夏来る風

 ある日、のどかに香る春の風。いや、夏に近づいているのを知らせる春の風が私を私たちを通り過ぎていった。

  もう、習慣となってしまった午後4時の洗濯物の取り込みはいつもその日の風を感じさせてくれる。習慣と言っても高校生である私は、学校のない日に限る。
 ドサッ
 「はぁ………」
 ようやく取り終えた洗濯物をカゴからひっくり返す。
 家族3人分の洗濯物は少ないようで多く、多いようで少ない。そして、暑い。
 ミーン…ジジージジー…ササー…
 もう夏ではないかと思わせる外から聞こえてくる虫の鳴き声に風の音。夏が来るのが早まったような気がする。
 洗濯物を畳むのはあまり得意ではない。丁寧に畳まなければならず、私は大雑把な性格で、こういう作業は得意ではない。でも、母が綺麗好きな方なのでなるべく綺麗にしようと心がけている。
 虫の鳴き声と風の音しか聞こえない部屋で平和だなと思いながら淡々と洗濯物を畳み、やっと畳み終えたと思っても次は洗濯物を棚やタンスにしまい込みにいかなくてはいけない。
 その作業も終わり、一息つくため椅子に座ろうと思ったが、冷凍庫にアイスがあるのを思い出し、台所へ向かう。夏にはアイス必須だなと思いながら冷凍庫を見る。
 チョコアイスとシャーベット。
 どちらにしようか。チョコな気分だけどこの暑さならシャーベットを食べたくなる。
 「やっぱ、シャーベットかな〜」
 独り言を言いながら、シャーベットを手に取る。そして、さっき座ろうとした椅子に座った。
 それから1時間程、ニュースを見ながらボーッと過ごした。最近のニュースは物騒で、子供が虐待されているだの、通り魔があっただの、新たな感染症が流行り出しただの、目にも耳にも優しくなかった。少し下がっていく気分に不快感を覚えながら、テレビの番組を変えようと番組表を見る。この時間帯に特に見たいバラエティ番組やドラマもなく、そのままテレビの画面を暗くする。それと同時に、ピンポーンと家のチャイムが鳴る音がした。鳴らされたチャイムに、「はーい」と聞こえるはずもない返事をしながら玄関に向かう。
 ガチャっと開けた先にいたのは荷物を持った男の人だった。
 「宅配便でーす。ここは天野 弥羽子さんのお宅で合っていますでしょうか?」
 宅配便?それは母宛のようだ。そういえば朝から荷物が届くかもって母さんが言っていた気がする。
 「あー、はい。そうです」
 サインを求められ、「天野」と書く。字は歪んでいて、やっぱり自分の字は嫌いだなって思いながらペンを返す。荷物を受け取ると、それは少し重くて何を買ったのだろう思いながらリビングに運んだ。
 そんな、何事もない普通の日常が退屈で、でも心地が良かった。
 「ただいまー」
 母さんだ。2階に居ても聞こえる母さんの声は高くて大きい。それを合図に、やっていた課題を中断し、最後の3段はリズム良く降りながら、最後は着地する。
 ガラッとリビングに繋がるドアを勢いよく開けて母さん譲りの大きな声で言う。
 「おかえり母さん。宅配便来たよ〜!」
 言う前にすでに荷物を開けていた母さんに言わなくてもよかったみたいだが。
 「あら弥架、ありがとね」
 「どういたしまして~」
 何を頼んだのだろうか、気になって箱の中身をのぞきみる。
 <忙しい奥様に必見!簡単に出来るダイエット器具>
 そこに書いてあったのはまさかのダイエット器具。あの重さの正体はこれか。それに、母さんそんなに太ってないし、必要ないと思うんだけど。
 「あらやだ。見ちゃった?ちょっと最近運動できてなくて太っちゃったのよ」
 目を見開いてる私を見て母は照れながら手を頬にあて、困ったように言った。
 少し天然でお茶目な母親は未だに若々しい。友達からも「美人でいいな」とよく言われるものだ。自慢とは言わないがこの人が私の母さんで良かったと思う。
 「ただいま」
 玄関から声が聞こえた。父さんが帰ってきたようだ。
 「おかえり。もうすぐご飯ができるから、弥架食べる準備をしてちょうだい」
 「父さんおかえりー。はーい!」
 確かにお腹空いてきたなと思いながら、食べる準備に取りかかる。
 「おっ!今日は皿うどんか」
 いつの間にかリビングにいた父さんが機嫌よく言った。
