朝の光が窓から差し込むころ、三毛猫はすでに起きていた。
窓辺で毛づくろいをしながら、時折こちらを振り返る。
「おはよう。」
声をかけても返事はない。
ただ、一呼吸だけこちらを見て、また毛づくろいに戻る。
その自然な距離が、不思議と心地よかった。
キッチンで朝食の支度をしていると、三毛猫が足元をするりと通り過ぎた。
思わずしゃがんで撫でようとすると、三毛猫はさっと離れ、テーブルの下に隠れる。
「ごめん。」
小さく謝ると、三毛猫は暗がりからじっとこちらを見ていた。
怒っているわけではなく、ただ触れられたくないだけ。
そう思うと胸が少しだけきゅっとした。
その距離感に、わたしはふと過去の自分を思い出した。
――
職場では、いつも笑顔でいなければならなかった。
どんなに疲れていても、どれほど心が摩耗していても、「大丈夫です」と答えていた。
上司の頼みを断れず、同僚の仕事まで引き受けて、帰宅する頃には足取りが重かった。
弱音を吐けばよかったのに、その勇気がなかった。
「無理しなくていい」と言われても、無理をしている自覚すらなかった。
いつの間にか心のどこかで糸が切れはじめていたのに、気づかないふりをした。
ある朝、身体が動かなくなった。
ベッドから起き上がれず、会社に電話をかける指先が震えた。
それでも「迷惑をかける」という思いが頭をよぎり、涙が止まらなかった。
――
コーヒーを淹れていると、三毛猫がテーブルの下から出てきた。
香りに誘われたのか、キッチンの入り口にちょこんと座り、じっとこちらを見ている。
「飲まないよね。」
冗談まじりに声をかけると、三毛猫は首をかしげるように小さく傾けた。
その仕草が可笑しくて、息が少しだけ軽くなる。
無理に近づかず、無理に離れず。
ただ、そこにいる。
その関係が、今のわたしには心地よかった。
――
昼過ぎ、洗濯物を干していると、三毛猫がベランダに出てきた。
揺れる洗濯物を見つめながら、手すりの上を慎重に歩く。
「危ないよ。」
声をかけると、三毛猫はぴたりと足を止めた。
けれど降りる気配はなく、手すりの端に座って遠くの景色を眺めはじめる。
わたしも隣に立ち、同じ方向を眺めた。
淡く霞む山並みに風が通り抜け、髪がゆるく揺れた。
「ここが好きなんだね。」
三毛猫は答えない。
ただ静かに目を細め、風を受けていた。
――
夕方、買い物から帰ると、三毛猫はソファで丸くなって眠っていた。
そっと隣に座り、本を開く。
文字を追っているだけでも、不思議と穏やかな時間だった。
しばらくして三毛猫が目を覚まし、伸びをする。
そしてふいにわたしの膝に前足をのせてきた。
驚いて動けないまま、三毛猫は頬をこすりつけてくる。
柔らかな毛並みが手の甲に触れ、胸の奥が温かくなった。
「……ありがとう。」
その言葉に、三毛猫はまっすぐこちらを見つめていた。
――
夜、布団に入ると、三毛猫が足元へやってきた。
昨日よりも近い場所で丸くなる。
「一緒に寝てくれるの?」
返事はない。
ただ静かな息が、足先へそっと伝わる。
その温もりだけで、胸の奥がまたひとつ軽くなった。
――
翌朝。
目を覚ますと、三毛猫はいなかった。
キッチンの窓が少しだけ開いていた。
「そっか……自由なんだね。」
部屋はいつもより静かだった。
少しだけ寂しかった。
それでも帰り道、わたしは猫缶を買った。
もしかしたら、また来てくれるかもしれないから。
夜、布団に入ると、足元が冷たかった。
「おやすみ。」
静かに言葉を落とす。
涙は出なかった。
三毛猫が教えてくれたことを、少しだけ理解しはじめていた。
距離があってもいい。
いつも一緒でなくてもいい。
それでも確かにそこにいた時間は、消えない。
