉を続ける。

「数日前、突然長期休暇が欲しいと言い出してね。ついにこの時がきたかと、申し訳なくなってしまったんだよ」

 え、それって。もしかして私のこと?
 驚いてじっと部長を見つめるけれど、海の彼方から視線をはずさないまま芝田部長は続けた。

「彼女に頼りすぎてしまって、つい無理をさせてしまっていたんじゃないかと、いまさらになって後悔している。休暇を取ると言ってくれたのは嬉しかったんだ。だけど、思いつめたように長期休暇をなんていうから、もしかしたらこのまま戻ってこないんじゃないかと不安で。勝手なことだとは思っているけど、彼女がいないと私も会社も大変なことになるんだ。思いっきり長期休暇を楽しんだら、また戻ってきてほしいと願っているのだけど、彼女の選択に私は何も言えないことが、ただ悔しくて……」

 それきり、しばらく無言で真っ直ぐ前を向いていた芝田部長は、ゆっくり立ち上がって大きく深呼吸をした。

「心穏やかになれましたか?」

 ジョージの声にハッとして周りを見ると、私も部長もカフェに戻ってきていた。

「はい。明日からもまた、頑張ろうと思います」

 空になったカップを戻すと、芝田部長は帰っていった。モヤはすっかりではないけれど晴れているように感じた。たぶん、まだ少し心残りがあるんだろう。私の力では晴れ渡る空みたいなオーラに変えてあげられなかった。

「あの、ジョージの仕事ってお休みありますか?」
「え? 僕の休み、ですか? ありますけど……」
「お願いがあるんです」

 芝田部長のオーラを、もっとちゃんとスッキリ晴れさせたい。あんな風に私のことを思ってくれていたなんて知らなかったし、きっと私はもう戻ってこないとも思っている。
 せっかく長期休暇を取ったんだから、思い切り遊んで過ごしたかったのに、私には一緒に遊んでくれる彼氏どころか友達もいない。なんてさみしい。
 仕事ばかりの生活に未来のことを心配するのはいいけれど、目先の休みすら楽しめもせずに、順調にこなしてきた会社まで辞めるなんてありえないことだ。この長期休暇、目一杯楽しんで部長に安心してもらわないと。だから。

「ジョージ、あたしと一緒に旅に出てください!」

 驚いた顔をするジョージに、さらに頭を下げて私はお願いした。