 (そういえば皿うどんって父さんの好物だったっけ?私も好きだけどね。)
 ぼふっ
 「あぁ美味しかった~」
 夜ご飯を食べ終わり、自分の部屋のベットにダイブする。父さんがいたら牛になるぞって言われるやつだ。
 「明日から学校じゃん!」
 顔を上げ思い出したように言う。すぐにベットから降り、明日の時間割を確認する。そしたらまさかの明日提出の課題が終わってなかった。しかもかなりの量。嫌すぎる。
 「こういう時に頼りになる幼なじみがいるんだよね〜」
 さっそくあいつに連絡する。きっと終わらせているだろうあいつに。

 明日は月曜日の今日、午前中は部活をして帰ってきたが今は退屈だ。何をすることがなく、ぼーっと時が過ぎるのを待つ。ゲームでもしようか、なんて思ったが今日は何となくやる気が出ない。ただ、じっとしているのは性に合わず俺は、部活着のまま、スマホとイヤホンを持って、玄関に向かい、ランニングシューズを履く。そして、結局いつもと同じように走りに行く。
 最近ハマっているジャズを聴きながら、家の前に立つ。「清原」と書かれてある表札の横には「天野」と書かれている幼なじみの家。今日は何をしているのだろうか。
 彼女は、ただ、近くにいることが当たり前であり、気軽に話せる相手であり、心配になるくらい何か問題を起こすようなやつである。だが、休日に遊んだり、学校で一緒に行動したりするような仲ではない。今日は何もないといいが。軽く屈伸し、足を痛めないようにしっかり伸ばす。2回ジャンプするとそのまま、走り出す。
 俺は、この最初の駆け出しが心地いい。俺が動き出すと同時に、風が俺を貫く。夏を匂わせるこの風は、爽やかで、キツイ登り坂も凄く楽に感じさせる。
 そんな俺に、親友は、「うわぁ、ありえないわ。そんなこと言うのお前くらいでは?」と言ったのを覚えている。人それぞれが持つ感性で俺は、走るという行為が心地よく感じる、そんな感性を持っているのだろうと良いように解釈している。
 「ただいま」
 静まる空気に寂しく見えるこの空間は嫌いだ。
 両働きの両親はまだ帰っていない。今日も遅くなると言っていた。2個上の兄は大学生になり1人暮らしだ。だから、夜ご飯を自分で作らないといけないと思うと憂鬱になる。そんな気分も一緒に洗い流そうと、タオルで汗を拭きながら、シャワーを浴びようと思い、脱衣所に向かう。
 シャワーを浴びながら、思っていたより疲れている体に風呂にすればよかったなと思った。流れる水を止め、邪魔にならない程度に切った髪を、したたる水が顔にかからないようにかきあげる。鏡を前に見える額には、いつの日からかある傷が髪の根元から眉毛にかけて痛々しく残っている。この傷のことはほとんど覚えていない。唯一覚えているとしたらそれは……。
 突然鳴った電話音に思考が遮られる。画面を見るとそこには、「弥架」の文字。
 偶然なのか何なのか、また何かあったのかと、ため息をつきながら、電話をとる。
 「もしもし」
 『あ~那津也?』
 「ほかに誰がいるんだよ」
 『そだね~』
 そういいながら笑う声が聞こえた。分かっているなら聞くなよ。
 「で?何の用なんだ?」
 『あ~そうそう、明日の宿題教えてほしくてさ~。良ければ見せてくれてもいいんだよ?』
 そんなことだろうと思った。なぜなら何度目かとツッコミたくなるくらいこのくだりをしているからだ。
 「はぁ~分かった。教えてやるから、勉強道具持って俺の家に来い」
 『さっすが~!今から行くね~』
 ブチッ
 服を着て、脱衣所を出る。すぐにリビングのソファーに脱力するように座る。それと同時に、玄関が開く音がして、どたどたとこちらに近づく気配がする。
 「来たよ~!」
 相変わらず行動が早い幼なじみに苦笑いする。俺がだめだと言わないのはいいことに、すでに準備していたのだろう。
 「で、どこがわかんねぇの?」
 「書いていないところ全部」
 「はぁ?多すぎだろ」
 しかもそれは明日提出の宿題のようで、数学だ。いくつかは解いてあるがほぼまっさらだ。なんで数学ができないのかがわからない。まじふざけんなよと愚痴をこぼす。
 「って言いながら、教えてくれるの優しいよね~」
 「うざ、教えねぇぞ」
 「えぇ~ごめんって!」
