日本国は、現在とてもバチバチしている。人同士の戦争じゃなくて、主に妖怪との戦争で。だけど国の端っこのド田舎で「今日の洗濯干しも終わり」と呑気な事を言う私には、妖怪なんて他人事だと思っていた。
この日までは――
「春ノ助様でお間違いありませんか?」
「そうですが……」
着物ではなく、高そうな軍服を着こなす男性がやって来た。まだ若いのか、肌艶がいいし瞳のくすみもない。
「今日ここに参りました理由は――」
視線をそらさないまま、自分の肌を少し引っ張る。まだ私も十八歳で若いはずだが、両手を見ればアカギレはあるし、白っぽい粉もふいてる。歳の近い者同士でこれだけ差が出るものかと、落胆しながら干し終わったばかりの洗濯物を見る。
「――という事でして。清冬様と春ノ助様の婚礼の儀を執り行いますので、日登家のお屋敷へ来てください」
「婚礼の、儀?」
話を聞いていなかった、この人はなんて言った?聞きたいけれど青年は「行きますよ」と言って、来た道を戻っていく。まさか自分が結婚するなんて、ましてや日登家なんて――
日々妖怪退治を行う軍人たちとケガは隣り合わせだ。だが日登家が適切な治癒を行う。もちろんケガを消毒し包帯を巻いて何日も療養……なんて轍は踏まない。治癒に時間をかけていると、戦える軍人の数は妖怪たちより劣ってしまう。そのため早急に前線に戻さねばならないのだ。
だから一晩で治す。日登家の当主のみが使えるとされている「治癒能力」を使って。いくらケガの程度が重い軍人でも、翌朝には五体満足で前線に戻れるというのだから驚きだ。
「しかし日登家が、なぜ身分の低い私を?」
「自分でもお分かりなのでは?」
「全くもってわかりません」
「……」
絶対分かっているくせに――という視線を向けられた後。さっさと私に引導を渡すためか、青年は細部まで丁寧に説明を始める。
「あなたが十人ほど孤児を養っているそうですね。まだ喋れない幼子もいるとか」
「はい」と答える私の後ろには、家から心配そうに覗く二十の目。妖怪との争いで親を亡くした子供たちだ。見つける度に引き取っていたら大所帯になってしまった。
「十人も子がいれば、病気を患った数もすごいでしょう。しかし不思議なことに、あなたが町医者にかかる姿を近隣に住む者は見たことがない。もしや子供を殺めているのでは?と疑った町医者が、ある日こっそり家を覗いたそうです。
すると、まぁ不思議。熱にうなされていた子供は、あなたが子供に手をかざした瞬間、一瞬にして良くなったそうです。淡い青光りも出ていたとか。これは一体、どういう事なんでしょうねぇ?」
「……っ」
治癒能力を使えるのは日登家の当主だけのはずが、なぜか私も同じ力を使うことができる。しかも日登家が一晩かかって治すケガを、私はほぼ数秒で治せるのだ。
「なぜ青い顔を?こんな掘っ立て小屋に住んでいては〝見てくれ〟と言ってるものでしょう」
段々と口調がきつくなっている青年を見て頬を膨らませた後。「ならお願いがあります」と、青年のいう、見てくれと言わんばかりの我が家を指さした。
「私がいなくなれば、あの子たちは全員死にます。だから日登家の養子にして下さい。この条件を飲んでくださるなら、私はどこへでも行きます」
渋るかと思われたが青年は「そう言われてはね」と、あっさり頷いた。
「いいでしょう。お引越ししますよ」
「あ、ありがとうございます」
そして私と子供たち十人は引っ越しをする。
「わー、皆でおでかけなんて初めてだねぇ!」
「どこ行くのー?」
私たちが脱走しないようにか、一番後ろを歩く青年に視線を送る。目が合うと微笑まれた。なぜか怖気が走る。
そもそも、どうして日登家が私を娶るのだろう。私の力がなくとも、当主がいれば治癒は出来るのに――
と思っていたが、老いた元当主が布団に横になっている姿を見て愕然とした。なぜか、その手から治癒の糸が出ているからだ。どうして、治癒は現当主しか行えないはずでは?
