その猫は、ある冬の朝、商店街の裏通りで見つかった。
 灰色の毛並みに、尻尾の先だけが黒く、まるでインクを落としたような模様の猫だった。
 「寒かっただろうね」
 声をかけたのは、古本屋を営む七瀬悠人(ななせゆうと)だった。店の前を掃除しようと(ほうき)を持ったまま、猫の前にしゃがみ込む。猫は警戒しながらも、悠人の手をこわごわと嗅いだ。
 その小さな震えを見て、悠人はためらいなくマフラーをほどき、そっと猫を包んだ。
 「よかったら、うちで温まっていきなよ」
 こうして猫は、古本屋の住猫となった。


 猫は「スミ」と名付けられた。尻尾の黒いしみを見て、悠人が思いつきでつけた名前だ。
 スミは本の匂いが好きらしく、よく詩集の棚の前に座り込み、まるで言葉を味わうように鼻をひくつかせていた。
 ときどき来る小学生の女の子は、「スミちゃん、今日のおすすめの本は?」と訊き、スミの座る棚から一冊を借りていく。
 悠人はそんな様子を見るたび、胸の内がじんわりと温かくなった。
 猫がいるだけで、店に流れる時間が柔らかくなる。
 そんなことを、彼はこの歳になって初めて知った。
 だが、スミが来る前の悠人は、もっと硬い表情をしていた。
 三年前、妻の美咲を病で亡くしてから、彼は笑うことを忘れていた。美咲と二人で守ってきたこの店を、ただ惰性で続けているだけだった。客が来ても機械的に対応し、閉店後はカウンターで酒を飲む。そんな日々の繰り返し。
 変わったのは、スミが来てからだ。
 朝、店を開けるとスミが窓辺で待っている。餌をやると、小さな声で鳴く。その日常の些細な営みが、悠人の心に少しずつ色を取り戻させていった。



 冬が終わり、春が来たある夜。
 悠人は店のカウンターで、閉店作業をしながらため息をついた。
 売り上げは下がり続け、家賃の支払いに不安があった。
 古本屋は人の温もりがあるが、数字は温まってはくれない。
 「もう、続けるのは難しいかもな……」
 ぽつりと漏らしたその時だった。
 ──だいじょうぶだよ。
 ふいに、耳元で声がした。
 驚いて辺りを見るが、誰もいない。ただ、スミが足元にいて、ゆっくりと目を細めていた。
 「……スミ? 今、声が……」
 ──だいじょうぶ。まだ、終わらないよ。
 そう聞こえた気がして、悠人は思わず笑ってしまった。
 疲れすぎて幻聴が聞こえたのだろう。それでも、不思議と心が軽くなる。
 スミは、まるで励ますように悠人の足に体をすり寄せてきた。
 その仕草が、美咲を思い出させた。
 彼女もいつも、悠人が落ち込んでいるときに、そっと寄り添ってくれた。言葉はいらない。ただ隣にいるだけで、心が軽くなった。
 「……美咲も、そうだったな」
 悠人はスミを抱き上げ、目を閉じた。
 もしかしたら、スミは美咲が送ってくれたのかもしれない。そんな馬鹿げた考えが、なぜか今夜は心地よかった。



 翌日、悠人は店の奥から使わなくなった机を引っ張り出し、「読書コーナー」を作った。
 「気に入った本をここで読んでください」と紙を貼り、スミの写真を添えて。
 すると、驚くほど人が増えた。
 大学生がコーヒーを片手に詩集を読み、小学生は宿題をし、老人は新聞を広げてスミを撫でる。
 「ここ、落ち着きますね」
 「スミちゃんに会いにきたんだよ」
 そんな声が、毎日のように聞こえた。
 店は、いつしか町の"あたたかい場所"になっていった。
 だが、変化はそれだけではなかった。
 ある雨の日、ずぶ濡れの青年が店に飛び込んできた。就職活動に失敗し続け、疲れ果てた表情をしていた。
 悠人はタオルを渡し、温かいお茶を淹れた。青年はしばらく黙って本を眺めていたが、やがてスミが膝に乗ると、ぽつりぽつりと話し始めた。
 「もう、何をやってもダメなんです……」
 悠人は静かに頷いた。
 「俺もそうだったよ。でも、ここにいてくれる奴がいるから、もう少し頑張れる」
 そう言って、スミの頭を撫でた。
 青年は何度か店に通い、やがて小さな出版社に就職が決まった。
 最後に訪れたとき、彼はスミを抱きしめて言った。
 「ありがとう。またきます」
 似たような出来事が、何度も繰り返された。
 失恋した女性。親と喧嘩した高校生。定年後の居場所を失った男性。
 彼らは皆、スミと悠人に会いに来た。そして、少しだけ元気になって帰っていった。
ほんとうの声
 ある夜、悠人はスミを抱き上げながら言った。
 「スミ、本当にありがとう。お前がいなかったら、この店は続かなかった」
 スミは目を細め、喉を鳴らした。
 ——ありがとうと言いたいのは、わたしのほう。
 また、小さな声が聞こえた。
 悠人は笑って首を振る。
 きっと気のせい。けれど、その"気のせい"が、人生を明るいほうへ導いてくれるなら——それでいい。
 ——あなたが拾ってくれたから、わたしは生きられた。
 ——あなたが笑えるようになって、わたしも嬉しい。
 幻聴だとしても、その言葉は確かに悠人の心に届いた。
 「そっか。じゃあ、お互い様だな」
 スミは悠人の胸に顔をうずめ、小さく「ニャア」と鳴いた。



 やがて一年が過ぎ、また冬が来た。
 スミは相変わらず詩集の棚の前で眠り、悠人は相変わらず静かに本を並べる。
 だが、店には新しい常連客が増えていた。
 その中に、かつて就職活動に悩んでいた青年もいた。彼は今、編集者として働いており、時折悠人に原稿を見せに来る。
 「いつか、この店のことを本にしたいんです」と、彼は言った。
 小学生の女の子は中学生になり、今度は弟を連れてくるようになった。弟もスミが大好きで、毎回同じ絵本を読んでもらっている。
 店の前を通りかかった老婦人は、ある日こう言った。
 「ここ、昔、私の夫が通っていた本屋に似てるの。懐かしくて、つい入っちゃった」
 彼女は今も、週に一度は訪れる。
 人と人、人と猫、人と本。
 それらが交わる場所で、小さな物語が毎日生まれていく。



 古本屋「七瀬堂」は、今日も静かなやさしさに満ちている。
 扉を開けた瞬間に漂う紙の匂い。
 陽だまりの中で丸まって眠るスミ。
 読書を楽しむ人々のささやき声。
 その真ん中で、悠人は静かに微笑んだ。
 猫と、人間と、本が混ざりあうこの空間は、誰にとっても少しだけ"心があたたまる場所"になっている。
 カウンターの隅には、美咲の写真が飾られている。
 彼女も、きっと笑っているだろう。
 ──ねえ、美咲。俺、やっと前を向けたよ。
 そう心の中で語りかけると、スミが目を覚まし、悠人の手に頭を擦りつけた。
 外では、また新しい季節が始まろうとしていた。