 今日も明日も明後日もこんな変哲もない日常が送られていくんだろうなと、ただなんとなく思った。

 学校がない日は暇だ。進学校でもないので補習もない。宿題は前々から出ていた分は終わらせた。あと、半分ないくらいで、余裕がある。
 顔を洗って、見上げると、顔にある2つの翡翠が私を見る。私の瞳の色は生まれつきこの色だった。理由は、父方の祖父が外国人だったらしく同じ色の瞳だったという。祖父は一緒に住んでいない。どこにいるのか聞いても、祖母は優しく笑ったまま答えない。小さい頃は瞳の色が違うことを不思議に思っていて、からかわれることも多かった。
 そんな私を那津也が全部かばてくれていた。
 今はカラーコンタクトで隠している。今まで目立っていいことはなかったから。
 「はぁ~」
 思ったより早く起きてしまった朝、何をして暇をつぶそうかと考える。その時、あることを思い出した。
 久々に家の裏山にある祠のようなものの前を通り過ぎた時だった。いつもなら目もくれずに通り過ぎるのに、その日だけは違った。祠の隣に動物に掘られたような形跡があって、ちょっと気になってのぞいてみたら、さびついた箱が埋まっていた。手のひらより少し大きめな長方形の缶だった。
 開けようと思ったけど、さび付いていて開かなくて、とりあえず部屋に持っていって、そのまま放置していた。
 「確か、この辺に……。おっ!あった~!」
 椅子をひいて机の下を探ると、泥だけ落としてあるさびついた箱があった。開けようとするが、やっぱりさび付いたままで開くことはない。どうしようかと思ったが、道具を使ったり、足を使ったりしながら、なんとか開けることができた。
 気になる中身は、ロケットのペンダントに、便箋、そして1冊の本のようなものだった。本と言っても、紙の横に2つの穴を開けて、紐で通している、随分と古臭いものだった。
 ロケットのペンダントは少し煤が付いていたので、軽く拭いてみる。中は何が入っているのだろうと、無意識にも開けてしまった。そこには、若い男女のツーショット写真が写っていた。
 しかも、男の人は、少し父に似ている気がする。色素の薄い茶髪に私と同じ翡翠の瞳。すると、ある仮説に至る。
 「だとしたら、隣の女の人はおばあちゃん?」
 誰もいない空間に問いかける。
 ほぼ確信に近い結論だった。多分この男の人は私の祖父だ。初めて見る祖父にドキドキと心臓が鳴る。
 他に手がかりはないかと確認のために裏側を見ると、そこにはイニシャルのようなもの。その文字を読むことはできなくて、英語に似ているが違うどこかの言語。祖父の祖国の言語だろうと思って後で調べようと思いペンダントを置く。
 次に手を付けたのは、便箋。封をされていなく、しかも開けたという形跡もない。書いたまま送ってもいないのだろう。
 見ていいものだろうかと思ったが、好奇心に負けてしまい、中身を取り出す。そこには、折りたたんである1枚の紙と、3人の子供が写る1枚の写真。その写真を見たとき、「は?」と女子からぬ声が出てしまった。なぜならその写真には、私が写っていたからだ。まだ幼く、多分3、4才くらいの頃の写真だ。私の翡翠の瞳がばっちりと映り込んでいる。両隣には那津也と、私と同じ色の瞳を持つ人形のような見た目の同じ年頃の男の子が写っていた。いつの写真だろうか、まったく記憶にない。撮った場所は祠の前のようだ。祖父と私と同じ瞳の色を持つこの子は、親戚の可能性が高い。だけど、まったくその子を覚えていないのだ。
 那津也に知っているか聞きたいが、今日は部活があると言っていたので、明日家に行くことにした。一緒に入っていた1枚の紙は誰かに宛てた手紙だろか、文字はネックレスと同じように、日本語ではない言語。読むことができないのでこれも後回しにする。
 そして最後に、この1冊の本。
 結構月日が経っているようで、あちこちがボロボロになっている。表紙に書いてあるはずの文字は消えてもう見えなくなっていた。中を開くと、少し繋ぎ字になっている日本語。正直ほとんど読めないが、とりあえず読める分は読んでみることにした。
 『祠の先、異なる世』
 初めのページにあるこの言葉に私の目は釘付けになった。祠ってあの祠?異なる世って異世界?