「よう来た。あんたがすごい治癒力を持つ女子か?」
元当主、名前を日登干扇。
豪華な部屋、豪華な布団に横になっているが全く覇気がない。今すぐ命の灯が消えてしまいそうだ。だけど隣の部屋から「手当をお願いします」と軍人に言われると、寝転がったまま手を上げ、襖を閉めたまま軍人の治癒にあたる。
おかしい。日登家は当主が変わり、治癒も、干扇様ではなく現当主である息子がしている。そのはずなのに、どうして干扇様が治癒を? 元当主は無能力のはずだ。
疑念を抱いていると、干扇様が「こっちへ」と私を手招きする。近づくと、安心したように皺の笑みを深めた。
「ここに来たということは、清冬と結婚してくれるということか。それでは、ツツジ」
ツツジと呼ばれたのは、あの青年。干扇様が何を言いたいのか分かったのか、一礼して退室する。干扇様は変わらず話を続ける。
「まずは、お前さんの能力から説明してもらおう。どうして治癒能力が使える?」
逃げられるものではない。覚悟して、生い立ちを話す。
「私は生まれつき孤児でした。人に言えないような事をして生きてきましたが病やケガには勝てず、死にそうな時がありました。その時、自分の手から青い光が出たのです。体にあてると、嘘のように元気になりました。力が開花したのは、その時です」
「では家系ではないのか。ワシはてっきり日登家と同じ能力を持つ一族が現れたのかと思ってな。しかし、それなら話は早い」
干扇様は疲れやすいのか、話しの間にしばしば休憩をとる。別に急かす理由もないので待っていると、遠くで子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。別の部屋で楽しくしているようで安心する。
「実は、息子の清冬に問題があってな」
干扇様は「内密な話ぞ」と声を落とす。
「息子の清冬は治癒能力が全く使えない。当主が変わったというのに、ワシの力を与えることが出来ん」
「え……」
さっき干扇様が軍人を治癒していたのは無能な息子の代わり、ということ?
「隠居されたのに、その実は治癒を継続されていた、ということですか」
「そうじゃ。ワシとツツジとお前さんだけしか知らん」
だから先ほど襖を開けず治癒していたのか。軍人は、襖の向こうで清冬様が治癒していると思っているのだ。当主が治癒出来ない事実が広まれば、軍人の指揮が下がるばかりか、家がお取り潰しに合う。事実を公にしないのは懸命な判断だ。
「だがお前さんほどの力があれば、もしや清冬に力を与えられるのでは?と考えた。力が与えられなければ、その時は清冬の代わりに治癒をしてくれ。それがお前さんと清冬が婚姻する理由じゃ」
いわゆるお家の一大事。ツツジさんが「十人の養子の件」を即受諾したのも頷ける。
「この日登家のために尽くしてくれるか?」
「私の子たちが幸せに過ごせるなら、どんな事でも」
「うむ。ツツジ」
「はい」
部屋に戻ってきたツツジさんが、私の手をさらう。同時に、親指に鋭い痛みが走った。その指を強引に、ツツジさんが和紙へ押し付ける。血判だ。
「これで婚姻の儀は終わりです」
「え……」
白無垢も着ないまま?と驚いていると、ツツジさんが「仕方ないんですよ」とため息をつく。
「当主である清冬様はずっと不在です。修行を積めば能力は開花すると思っているらしく、血眼で体を鍛えているんですよ」
「それは……」
無意味では――と喉まで出かかった言葉を飲みこむ。すると干扇様が「ゴホッ」と音の悪い咳をした。かなりしんどそうだ。息子の代わりにご無理をされて、気の毒に。
「干扇様、今どれほどの人数を治癒されていますか?」
「三十人ほど。しかしまだ足りん。ケガ人は増えるばかりじゃ」
「では全て私に回してください。五十人……いえ、百人ほどなら同時に治癒出来ると思います」
「ひゃ……」
百人!?――干扇様とツツジさんが声を揃えたところで、干扇様から伸びている治癒の糸を切り、代わりに私の糸を伸ばす。
治癒の糸。皆には見えないけど、術者には見える。この糸を伝って、治癒の力がケガ人に移るというわけだ。
「本当は体に手を当てた方が治癒力は高いのですが、そうも言ってられないですね」
「お前さんの力は、本当に不思議じゃな。治癒能力を使う術者は、自分の生命力を削りながら対象者を回復させるという。かなりの数を治癒をしてきたワシは、見事にこのザマじゃ。しかしお前さんくらいの術者なら、命の心配をすることはないだろう。逞しい限りじゃな」