そう思いながら、わたしはゆっくりと目を閉じた。
窓辺で毛づくろいをしながら、時折こちらを振り返る。
「おはよう。」
声をかけても返事はない。
ただ、一呼吸だけこちらを見て、また毛づくろいに戻る。
その自然な距離が、不思議と心地よかった。
キッチンで朝食の支度をしていると、三毛猫が足元をするりと通り過ぎた。
思わずしゃがんで撫でようとすると、三毛猫はさっと離れ、テーブルの下に隠れる。
「ごめん。」
小さく謝ると、三毛猫は暗がりからじっとこちらを見ていた。
怒っているわけではなく、ただ触れられたくないだけ。
そう思うと胸が少しだけきゅっとした。
その距離感に、わたしはふと過去の自分を思い出した。
――
職場では、いつも笑顔でいなければならなかった。
どんなに疲れていても、どれほど心が摩耗していても、「大丈夫です」と答えていた。
上司の頼みを断れず、同僚の仕事まで引き受けて、帰宅する頃には足取りが重かった。
弱音を吐けばよかったのに、その勇気がなかった。
「無理しなくていい」と言われても、無理をしている自覚すらなかった。
いつの間にか心のどこかで糸が切れはじめていたのに、気づかないふりをした。
ある朝、身体が動かなくなった。
ベッドから起き上がれず、会社に電話をかける指先が震えた。
それでも「迷惑をかける」という思いが頭をよぎり、涙が止まらなかった。
――
コーヒーを淹れていると、三毛猫がテーブルの下から出てきた。
香りに誘われたのか、キッチンの入り口にちょこんと座り、じっとこちらを見ている。
「飲まないよね。」
冗談まじりに声をかけると、三毛猫は首をかしげるように小さく傾けた。
その仕草が可笑しくて、息が少しだけ軽くなる。
無理に近づかず、無理に離れず。
ただ、そこにいる。
その関係が、今のわたしには心地よかった。
――
昼過ぎ、洗濯物を干していると、三毛猫がベランダに出てきた。
揺れる洗濯物を見つめながら、手すりの上を慎重に歩く。
「危ないよ。」
声をかけると、三毛猫はぴたりと足を止めた。
けれど降りる気配はなく、手すりの端に座って遠くの景色を眺めはじめる。
わたしも隣に立ち、同じ方向を眺めた。
淡く霞む山並みに風が通り抜け、髪がゆるく揺れた。
「ここが好きなんだね。」
三毛猫は答えない。
ただ静かに目を細め、風を受けていた。
――
夕方、買い物から帰ると、三毛猫はソファで丸くなって眠っていた。
そっと隣に座り、本を開く。
文字を追っているだけでも、不思議と穏やかな時間だった。
しばらくして三毛猫が目を覚まし、伸びをする。
そしてふいにわたしの膝に前足をのせてきた。
驚いて動けないまま、三毛猫は頬をこすりつけてくる。
柔らかな毛並みが手の甲に触れ、胸の奥が温かくなった。
「……ありがとう。」
その言葉に、三毛猫はまっすぐこちらを見つめていた。
――
夜、布団に入ると、三毛猫が足元へやってきた。
昨日よりも近い場所で丸くなる。
「一緒に寝てくれるの?」
返事はない。
ただ静かな息が、足先へそっと伝わる。
その温もりだけで、胸の奥がまたひとつ軽くなった。
――
翌朝。
目を覚ますと、三毛猫はいなかった。
キッチンの窓が少しだけ開いていた。
「そっか……自由なんだね。」
部屋はいつもより静かだった。
少しだけ寂しかった。
それでも帰り道、わたしは猫缶を買った。
もしかしたら、また来てくれるかもしれないから。
夜、布団に入ると、足元が冷たかった。
「おやすみ。」
静かに言葉を落とす。
涙は出なかった。
三毛猫が教えてくれたことを、少しだけ理解しはじめていた。
距離があってもいい。
いつも一緒でなくてもいい。
それでも確かにそこにいた時間は、消えない。
そう思いながら、わたしはゆっくりと目を閉じた。
