今日も空は晴れて気温も穏やか。なんて清々しい朝なんでしょう。いつも通りの時間に起きて仕事に向かう途中でそう思ったのは、ついさっきの出来事だと思うのだけど……
 窓の外は日がとっぷりと暮れて闇夜に街灯が煌めいている。夢中になって仕事をしていると、毎日これだ。気がつけば一日が終わっている。
 忙しさに追われて仕事以外のことを考える余裕もなくて、気がつけば三十歳目前。地元の友達は彼氏がいて、結婚もして、子供までいる。正直、羨ましいなぁ、なんて思う時期もあった。だけど、私は仕事が楽しいしやりがいも感じているから、別にいいやって思ってここまできた。
 でも。
 電源を落としたパソコンの画面。暗い中に映り込む自分の顔を見て、ゾッとした。

「え、やばくない? 私」

 下がる目尻と頬。への字に閉じた口元はやっぱりたるんでいる気がする。とっさに、重力に逆らうように両手で頬を持ち上げた。
 毎日疲れ果てて帰宅すると、シャワーだけ浴びて髪も乾かさずに寝てしまうことはしばしば。スキンケアはサボりまくり。若い頃はそれでも、あとから思い出したように化粧水や美容液を多めに入れ込めば、すぐに肌のハリは復活していた気がする。
 仕事中はパソコンの前で座りっぱなし。歩くのは家と職場の往復のみ。最近とっさの動きも鈍くなっている気がする。このままではいけない。
 仕事が楽しいなんて嘘だ。
 そりゃ、やりがいを感じて褒められたり、喜ばれたりしたら嬉しい。また頑張ろうって思える。だから続けて来れた。でも、言われたことを全部引き受けて、なんでも出来ますって感じで無理をして、そんなの限界が来るに決まっている。
 私には、休暇が必要だ。そう。もう私は限界なんだ。だから、思い切って上司に言う。これまで何度も言おうと思いつつも、勇気が出せずにいた言葉。

「部長、長期休暇がほしいのですが」
「え? 休暇? 長期の?」

 芝田部長がいつものキリリとした表情を、少しだけ和らげる。

「いいよ、別に」
「え……いいん、ですか?」

 絶対に「何を言っているんだ」と呆れられるか、怒られるかすると思って覚悟の上だったのに。
 想像もしていなかったオッケーの返事を頂いて、頭の中が混乱する。
 え? いいの? 本当に? でも、今「別に」って言ったよね? 私なんて別にいらないってこと? いくら信頼のおける芝田部長でも、それって酷い。
 こんなことなら、もっと早くちゃんと休みをもらっておけば良かった。なんだったんだろう。これまでこの会社に関わってきた年数は。
 一気に後悔が押し寄せてくる。

 夜道を歩きながら、途中のコンビニで買った酎ハイの缶を勢いよく開けた。静かな闇に、炭酸の抜ける音が響いた。

「ほんとお疲れ、私」

 胸の中でそっと、自分を労う。そして、歩きながら、考える。
 新しくできたテーマパークは、行かずにもう何年過ぎたんだろう。あの時はサキが誘ってくれたんだっけ。ハルナに連れて行ってもらったレストランは今もやっているのかな。ハンバーグがすごく美味しかったの今でも覚えてる。新作映画を映画館で久しぶりに観るのもいいかも。映画好きなマコを誘おうかな。
 ポケットからスマホを取り出して、明るくなった画面に目を細めながら最新映画情報を検索する。その前に、仕事が終わってもなんの通知も来ていないスマホに、いつも通りに虚しくなった。
 最近友達と会話のやり取りをしたのはいつだったかな。思い出せないくらいに過去のことだ。
 さっき思いついた友達の名前をスマホの中から探し出して、久しぶりから始まるメッセージを打ち込む。せっかく休暇を取るなら、誰かと一緒に過ごしたい。それぞれに予定が空いているか聞くことにした。だけど、既読は付くものの、すぐには返事が返ってこない。
 友達にメッセージとか、いつぶりだろう。最近は会社の人との事務的な会話しかしていない気がする。住み慣れたマンションに帰れば、適当にユーチューブで動画を流し見しながらご飯を食べて、お風呂に入って、そのまま寝落ち。私が好きなことって、ものって、なんだっけ? 自分でもよく分からない。
 スマホが震えてメッセージが届く。サキは子供の発表会があるからと断られ、ハルナは旦那の実家に行くからと返事が来た。残るはマコ。だけど、しばらく待って見ても返事はない。既読スルーってやつかもしれない。そりゃそうだ。何年も経てばみんな環境が変わる。彼氏がいたり、結婚したり、子供が出来たり。
 私だけが、その場に取り残されたみたいに置き去りだ。毎日忙しいを理由にその場でジタバタと足踏みをしているだけ。やっぱり少し、疲れた。
 見上げた空は真っ暗だ。曇っているわけじゃなさそうなのに、月どころか星すら見えない。

「さみしいなぁ」

 ポツリと呟いた声が誰かに届くわけもなく、私は酎ハイをちびちび飲む。ふと、前方に何かが歩いている気配がしてよく目を凝らして見た。
 真っ暗闇に溶け込むみたいに真っ黒な猫。光る点が二つ、こちらを向いたまま止まっている。
 なんだ、猫か。
 ホッとして足を進めると、警戒するみたいに黒猫はじっとこちらを見ている。

「あんたはいいね、自由で。ひとりでもなんてことない顔してさ。私も猫になりたーい」

 猫に八つ当たりとか、よくないって思う。だけど、寂しさから思わず声に出てしまって、なんの関係もない黒猫に嫌味を言ってしまった。
 ああ、情けない。
 ため息を吐き出した私を、ふうんっと見上げてから、黒猫はすぐに視線を逸らして歩いて行ってしまった。