「干扇様を元気にしてあげたいのですが……老衰にだけは、この治癒は効かないですからね」
清冬様が治癒出来れば、もう少し干扇様は長生きできたはず。だけど干扇様は恨み言一つ言わずに、白髭を揺らして笑った。
「これで、やっと心置きなく眠れるわい。といってもお前さんの力は、強力ゆえに狙われる可能性がある。よく今まで無事だったものだ」
心配そうに私を見た干扇様だけど、背筋を伸ばして星座をする私を見てほほ笑んだ。
「だが安心せい。日登家に嫁いだ以上、お前さんの身の安全は保障しよう。そういえばまだ名前を聞いてなかったな」
「春ノ助です。孤児なので苗字はありません」
「フッ、男みたいな名前じゃな」
「よく言われます。幼い頃、すれ違った男性の懐から財布を盗みました。その財布の中に春ノ助と書いてあって……――いえ。何でもありません、ただの拾い名です」
目を瞑った干扇様は「そうか」としばらく黙った。そうかと思えば、「今日からお前の名は未春(みはる)だ」と言う。
「元々が拾い名であるなら、今さら名前を変えようが構わんじゃろ。清冬の妻でありながら男のような名前というのは、妙な噂が立つ」
「そうは言っても干扇様」
拳を握り、唇をはむ。次に畳につくくらい頭を下げた。
「できれば今の名前のままで、屋敷にいさせてくれませんか?」
無理な要求というのは分かっている。それでも私にとっては――と願ったが、やはり「無理だな」と干扇様。
「自分の名前が変わったからと言って、元の名前を忘れるわけではないだろう? その拾い名は、大切に胸に閉まっておくことだ。お前を見る限り、春ノ助という拾い名は〝いい思い出〟とは言えないようだしな。たまに思い出して、また閉まっておく。悲しい感情とは、それくらいでちょうどいいのじゃ」
「干扇様……」
そうなのだろうか。いや、例え違っていたとしても、忘れなければいい。ずっと胸にしまっておけば、その名前は心に刻まれるはずだから。
「素敵な名前をいただき嬉しく思います。これからよろしくお願いいたします」
「うむ。清冬がいない分、ここを頼んだぞ未春」
お辞儀をしてツツジさんと部屋を出る。どうやら私の部屋があるらしく、長い廊下を縦に並んで移動した。その時、ツツジさんが「どうでしたか」と私に尋ねる。
「ここでの生活、やって行けそうですか」
「何とかなると思います。干扇様もお優しいですし……」
「どうしましたか?」
黙った私に、前を見たままツツジさんが問う。「いえ」と、私は青い空を見上げる。
「私の親のように子を捨てる親もいれば、干扇様のように子のために命を削る親もいるんですね」
「干扇様は、もうあなたの親でもあります。それが婚姻ですから」
ツツジさんの物言いは淡々としているからか冷やかに聞こえるが、その実、相手を思いやっている言葉選びをしていると雰囲気から分かる。
「未春様には治癒を行ってもらいつつ、礼儀作法を勉強していただきます。いつ清冬様が帰ってこられてもいいように最短で会得していただきますので、そのおつもりで」
前を見たままツツジさんが話す。思ったよりも忙しくなりそうな日々に、「はい」と前を見据えて返事した。
そうして日登家で過ごして行くうちに、数ヶ月が経った。一日の流れも礼儀作法も慣れてきた頃だ。しかし一つだけ不思議なことがある。
「今日は血をもらいますからね」
「はい」
月に一回、ツツジさんは私の血を採ってはどこかへ届けているのだ。何に使っているんだろう?
きっと研究だろうと思っていた。
しかし私は忘れていたのだ。干扇様のお言葉を――
『お前さんほどの力があれば、もしや清冬に力を与えられるのでは?』
この言葉を思い出すのは、私が嫁いで三年経った日。
悔しくも干扇様のお命が尽きた、ちょうど一か月後。
「能力が手に入った今、もうお前は必要ない。俺と離縁してもらう」
その日。
私は、初めて旦那様とお会いした。
「能力が手に入った今、もうお前は必要ない。俺と離縁してもらう」
髪が肩まである黒髪の男性。高い鼻を視線でなぞっていくと、鋭い目つきと視線がぶつかる。口は真一文字に閉じられているものの、不機嫌そうに歪んでいる。
部屋で身支度を整えていると、声もなしにいきなり襖が開いた。随分と、いい着物を身に着けている。派手な柄が描かれた黒色の着物の下に、赤色の長襦袢。羽織は白色だけど、金色の装飾が両肩についている。その姿を見てすぐ、この方が私の旦那様、日登清冬様だと分かった。
だけど、さっきの発言はどういうことだろう?
