朝、目を開けた瞬間に、胸の奥がうすく鈍く痛んだ。
いつからこうなったのか思い返そうとしても、思考の輪郭はぼやけて、霧に溶けていく。

アパートの天井には細いひびが走り、そこに射し込む光だけが静かに形を変えていた。
その光をぼんやりと眺めながら、わたしはゆっくり起き上がる。
寝返りを打つたび、布団の中の空気がひんやり動き、胸の奥の小さな「ほころび」がきしむように疼いた。

洗面台の鏡には、疲れが薄く貼りついた顔が映っていた。
まばたきのたびに、どこかで糸がぷつりと切れそうで、深く息を吐く。
髪をまとめる手元がわずかに震え、結び目がうまく決まらない。

「今日は、これでいい。」

誰のためでもない言葉なのに、どこか申し訳なさを含んでいた。

キッチンには、昨夜洗い忘れたコップが静かに横たわっている。
触れると薄く水滴が残っていた。
昨日の自分がどれほど疲れていたかを、ようやく理解する。

コップを洗うと、ぬるま湯が指先を包み、その一瞬だけ心がほんの少し温まった。

外は夕方の気配が近づき、アパートの外廊下にオレンジ色の光が伸びていた。
買い忘れた牛乳を求めて階段を降りたときだった。

踊り場の影が、いつもより濃い。
その暗がりの端に、小さな三毛猫が座っていた。

まだ子猫にも見える細い体。
三つの色は雑然と混ざり合うのではなく、そっと寄り添うように重なっていた。

こちらに気づいたのか、三毛猫はわずかに顔を上げ、じっとわたしを見つめた。
その瞳は驚くほどまっすぐで、何かを訴えるようでもあり、ただ静かに見ているだけのようだった。

手を伸ばすと、三毛猫はするりと一歩だけ後ろへ下がる。
逃げるわけではない。
触れられそうで触れられない距離を、そっと保つような動きだった。

胸の奥が小さく揺れた。
それは、過去のどこかで失ったはずの感情の欠片が目を覚ましたような瞬間だった。

「……どうしたの?」

思わず声に出すと、三毛猫はゆっくり瞬いた。
拒むでも近寄るでもなく、ただ「そこにいる」だけの、静かな肯定。

その距離を保ったまま、三毛猫は階段の影に身を沈めていった。
わたしはしばらく動けず、伸ばした手を宙に残したまま、その小さな影を見送った。

牛乳のことを思い出したのは、ほんの数秒あとだった。
買い物に行く理由は変わらないのに、胸の奥はさっきより微かに温かい。
気づけば、わたしは階段を上り直していた。

「今日は、帰ってもいいのかもしれない。」

小さな三毛猫の瞳が、壊れた糸の端をそっと拾い上げたような気がした。

――

翌朝。
目覚めると同時に階段へ向かった。
昨夜見た三毛猫のことが、眠っている間もどこかに引っかかっていたのだ。

踊り場の隅に、やはりいた。
昨日と同じ場所で、昨日と同じように座っている。
薄い朝の光が差す中、三毛猫は目を細めてこちらを見ていた。

「また、いたんだ。」

声をかけると、三毛猫は耳をぴくりと動かした。

コンビニで買っておいた猫缶を取り出し、階段の隅へそっと置く。
わたしが数歩離れると、三毛猫はようやく近づき、匂いを確かめてから食べはじめた。

その小さな口元を見ながら、わたしは壁にもたれて座り込んだ。
階段の冷たさが膝裏に伝わる。

三毛猫は食事を終えると、缶の縁を丁寧に舐め、顔を上げてこちらを見た。

「お腹、すいてたんだね。」

自分の声が、少しだけ柔らかく感じられた。

三毛猫は缶の横に座り、しばらくじっとこちらを見つめた。
まるで何かを確かめるように。
そしてふいに立ち上がると、階段を一段だけ上り、わたしの斜め前に腰を下ろした。

触れられる距離ではない。
でも、昨日より近い。

「そこにいるんだね。」

つぶやくと、三毛猫は目を細めた。
そのまましばらく、わたしたちは何も言わずに階段に座り続けた。

風が通り抜け、遠くで洗濯物を干す音がした。
日常の音が、今日はいつもより少しだけ優しく聞こえた。

――

その夜、夕食の支度をしていると、玄関の隙間から小さな影が滑り込んできた。
振り返ると、三毛猫がそこにいた。
まるで当然のように部屋を見渡し、ゆっくり歩いて窓際のカーテンの影に身を沈めた。

水を皿に注いで床に置くと、三毛猫はしばらくしてから近づき、静かに水を飲みはじめた。

「ここにいても……いいの?」

問いかけると、三毛猫は顔を上げ、静かな光を宿した瞳でわたしを見た。
拒絶も懇願もない、ただそこにある静けさ。

無理に触れなくていい。
無理に近づかなくていい。
ただ、そこにいてくれる。

それだけで、部屋の空気が少しだけ温かくなった気がした。

――

夜。
布団に入ると、三毛猫は部屋の隅で丸くなった。
こちらを見ているようにも、眠っているようにも見える。

「おやすみ。」

小さくつぶやくと、三毛猫の耳がぴくりと動いた。
それが返事に思えて、わたしはそっと目を閉じた。

久しぶりに、誰かと同じ空間で眠る夜だった。
その存在が遠くにあるのに、確かにそこにいる。

胸の奥の「ほころび」はまだ痛む。
けれど今夜は、その痛みを少しだけ忘れられそうだった。