 気になってパラパラとページをめくっていく。何か気になる絵や文字があったが、私よりわかりそうな那津也と一緒に読んだ方がいいだろうと思い、一先ず閉じてすべて箱にしまった。

 「ってことで、一緒に異世界行かない?那津也」
 「ってことで、じゃないだろ。普通に嘘だろ。異世界とかあるわけないし。漫画じゃねぇんだから」
 また、変な問題を持ってきた幼馴染にため息が出る。普通、異世界があるなんて信じるか?まぁ、こいつに限っては行けるか行けないかは別として試してみたいだけだろうけど。
 「ていうか、異世界がどうとかじゃなくて、俺はその写真の方が気になる。俺、その子のこと何も覚えてないんだが?」
 ただ単に幼すぎて忘れているっていう可能性もあるけど、こいつと同じ翡翠の瞳を持つなら、そう簡単に忘れることはないはずだ。
 「やっぱそうだよね~。私も何も覚えてなくて、誰だろうって感じ」
 あとは、そのロケットのペンダントとその手紙。中の二人は弥架の祖父母だとして、この文字。見たことがない。ただ知らないだけっていう可能性もあるけどな。
 「その文字は調べてみるか」
 そう言って、スマホを取り出し、その文字を写真で撮って、検索をかけてみる。しかし検索結果は0だった。
 近しいものが出てきたが、全く同じものは一切出なかった。
 「ないな」
 「ないね~」
 どことなくうれしそうな声に顔をしかめる。
 「やっぱり、異世界の文字なんじゃない?!」
 ほらやっぱりそうなった。うれしそうな弥架は無視して考える。否定はできない。あるかもしれない。もし、誰かがこの文字を作ったとしても、ここまでの完成度は信じてしまう。英語のような書き方で記しているが、文字一つ一つは共通する何かの文字。どこかの言語。英語を全く知らない日本人が初めて英語を見た時と同じような感じなのだろう。
 「たとえこれが異世界語だとしても、異世界にどうやって行くんだよ」
 「……さあ?」
 「さあって」
 「これから探せばいいんじゃない?」
 「お前、まじかよ」
 弥架の好奇心はそこを知れないなと思いながら、他に手掛かりになりそうなものがないか、箱の中を確認したり、手紙を解読してみようとしたりしたが、全く何もわからなかった。
 そして唯一日本語で書いてあるこの本。正直読みにくいが、弥架と読めるところだけ読みながらノートにメモを取る。
 「ごりょう?」
 「いや、御霊と書いてみたまと読むはず」
 御霊ってなんだ?幽霊でもいたのか。異世界っていうんだから、何がいてもおかしくはないと思うが、異世界が死後の世界とかだったら笑えない。そのほかにも、『あやうし』と書かれたページに見たことのない生物の絵が描いてあったり、地図のようなものがあったりした。地図はここ周辺のものではないように思える。
 「ねえ、これって……」
 俺が考えにふけっていると、弥架が何かを見つけたらしい。
 「翡翠……」
 俺たちはその言葉に顔を見合わせた。ロケットのペンダントを見たとき、一つの疑問があった。
 弥架の祖父。
 彼が弥架と同じ翡翠の瞳を持ち、誰も知らなかった弥架の祖父。日本人にはない色で、世界的に見ても鮮やかな翡翠。きっと外国人の血が流れていると思っていたが、もしそれが異世界人だったとしたら。
 「那津也、やっぱりさ、もしかしなくてもさ、おじいちゃんって、異世界の人なのかな?」
 「これが本当ならな……」
 文字が古くて専門知識のない俺達にはほとんど読めないが、絵と所々の漢字が示すヒントから、否定はできない。
 「異世界、行ってみたい」
 「まじで言ってるのか」
 「うん、まじ」
 こうなったら弥架は一人でも行ってしまうだろう。何があるかわからない異なる世界に。正直言ってほしくないし、危険すぎる。
 「危険だぞ」
 「うん」
 「何がいるかわからないし、もしかしたら何もないかもしれない」
 「うん」
 「本当に……」
 「那津也、無理しなくてもいいよ」
 俺の言葉を遮って俺に逃げ場を作ってくれる。いつもそうだ。俺が見守っているように見えて、本当は弥架の方がずっと強い。そんな弥架だから、目が離せない、いや目で追ってしまうんだ。
 強くて危うくて、少し遠い。
 「わかった。俺も行く」
 「そっか~」
 それから、俺たちは夏休みに二人で旅行に行くという名目で、異世界に行くことに決めた。

 夏休みに入る前に私たちは祠に行ったり、本を解読してみたりして、夏休みの旅行計画という名の異世界の旅行計画に向けて、ひそひそと準備を始めていた。