『能力が手に入った今、もうお前は必要ない。俺と離縁してもらう』
契りを交わして三年。初めて会った旦那様から離縁を申し込まれた。真意が分からなくて、頭が混乱する。
「お、お初にお目にかかります、旦那様。妻の未春でございます。旦那様が家を不在にされている間、こちらのお部屋にて過ごしておりました。お会い出来て嬉しゅうござい……」
「俺の話を聞いてなかったのか? 離縁するから出て行けと言っている」
「あ……」
挨拶を遮られた。聞く気さえないということだ。私の存在など、気にも留めていないということだ。
離縁?出ていけ?日登家が力を欲したから、私はここにいるのに。様々な疑問が渦巻く中、それでも笑顔を張りつけ、おだやかな物腰でいるよう努める。
「恐れながら旦那様。現在、私は三百人ほどの治癒にあたっております。そんな中で私が不在になれば、傷ついた者たちは……」
「心配いらん。俺が引き継ぐ」
清春様は治癒能力が使えないのに、治癒を引き継ぐ?
首を傾げる私の前に、バラバラと小瓶が降った。私の血を採る時に、いつもツツジさんが持っていた物だ。それがどうして清冬様の手に?
「お前の能力、全てこの清冬が手に入れた。だからお前は用済みだ」
「まさか私の血を、自分の体内に……」
「入れてみたら上手い具合に融合した。今では、この俺も治癒を行うことが出来る」
言うや否や、私が張り巡らせている治癒の糸を、手刀でスパッと切る。その後、瞬時に自分で新たな糸を張り巡らせた。屋敷の雰囲気を察するに、ちゃんと治癒は継続されているようだ。
「ハッ、声が出ないほど悔しいか? 聞けばお前は元の身分が低いらしいな。この三年は実に優雅だったろう。一時の夢が散り果てるのが名残惜しいだろうな」
「……いえ」
この三年が優雅か、と言われたらそうでもない。確かに着るものも食べるものも困らなかったが、毎日治癒をして礼儀作法を習っていた。勉学に励んだことない私が机に向かうのは、それなりに苦労があった。それなのに旦那様にそのように言われては、こちらも立つ瀬がない。悔しい気持ちをグッとこらえ、恭しく頭を下げる。
「能力の開花、まことにおめでとうございます。確かに、私はもう必要ありませんね。婚姻の儀の時に血判を押しましたので、その紙を燃やしてください。それで離縁になりましょう。私は出て行きます。しかし一緒に来た十人の子供たちは、どうなりますか?」
「安心しろ。あの子らは引き続き日登家で面倒を見る。約束だからな」
「ありがとうございます。それでは旦那様、どうかお元気で」
手をついてお辞儀をする私を、清冬様は勝ち誇った眼差しで見下ろした。「しかし」と、私が顔を上げるまでは。
「私が去るということは、私の一部である治癒能力も一緒になくなるということ。というわけで旦那様、いえ清冬様、
私の能力、返していただきます」
「は?」と清冬様が口を開く前に抱き着き、隙間なく体を押し当てる。その際、耳元で騒々しい音がひっきりなしに聞こえた。これは……? 不思議に思って顔を上げると、なんと真っ赤な顔の旦那様。彼の心音が騒々しかったのだろうか。
「お前……無礼だぞ、何をする!」
「っ!」
力強く押され、なすすべなく畳の上をすべってしまう。驚いて清冬様を見上げると、眉間の皺を深くして怒っている。私に抱き着かれたのが、相当に嫌だったのだ。
「もうしませんのでご安心ください。能力は、確かに返していただきました」
「能力を返す? ハッ、何を言っているんだ。あんな抱擁で力が……」
清冬様は、自分の手の平を広げたり、閉じたりした。治癒の糸が切れていると、気づいたらしい。
「抱擁すれば能力は移動できるのです。清冬様が早く帰ってきてくだされば、この方法を教えてさしあげることが出来ましたのに、残念です」
「な……!」
意地が悪いことを言っている自覚がある。手八丁口八丁であるのに、あたかも端から知っているように話しているのだから。
さっき清冬様の体から、私の力が浮き出て見えた。だから無理やり私の体へ移動させようとした。もしかしたら能力が戻ってくるかもしれないと思ったから。反対を言えば、ただの勘に過ぎなかった。
