「あ、すみません。そろそろ帰りますか? ここの代金はオレが払います。親に今日のこと話した時に、ここで二人で何か食べていいから、代金を全部払いなさいと言われて、お金を多めに渡されたんです。買い物に付き合わせてしまったので、お礼です」

 そんなことを言われたら、受け容れるしかない。僕は頷き、

「じゃあ、ごちそうさまです」
「こっちこそ、一緒に楽器屋さんに行ってもらえて、本当に助かりました。ありがとうございます」

 会計を済ませて店を出た。細い道を抜けて通りに出ると、急に人が増えた。あの店は穴場なのかもしれない。

 駅まで送ってくれて、僕は「ありがとう」とお礼を言った。三屋(みつや)くんは俯き、少しの間黙っていたが、顔を上げると、

「先輩。お願いです。れ……」
「れ?」
「れ……」

 また言い淀む。僕は首を傾げて、「れ?」と繰り返した。三屋くんは、いつの間にか手を強く握り締めていた。

「先輩」
「はい」
「れ……連絡先を教えてください」
「連絡先」

 ……の、「れ」だったのか、と納得した。それにしても、連絡先とは。一度も訊かれたことのない、連絡先。初めて訊かれて、何だか嬉しい。僕は、何度も頷き、

「いいよ。じゃあ、三屋くんも教えて?」
「もちろんです」

 スマホを取り出して、連絡先を交換した。友達みたいだな、と胸が弾む。友達? 三屋くんにとって、僕はどんな位置づけなんだろう。あまり深く考えない方がいいかな、と思って、思考をストップした。

「それじゃあ、また月曜日にね」

 手を振ると、三屋くんは軽く頭を下げて、

「はい。月曜日に。今日はありがとうございました」

 どこまでも元・運動部員らしい折り目の正しさだ。それが、好感を持たせる。僕はもう一度手を振ってから、改札口を入っていった。

 電車を降りたタイミングで、通知音が鳴った。急いでメッセージアプリを開くと、「よろしくお願いします」とウサギが言っているスタンプが来ていた。僕は、「こちらこそ」と同じウサギが言っているスタンプを送った。それからしばらくやりとりをして、終わった。

 心が浮き立つっていうのは、こういうことだろうか。何だか、フワフワして楽しい気分だ。早く月曜日になってほしい、と本気で思っていた。

 そして月曜日。放課後、部活の為に音楽室に行くと、何だか空気がおかしかった。部員の半分くらいが来ていて、アルトホルンの三人は揃っていた。その三人に何か言っているのが、トロンボーンの宮田(みやた)くん。中学からやっているらしく、かなり吹ける人だ。同学年だけれど、レベルが全く違う。その人が三人に向かって、いったい何を言っているのだろう?

 戸川(とがわ)くんと西田(にしだ)くんは、宮田くんを止めようとしているみたいで、「まあまあ」とか言っているようだ。三屋くんは宮田くんに強い視線を向けていて、それがこの緊迫した空気を醸し出しているようだ。

 ドアのそばに立ち尽くしていた僕に、戸川くんが気が付いて、「あ……」と言った。その声を聞いて、ふと我に返った。

 戸川くんの視線の先を、他の三人も追ってきた。そして、僕は発見された。どうしていいかわからず、曖昧に笑ってみせた。宮田くんを、睨みつける勢いで見ていた三屋くんが、僕のそばに駆け寄ってきた。その真剣な表情に圧倒された。

斎藤(さいとう)先輩」

 大きな声で呼ばれ、体がビクッとしてしまった。三屋くんは僕を見つめながら、

「オレ、宮田先輩を許せません」

 三屋くんがそう言うと、宮田くんは怒鳴るように、
 
「何を生意気なこと、言ってんだよ。おまえら、喫茶店でデートなんかしてんじゃねーよ。気持ち悪いんだよ」
「宮田先輩。斎藤先輩に謝ってください。失礼すぎです」
「謝らねー。絶対に謝らねー」

 つまり、土曜日の買い物の後で喫茶店に行ったのを宮田くんが見ていて、そのことを非難してきている? 何で宮田くんに、そんな態度に出られなければいけないんだろう?

 僕は、大きめの咳払いをした。すると、(いか)れる二人の男子が僕を見た。僕は笑顔で、これまでになく堂々とした感じで、

「宮田くん。それのどこが、非難されなきゃいけないのか、僕にはわかりません。全然わかりません。気持ち悪いとか言う権利が、宮田くんにあるんでしょうか? 言われる覚えはありません」

 僕の発言に、宮田くんは目を大きく見開いた。よほどびっくりしたんだろうと察せられる。今まで何を言われても言い返せなかった僕が反撃したのだから、驚くのも無理はない。でも、僕は反省なんかしない。

「僕が誰を好きだろうと、三屋くんが誰を好きだろうと、宮田くんには関係ないし、干渉される覚えはないです」
「おまえ……」

 宮田くんは、小刻みに震えているようだ。よほど頭にきているんだろう。でも、僕は無視した。いつもの場所にカバンを置いて、楽器の準備を始めた。心臓は速く打っていた。でも、嫌な感じではない。言い返せたのが嬉しい。

 三屋くんは僕のそばに来ると、眉間に皺を寄せた。

「先輩、すみません。オレが買い物の付き添いを頼んだばっかりに、こんな……」

 僕は首を振った。

「三屋くんのおかげで、言いたいことを言えた。今までの僕は、かなり遠慮していたから。出来の悪いのは黙ってなきゃいけないって思ってて。君が僕に勇気を与えてくれたんだ。ありがとう」
「礼を言われるのは違います」
「あー、スッキリした。何だか、上手く演奏出来そうな気がしてきた」

 三屋くんは、黙ってしまった。僕は、自分の使っている楽器はその場に置いて、現在使われていないアルトホルンを楽器置き場から持ってきた。戸川くんたちに目配せすると、頷いてくれた。僕はそれを三屋くんに差し出した。彼は、「え?」と言って首を傾げた。

「これが君の楽器だよ」

 僕は、思い切り微笑んでみせた。