 「えっとつまり、入り口に手をかざせばいいってこと?」
 「そんなに単純なはずは……」
 そう言いながら那津也は本とにらめっこしている。那津也の部屋には古文の参考書や辞書にあふれている。私も集めるのは手伝ったけど、那津也がほとんど解読してくれている。古文が苦手な私は蚊帳の外にされているからだ。那津也が解読している間に、私は自分の家に何か手掛かりがないか探したけど、家族にバレないようにするのも大変で、停滞気味である。
 「この文字……というより何かのマークか?意味が分からねぇ」
 「どれ~?」
 「これだよ。文字に見えなくはないような……」
 「ん?それ見たことある気がする」
 「は?どこで?」
 「え~どこだったかな~」
 どこかで見たことがある気がした。珍しい柄だなと思ったような。最近見たような気もするし、昔見たことがある気もする。
 「祠だ!祠の上に似たようなの見た!」
 「よし!確かめにいくぞ」
 そうして祠に向かい、祠に生えている苔を手で剝がすようにとった。半分ほどしか見えなかったマークをよく見ると、本に載っているものと合致した。試しにそこに手をかざしてみても何も起こらず、私たちは一度帰ってもう少し解読してみることにした。ちなみに、那津也には不用意にやるなと注意されてしまった。
 「何かわかりそう?」
 「多分何かを唱えながら手をかざすんじゃないかな」
 「何を?」
 「それが書かれてないんだ。口伝だったのかもしれない」
 確かに、「唱ふ」と書かれている。何を唱えるというのだろうか。私には心当たりなどもちろんなく、本にも載ってないらしい。私たちの異世界旅行計画は早々に断ち切られるかもしれない。
 「また謎が増えたね~」
 「諦めてもいいけど」
 「それはないよ」
 私はどうしても気になってしまった。写真の少年も祖父のことも、そしてこの瞳を。なぜ隠されていたのか。小さいころ祖母には祖父はいないものだと教えられていた。祖父がいないというのは亡くなったという意味ではなく、ここにはいないということであればもしかしたらと。この瞳のルーツであり、私自身のルーツを探してみたいのだ。
 家に帰って、私は祖母の仏壇の前に座った。祖母は5年前、私が小学校6年生の時に病気で亡くなった。優しくて暖かい祖母が大好きで、いつも祖母の部屋で一緒に遊んだり本を読んだり、祖母の趣味である編み物をしたりしていた。私は編み物があまり得意ではなかったけど、優しく教えてくれた。祖父のことを祖母が話さなかったのには何か理由があったのだろう。
 「それでも、知りたいんだ、おばあちゃん」
 見守っててくださいと心の中でつぶやく。白檀の香りに包まれながら、祖母の優しい手の感触を思い出していた。
 「あら、珍しいわね」
 「母さん、うん、ちょっとねー」
 仕事終わりの母が帰ってきたらしい。特に詮索することなく、そのまま夜ご飯の準備を始めていた。
 「何も聞かないの?」
 「あなたが何かするときはおばあちゃんのところ行くじゃない?でもそれが、悪いことだったことは一度もないのよ」
 母は気づいていたのだ。好奇心が強い私を自由にさせてくれていても、私のことを見ていなかったわけじゃない。見守ってくれているんだ。料理する母の背中に声に出さずともありがとうと伝えた。
 仕事帰りの父がお風呂に入り、夕食を食べ終わった後、私はカラコンを外して脱衣所に向かった。鼻歌を歌いながら、頭や顔、身体を洗う。洗い終わった後、頭からお湯をかぶって、風呂に浸かった。
 「ふわー」
 あったかい。身体中に温かさが行き渡る。お風呂に入るのは面倒くさくても、浸かってしまえば気持ち良い。そのまま気分が良くなって、かすかに鼻歌が漏れる。
 「『~♪~~♪』」
 どこの国のか分からない短い歌を祖母がよく歌っていた。気づいたら覚えていて、一緒になって歌っていた。記憶の中で、祖母の心地よさそうな姿を思い出しながら、これがあの祠の鍵なのかもしれないという、確信めいたものが私の中にはあった。

 「那津也、準備はおけい?」
 「おけい」
 私たちは祠の上に手を置く。知りたかった祖父のこと瞳のことの手がかりを見つけてからここまで長かったようで短かった。私は、祖母の笑顔を思い出しながら、ふぅっと息を吐く。
 「『~♪~~♪』」
 歌い終わると私たちは光に包まれる。那津也と顔を見合わせて目をつぶり、離れてしまわぬよう手を握る。光が収まって目を開けると、私たちは森の中にいて、そばには祠と大樹があり、さっきとは別の場所に移動していることが分かった私たちは前へと足を踏み出した。