「今日はどうされました?」
「仕事に育児に、少し疲れてしまって……その上、夫が浮気しているような気がして不安で……」
いきなり重い悩みを話し出す女性に聞き耳を立てる。距離があるのにとてもよく聞こえるのは、私が猫だからかもしれない。
結婚をしても、仕事はあるし育児もあるし、それなのに旦那が浮気? 信じられない。そんなの別れちゃえばいいのに。
漠然とそんなことを思ってしまう。私だったら、彼女と一緒にお酒を飲みながら旦那の悪口をめちゃくちゃ言って、カラオケで憂さ晴らしに付き合ってあげるのに。だけど、怒りの感情がこみ上がる私とは違って、お店の中はそんな騒々しさとは程遠く穏やかだ。
店長が、そっとカウンターの椅子に女性を案内する。そして、コーヒーのビターな香りが漂い始めた。
「ジョージの淹れるコーヒーは癒しの効果があるの」
寛ぐようにして尻尾を揺らし、黒猫がうっとりとした瞳で彼のことを見ている。
「……ジョージ?」
「彼のことよ」
ジッと彼から視線を逸らさないまま言われて、私はそうなんだと頷く。整った顔立ちにすらりと長い手足。二十代後半から三十代前半くらいだろうか? 若くも見えるし漂う色気が大人にも見える。少し怪しげな雰囲気のある彼にぴったりな名前だと思った。
「あなたは?」
「え?」
「あなたの名前」
こちらを向いた黒猫が吊り上がったままの目でジッと私を見つめてくる。
「……真織」
「マオリ? あら、素敵な名前じゃない」
「そう? ありがとう」
「私はハートよ」
「……ハート」
この店の名前を思い出す。
「ここはハートとジョージのお店なの?」
「そうよ」
ジョージが女性にコーヒーカップを差し出す。アンティーク調の高そうなカップ。あんな高級そうなカップでコーヒーなんて、私は飲んだことがない。
「彼女がカップを手にしたら、始めるわよ」
「……え?」
じっと、獲物を狙うみたいに体制を低くして、ハートは彼女を見つめている。
始めるって、何を? そう聞こうとしたのに、彼女がカップを手にしたとたんに、ハートが素早く動き始めた。彼女のすぐそばまで行き、隣に寄り添う。まるで、話を聞いてあげているみたい。ハートが何か彼女に話しかけているわけではないけれど、女性の表情が少しずつ穏やかになっていくのが分かる。
さっきまでの、泣くのを必死に我慢しているような、苦しくて辛そうな絶望的な表情も、眉間のしわが取れてにこやかになっていく。
猫にここまでの癒し効果があるのかと、驚いた。だけど、彼女は別にハートのことを抱くわけでもなく、撫でるわけでもなく、ゆっくりとコーヒーをたまに口にするだけ。それだけで、心は落ち着くものなのだろうか。
よく見れば、彼女は目をつぶり、まるで眠っているみたいだ。そして、彼女の横に座り込んでいるハートも。
「心穏やかになれましたか?」
ジョージがそっと声をかけると、止まっていた時が動き出したみたいに店内が明るくなった。観葉植物に囲まれた木のぬくもりを感じるあたたかい空間だ。先ほどの暗さが、まるで彼女の心の中だったんじゃないかと思ってしまう。
「ありがとうございます。私、ちゃんと旦那と話をしてみます。自分でやらなくちゃとばかり思って、今まで頼ったりしてこなかったから」
コーヒーを飲み終える頃には、彼女の顔には笑顔があった。
入ってきた時はあんなに暗く淀んでいたオーラを纏っていたのに。今は不思議なくらいスッキリと、彼女の周りは晴れ渡る青空みたいに清々しいオーラに変化している。
笑顔で店から出ていった彼女を見送り、戻ってきたハートに声をかけた。
「今の人、全然違うオーラを纏って帰って行ったね」
思ったことを言っただけのつもりが、目の前のハートは驚いたみたいに吊り上がって細かった瞳をまん丸にした。
「マオリ、オーラの変化が視えるのね?」
「オーラの、変化?」
「そう。私たちは、日常で悩める人々の淀んでしまったオーラを浄化するためにここにいるの」
「……え? なにそれ」
「マオリ、私に『あんたはいいね、自由で。ひとりでもなんてことない顔してさ』って言っていたでしょう?」
「……あ、う、うん」
「私だって、一人はさみしかったのよ。みんな誰しも誰かに支えられている。私は、ジョージに救われたの。だから恩返しがしたくて、ジョージと一緒にさみしさや悩みを抱えている人に優しさを届けるお仕事をしているの」
「お仕事……?」
「そう。ねぇ、マオリもここで働きなよ」
「え!?」
「なかなかいないのよ、人のオーラの変化に気が付ける人って。オーラが見える人は結構いるんだけど、変わる瞬間を感じ取れる人ってなかなかいないのよ。ジョージに話したらきっと即採用してもらえる」
食い気味に乗り出して話すハートに圧倒されていると、ふと思った。
あれ? 私、もう仕事は一旦休憩したくて長期休暇を勇気出して伝えたのに、休みをもらってもまだ新しい就職先に採用してもらえそうな夢を見ているの? それって、なんだかおかしい。しかも猫と話しているとか。いい加減そろそろ目を覚まさないと。
「現実に戻るのは、もう少し後でもいいんじゃないですか?」
「……え」
「せっかくですから、カフェハートフルのお仕事を一日体験していったらどうでしょうか?」
ジョージが楽しそうに微笑んで提案してくる。
「一日、体験?」
「次のお客様の癒しになってほしいのです」
「私が、癒し?」
いやいや、むしろ私が癒してほしいのだけど。せっかく休暇をとったのに、人のことを癒している余裕なんてないのだけど。
「やってみなよ。案外ハマるかもよ? 猫になりたいんでしょう?」
安易に勧めてくるハートは、嫌みを込めたみたいな細めた目でにやりと笑った。もしかして、あの時言った嫌みが跳ね返ってきたのかもしれない。
「分かった、一日だけね」
休暇は長期だし、これは夢だし、一日くらいなら。