きっと清冬様では「足りない」のだ。私の力を吸収しきれる身体ではない。そもそもの器が違うのだろう。なぜ私が強力な能力に耐えられる体をしているのか、その理由は分からないけれど。
「ご安心を。この屋敷に居るものの治癒は、引き続き私が行います」
怪我をしている軍人に非はない。干扇様との約束もあるし、ここに運び来まれるケガ人は引き続き、遠方から私が治癒しよう。
「再び治癒の糸を放ちました。ここにいる人たちの治癒は、私が継続して行いますのでご安心を。それでは」
「おい、待て。では結局、俺には!」
「治癒の力はございません。清冬様がもっとお優しければ、結果は違っていたかもしれませんがね」
「――っ」
悔しそうに顔を歪める清冬様の横を通り過ぎる。その時、ほのかにお酒の香りがした。……やっぱり修行だなんだと表向きは体裁のいいことを言っても、朝からお酒をたしなんだりと好きなことをしていたんだ。
頭の中に、布団から必死で治癒に励んでいた干扇様を思い出す。清冬様が能力さえ使えれば、干扇様はもっと長生きできたのに。
「お可哀想に、干扇様……」
小さく呟いた言葉は清冬様に聞こえていたらしい。血が滲むまで唇を噛み、私を睨んだ。まるで矢に串刺しにされたみたいだ。視線から痛みを覚えるなんて、初めてのことだった。
その後、部屋を出た私は一度も振り返ることなく、ツツジさんに事情を話して屋敷を後にする。事情を話す、というか全て知った上で私の血を採っていたのだから、今さら話すことも無い。でも清冬様が私を追い出すまでは寝耳に水だったらしく、最後に見た彼の顔は、酷く申し訳なさそうだった。
最後に「子供たちを頼みます」と告げ、元気なあの子たちの声を最後に屋敷を出る。あの子たちさえ元気なら、それでいい。
「そうだ。最後に……」
日登家の敷地から出る前に、干扇様のお墓を目指す。少し歩けば、立派なお墓に、鮮やかな花が添えられていた。その鮮やかさは、さっき清冬様が来ていた着物とそっくりだ。豪華な着物、あの人の言う通り、そもそも身分が違いすぎる。端から無理な結婚だったのだ。
「干扇様、あなた様の息子が帰ってきましたよ。代わりに、今度は私が出て行きますが」
息を吐くように笑うと、風の音と一緒に干扇様の笑い声が返ってきたような気がした。同時に、ほのかに香るお酒の匂い。
「さっき清冬様から香ったお酒と、同じ物?」
見ると、墓石の下からじわじわ乾いてきているものの、全体的に濡れた形跡がある。干扇様のお墓にお酒をかけてあげた?親子水入らずの時間を過ごしたのだろうか。
「一言でいい。お礼を言ってあげて欲しい。ひせん様は、いつも清冬様のために一生懸命だったから」
だけど放蕩者だと思っていた清冬様が、帰って一番に父・干扇様のお墓参りに来ていたことに驚く。そういう一面があるなんて。私には見せなかったけど、優しい所もあるのだと知る。
「だけど去り際に見えた顔は、怖かったな」
まるで敵を見る目だった。「妻だった者」とは微塵も思ってないみたいだ。清冬様の言う通り、夢みたいな3年間だった。私は誰にも聞こえない声で「お世話になりました」と言った後、日登家を後にした。
そして離縁から一週間後。
私が身を置いた場所は――
「初めまして、未春です。どうぞ、よしなに」
遊郭に身を落としていた。
といっても医者としてだ。女郎ではないため、客引きはしない。ここで働く人はお金がなく大変な生活を強いられているというのに、病気にかかることが多い。その人たちの助けになればと、医者と偽って住み込みで働いている。治癒が出来ればそれでいいのか、楼主も私のことは詳しく尋ねてこなかった。
「近くに寄れ、未春」
「……はい」
そんな私が、どうして「末春」と名乗って部屋に通されたか。それは店一番の花魁である花菊姉さんが出て来るまでの時間稼ぎを、急に任されたからだ。
「今回限りだよ、お願い」と日ごろからお菓子をたくさんくれる花魁姉さんからそう言われては首を横に振る事も出来ず、こうして助っ人にきているというわけだ。
だけど世の中は狭いとは、よく言うもので。
「ほぉ、身寄りがなくてついに女郎になったか」
「き、清冬様……」
妖艶な笑みを向けて私を出迎えたのは、元旦那様である日登清冬様だった。



